第9話
## 9
紳士が三つ数え終わると同時に、僕は男の懐に飛び込んだ。
金属バットを触る。
満月の光で明るかった夜の砂浜が、一瞬で暗くなった。
見上げれば巨大な何かが見えた。
それが何かと考えたときには、僕は圧し潰されていた。
質量がうんぬんという話であれば、金属バットと同じくらいの重さの魚にならないといけないのでは? そんなことを今さらではあるが思いつつ、僕は死んだ。
「死んでしまいましたね。ちなみに、あの生き物はシロナガスクジラというそうです」
クジラ。地球上でもっとも大きな生き物。しかし、
「クジラって、魚ではないですよね」
「ええ。そのようです」
世界的には、クジラとは魚なのだろうか。確かに、大きさを無視すれば魚には見える。
しかし、今のがクジラだと言われても、正直、壁にしか見えなかった。大きすぎて、生き物だと認識することすらできなかった。頭の上に壁が(というか天井が)いきなり現れたような、そんな感じだった。
あれだけの大きさだと、いったいどのくらいの重さがあったのだろうか。
「約百トンですね」
と、紳士は言った。
百……トン? トンって、トラックの積載量なんかで見かける、あのトン? 確か千キロで一トンだっただろうか。
確かに僕は百キロ以上でとは言ったけれども。そして確かに百キロ以上ではあったけれども。
「少し、大きすぎましたか。いちおう大きさはやや抑え気味にしたのですが」
あれで? あの大きさで? ということは、あれよりもまだ大きな生き物がいるということなのか?
「ちなみに、わたしも、お二人ともども潰れました。どうしましょう、もう少し小さい個体で試してみますか?」
「いえ、クジラはもういいです」
しかし、巨大な生き物は、選択肢として考える価値がありそうだ。
たとえば、クラーケン(大王イカ)とかはどうだろう。いや、だめか。おそらく僕も襲われる。というか、クラーケンなんて実際にいるのかどうかもわからない。架空の生き物はだめだったはずだ。
「ダイオウイカは実在するようですね。ダイオウイカにしますか?」
「そうなんですか。でも、すいません、ちょっと待ってください」
クラーケン、というか大王イカは実在するのか。
ほかには何かいないだろうか。もうちょっと安全そうな、巨大な海の生き物は。しかし、クジラとクラーケンしか思い浮かばない。
もはや、魚ではない。
そうだ、金属バットではなく、あの男を魚にできないだろうか。それはさすがに無理だろうか。
せめて、もう少しだけでも、長めに時間を巻き戻せれば。
そういえば、この紳士は時間を操作できるとか言ってなかったか。時間を巻き戻すことができるなら、時間を止めることだってできるのでは?
「ええ、可能です。じつは、もう試しました」
「え?」
紳士は微笑んで、話を続ける。
「あなたも金属バットの彼も、時間が止まった世界では動けませんでした。わたしは砂に埋まっておりますので、もともと動けません。ですので、誰も動けませんでした」
なるほど、確かに。
「あなたが時間を止められるとよいのですが」
と、紳士は言った。
「残念ながら。でも、何か、そういう裏技みたいなものはないんですか? 一時的に僕でも時間を止められるようになる、みたいな」
「ええ、あります」
そんな都合のいい話があるわけが。あるのか。
「わたしの手を握ってください。そうすれば、あなたも一時的に時間を止められるようになります」
そんな簡単なことでいいのか。
僕はさっそく紳士の手を握ろうとした。
しかし、手が動かない。というか、身体が、首から下が動かない。
「ここは、現実の地球上のわたしの状態、つまり、首から下が砂に埋まっていて身動きのできない状態、が反映されておりますので、あなたも首から下は動かせないと思います。ちなみに、最初にあなたが死んでからずっと、そうでした」
そうだったのか。気がつかなかった。
そういえば、紳士は首から上しか動かしていなかった。
ということは、紳士は、砂の中では体育座りの姿勢でいる、ということなのか。一つの疑問ではあった。
「いえ、砂の中では直立の姿勢になってます」
「そうなんですか。それはそうと、では、手を握るためにはどうすれば?」
「もとの世界に戻ってから、私の手を握ってください」
「つまり、あの男をどうにかするために、あの男をどうにかしつつ、砂に埋もれているあなたの手を掘り出して、あなたの手を握らなければいけない、ということですか」
「そうなりますね」
そんな無茶な。
いや、待て。電気ウナギで男が感電したとき、しばらく男は倒れていた。紳士の手を掘り出すくらいの時間はあったのではないだろうか。
いや、しかし、砂の中は直立の姿勢になっていると紳士は言った。それでは、紳士の手はどこにある? もしも気をつけの姿勢でいるのなら、紳士の腰のあたりまで掘らないといけない。そんな時間があるだろうか。
だがしかし、うまくいけば、これで助かる。
時間を止められるのだから、助からないはずがない。
僕が紳士の手を掘り出して握るまで、その間だけ男を足止めできさえすれば、それでいい。
では、そのためにはどんな魚がいいだろうか。もう一度電気ウナギだろうか。
それこそ、クラーケンがいいのでは。巨大なタコでもいいかもしれない。しばらくの間、男を拘束していてはくれないだろうか。
巨大なイソギンチャクみたいな生き物が、男を飲み込んでくれないだろうか。
巨大なクラゲでも巨大なカニでもなんでもいい。とにかく男を拘束できれば。
いや、一度冷静になろう。
やはり電気がいちばんいいだろうか。
そういえば、クラゲにもいなかっただろうか。電気クラゲが。
そうだ、クラゲなら砂の上で暴れることもないはずだ。
男にだけ触手が絡みついてくれれば、電気ショックが多少弱くても、時間は稼げるのではないだろうか。
電気クラゲはよさそうな気がする。もしかしたら、今度こそうまくいくのでは。
「決めました。電気クラゲで、お願いします」
「わかりました。それでは。ひとつ、ふたつ、みっつ」
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