第6話
## 6
振り下ろされた金属バットを両手で受け止める。
小さな赤い魚が、男の手から飛び出したように、僕には見えた。
砂の上でピチピチと跳ねているこの魚を、僕は見たことがある。何という魚だっただろうか。
しかし、今は魚の名前を悠長に思い出している場合ではない。
男が戸惑っている。今がチャンスだ。
僕は男に飛びかかった。僕の狙いは、男の背後に回って、後ろから首を絞めること。組みついて男の背後に回り込むことさえできれば、僕にでもどうにかなるはずだ。
男の襟首を掴む。さらに足を踏み出す。
お腹に痛みがあった。男に殴られたか。
いや、何かがおかしい。身体に力が入らない。
自分のお腹を見ると、みぞおちのあたりに男の右手が見えた。
男の右手がゆっくりと離れていく。何かを持っている。
ナイフだ。刃が赤くなっている。僕の血だろうか。
男は笑いながら何か言っている。しかし、僕の耳と頭には言葉が入ってこなかった。
男はさらに右手のナイフで、僕のお腹を突き上げた。
全身の力が抜けていく。
砂の上ではまだ赤い魚が跳ねていた。
そういえば、この魚は映画で見たんだったなと、ぼんやり思い出しながら、僕は死んだ。
「死んでしまいましたね。ちなみに、あの魚はカクレクマノミというそうです」
「ああ、そんな名前でしたね」
「さらにちなみに、彼が持っていたものはバタフライナイフというそうです」
バタフライナイフ。名前は聞いたことがある。
ナイフまで持っていたなんて。どうしたらいいのか。
というか、なぜ刺すのか。
そんな簡単にナイフで人を刺せるものなのか。おかしいだろう。そもそも金属バットで人を殺している時点でまともではないのだが。
やはりあの男はおかしい。異常だ。たまたま、つまり一時的にそうなっているのか、それとも、もともとそういう人間なのか。
まあ、そんなことはどうでもいい。
僕たちがどうにかして助かるために僕はどうしたらいいのだろう、なんて悠長な考えは捨てる。
あの男を殺す。
その結果、僕たちが助かる。これしかない。
あの男を殺すために、どうするか。考えろ。
「穏やかではないですね」
紳士が微笑みながら言った。
「平気で人を殺すような人間を相手にしているんです。もはや、のんびり構えている場合ではありません」
「では、どうされますか?」
「あのナイフも、何かほかのものに変えることはできませんか?」
「申し訳ありません。地球上ではまだ不慣れなもので、何かを何かに変化させるのは、一度に一つまでとさせてください。無理をすれば一度に二つ以上のものを変化させることもできますが、その時は次元にひずみが生じて地球が崩壊してしまうかもしれません」
なるほど、それは困る。
魚にするなら金属バットかナイフか、どちらか一つなら、今のところは金属バットだろう。
しかし、第一陣の金属バットをどうにかできたとしても、あの男はさらにナイフまで持っている。
どうしたらいいのか。わからない。
それでも、うまくいくまで何度でもやり直せる。
いや、やり直せるというよりも、やり直させられる、といったほうが適当かもしれない。
静寂に耳を傾ける。波の音は聞こえない。
いわゆる、乗りかかった船というやつだ。僕がどうにかするしかない。
それはそうと、けっこう前から気になっていたことを、僕はきいてみた。
「月からの迎えを待っていると確か言ってましたよね? あなたは、月から来たんですか?」
「いえいえ、そうではありません。迎えのものは確かに月から来ますが、わたしは月からではなく、木星から来ました」
木星。あの大きな輪っかがある星だったか。いや、輪っかがあるのは土星だったかな。魚のことだけではなく、星のことも少しは知っておくべきだっただろうか。
「正確に言うと、木星の衛星であるエウロパから、です」
紳士は月を見上げた。
音のしない海を僕は眺める。揺れる海面を見ていると、波の音が聞こえるような気がする。
たとえばですね、と言って紳士は僕に顔を向けた。
「わたしたちよりも、彼のほうに危害が及べばよいわけです。それならばですね、たとえば、毒を持っている魚なんてどうでしょう」
なるほど。僕はフグしか思い浮かばないけれど、地球人の集合意識にアクセスするんだから、僕たちの目的に合った毒を持っている魚がいるかもしれない。できれば、その魚をつかんでいる男がまず被害を受けるような魚が、もしいればの話ではあるが、そんな魚がいいだろう。しかし、それだと、その魚で殴りかかられる僕も危ないかもしれない。いや、金属バットの軌道はもうわかっている。それが魚になることにさえ注意していれば、避けられるはずだ。
「そうですね。それでいきましょう。毒のある魚で、お願いします」
「わかりました。それでは。ひとつ、ふたつ、みっつ」
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