第18話 涼花復活

 すっかり忘れていたが、貸切りのお客様である。そっちかい、と突っ込めるはずもない。それにむしろ、その方がいいような気がしてきた。涼花はもう、うめき声しか上げていない。九王沢さんもこれで意外と、周りが見えてたんだな。


「銘柄は、お任せでいいですか?」

「はい、わたしはストレートで。すうちゃんはどうしますか?」

「ミルクとお砂糖をぉ…」


 涼花が野良猫のうなるような声で言った。うん、頭を使い過ぎたときには、糖分が必要だ。


 そう言えば今朝焼いたトラジャがあった。インドネシアのスラウェシ島と言う場所で高地栽培されるこのコーヒー豆はかつてはオランダ王室御用達の高級品で、七十年代に日本企業が支援して農場を再興するまでは、幻のコーヒーと称された。苦みが丸く、ストレートならばフルーティな甘みを感じられる名品である。


 好みはあるが、焙煎は中煎りが僕の好みだ。光沢があるテラコッタ色の豆は艶やかな赤みを帯び、ミルで挽くだけで力強い香りが立ち上ってくる。


 糖分が必要な涼花のために、僕はこれにバームクーヘンをひと切れ添えて出した。母方の親戚が市内でやっているお店のもので、毎朝焼きたてを出すのだが、その端切れになった分をこうして、お茶菓子として格安で譲ってくれているのだ。


 仕入れはお得だが、味は正規品と寸分の違いもない。豊かな卵の味がする生地は、しっとりぱさつきもなく、焼き色の表面はメイプルシュガーでコーティングしてあるが甘さも意外やしつこくない。



「うわあああっ、へ~たさんのお店、わたし毎っ日来たいです!」


 すっかりへこんでいた涼花だったが、甘いものでやっと立ち直ってくれたみたいだ。まさか、あの秋山すずかが毎日来たいなんて言ってくれるなんて。まあ、そもそも僕の店じゃないんだけども。


「コーヒーも美味しいですよ、へ~たさん」

 九王沢さんはカップを置くと、幸せそうにため息をついた。

「みくるさんがへ~たさんのお店でこのコーヒーを飲むのに、横浜へ帰ってきたがるのよく分かります…」


 もうありがとうございます、と言う他ない。少ないながらも、こうやって言ってくれる貴重なお客さんを何人作れるかが、このお店の存続意義である。



「それにしても、あと一時間ほどですね」


 九王沢さんが思い出したように言った。そうだ、編集の林原さんがネームをとりに来るのに二時間、と言っていたのだ。まだ連絡はないが、何しろ時間に精確な人だから、そろそろやってくるに違いない。


「上手く、間に合うといいんですが…」

 九王沢さんは顔を曇らせる。

「たぶん、大丈夫だと思いますよ。九王沢さんがここまで解明してくれたんだし、林原さんもプロですから」


 現時点だけのものでもどうにかこうにか、でっち上げるには違いない。伊達にみくるさんに毎回泣かされていないはずだ。


「あ、そうだ。みくるさんにお電話してみましょうか。もしかしたら、つながるかも知れませんし」

「無駄ですよ」

 僕は言下に答えた。


 実は僕だってさっきから、何回もコールしている。出発前に聞いた国際電話の番号にも、滞在先にも。さらには持ち歩いているモバイルのメールから、SNSのメッセージボックスまで急を告げる報せを投げてみたが、まるでレスポンスがない。こうなると、ため息しか出てこない。


「本気でばっくれたみくるさんを捜すのは、不可能です…」


 まるで国際指名手配犯である。ったく、こんなことになっているのも知らず、今頃どこかで何をしてるんだか。


「ともかく、みくるさん抜きでよくここまでやりましたよ。後はもう、林原さんが何とかしてくれるはずですって」

 と、僕が言った時だった。

「だめです!」

 ごろごろ駄々をこねていた涼花が、拳を握って立ち上がったのは。

「まだっ…まだです。わたし、ここで、諦めるわけにはいかないです…!だってわたしが主役のドラマの原作なんですから…!」

「涼花ちゃん…」

 僕は、感動した。


 これぞプロ根性と言うやつだ。秋山すずか、やっぱりただの高校生じゃなかった。女優魂をちゃんと持ってるじゃないか。ちょっと呆れかけてはいたが、これでますますファンになってしまった。


「あと一時間で、わたしが謎を解きます!…魔女が盗んだレシピの謎、解いてみせようじゃないですかあ!」

「その意気ですよう、すうちゃん☆」


 すうちゃんをほったらかしに突っ走ってた九王沢さんも、すごく嬉しそうだ。


「はいっ!お嬢さまっ、このメモを参考にわたしもう一回、証拠を洗い直してみます!」


 涼花はびしっと、直立不動で敬礼した。うん、人気女優さんだけに形は決まり過ぎるほどに、決まっている。その点では、いつ刑事ドラマの話が来ても大丈夫だろう。



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