第4話 実りの月がもたらすもの
「ついに持ってかれてしまったよ…」
どうもあの怖い頭蓋骨は元々、宝生さんのものだったらしい。
「本当は絶対、譲りたくなかったんだけどね」
同じ中世ヨーロッパの魔術マニアで、死ぬほど話が合ったみくるさんは、宝生さんの秘蔵の宝物をずうっと狙っていたらしい。
「わたしが連載当てたら売ってくれるって、いっつも言ってたんだけど、いざそうなったら全然譲ってくれなくてさあ」
ついには独身主義の宝生さんが結婚したら売る、と言う条件を無理やり取りつけたらしいのだ。
直後に宝生さんは例のモデルと付き合い出したらしいのだが、それから全力でみくるさんから逃げ回っていたそうだ。
「やあっと仕事で一緒になれたと思ったら、そのモデルの子と別れててさ」
「すっごい泣かれたんだよ。去年の十二月のはじめだっけなあ、出版社の二次会行ったあと、打ち上げに六本木にラウンジ行ったんだけど。あのときは困ったなあ」
随分幼い子を、泣かせていると勘繰られたらしい。宝生さん、みくるさんとあんまり実年齢は違わないのに、気の毒なことだ。
「て言うかそんなにまで欲しいなんて、駄々っ子か…」
「だあって!ずええったい欲しかったんだもん!」
ふんす、と鼻息荒く力説するみくるさん。そんな威張ることか。しかもその泣き落としで宝生さんはついにこの賭けに乗るしかなくなってしまったのだそうだ。
「紛失した九王沢さんの原稿がこの喫茶店で今夜手に入らなかったら、諦める」
さすがに宝生さんは、絶対勝てると思ったらしい。だって九王沢さんはどこでそれを忘れたのか憶えていないし、第一、賭けが成立した時間が時間だ。
いくら馴染みだと言っても喫茶店だって開けてくれるはずがない。
僕はまんまとみくるさんの片棒を担がされたわけだ。
午後十時過ぎであったと言う。東京の赤坂にある宝生さんの事務所から、車を飛ばして一時間ちょい。ご苦労様である。
真夜中に喫茶店の窓ガラスを叩かされて、九王沢さんは心身ともに、疲労困憊していた。
「…今さらこんなこと言いたくはないのですが、みくるさんが、あのお店から待ち合わせ場所を変えたから、忘れたと思うんですよね…」
原稿を忘れた日といい、この人は結局、みくるさんに振り回されていたのだ。かわいそうに。
「と、言うわけでこれこそ受験最強のお守りだ!へ~たくん、わたしたちは、見事君が受験を突破することを祈っている!」
「がんばってね」「が、がんばってください…」
宝生さんも九王沢さんも、顔が引き攣っていた。なんか本当に嬉しくない。
「えっ、まさかこれ置いてく気!?」
「当たり前じゃんか。わたしと九王沢ちゃんと宝生さんの念が籠もってる。わたしはともかく、二人は超エリートだ。絶対合格できるよ。ほら」
「要らない」
僕は突き返すように言った。もう、気持ちを取り繕うことなんて出来なかった。
「そんなもの、全然欲しくないよ」
僕のただならぬ気配を察したのか、みくるさんたちの動きが停まった。けど、言わずにはいられなかった。だってそうじゃないか。
こんなに毎日やきもきして、待ち続けて、欲しかったのは、こんなものじゃないだろ。
「憶えてるよねえ。あの日のこと。こっちはさ、ずうっと、あれから待ち続けてるんだぞ!?…なんだよ、そんなことも知らないで。メールしても返してくれないし。今年はヨーロッパじゃなくて、ずっと日本にいたんだろ?」
「ごめん」
みくるさんは言った。小さい声だけど、ちゃんとあのみくるさんの本当の声音だった。
「ごめんなさい。わたしも、ずっとへ~たくんに会いたかったんだ」
「だったら普通に来なよ。こんな大騒ぎしなくてもいいだろ?」
「うん。でもさ、いつ顔を出していいか、それも分からなくって」
聞くとみくるさんは、お店には顔を出していたらしいのだ。
でも僕は模試や集中講座に出ていなかった。しかも母親が連絡を取ろうとすると、みくるさんは邪魔したくないからと断ったらしい。
「それでもね、わたしも何か力になりたかったんだ。へ~たくんの一生のことだから。しょうがないね、わたし。へ~たくんの喜ぶこと、判らなくて。こんなことしか思いつかなくってさ…」
と言うと、みくるさんは瞳に涙をにじませた。
「馬鹿だな」
そうして、僕はみくるさんの小さな身体を抱き寄せた。
ずうっと思い出すだけだったみくるさんの感触。匂い、息遣い。遠く離れていたら、手に入らないもの。それだけで十分だった。
他の何も要らない。僕はただ、こうしてみくるさんに寄り添ってほしかっただけなのだ。
「コーヒー飲んでいきなよ。今夜は、ゆっくり出来るんだろ?」
みくるさんが頷くのを見届けて、僕はコーヒーを残りの人数分淹れた。
砂糖を多めに落として。色濃く煮出したイタリアンローストだ。浅煎りのコーヒーと違って、苦い深煎りには甘味がとてもよく合う。
少したじろぐほどに熱く抽出した甘いコーヒーほど、寒い夜で冷えた身体に沁みて、包み込んでくれるものはない。
「やっぱりへ~たくんのコーヒーだねえ」
みくるさんが、
僕はやっぱり、みくるさんのその顔が見たかったのだ。
「合格したら春休み一週間ぐらいヨーロッパに行こうよ。九王沢ちゃんの実家、すっごい大豪邸なんだって!」
「わっ、わたしそんなお嬢様じゃないです!本当なんです!信じて下さい!」
力いっぱい否定していた九王沢さんだが、なんと実家は宝生さんなど比較にならないくらいのイギリスの大富豪なのだと言う。
まあ、間違いないだろう。一見して普通の人じゃないと思ってたが、やっぱとんでもない人だった。
「疑うことないですよ。お二人はもう、満たされているんですから。ただ、それを迎える準備が出来ていなかっただけで」
その九王沢さんがどきっとするようなことを、帰りがけに言ったのだ。
僕が彼女が忘れた原稿を手渡す時にうっかり、宝生さんとみくるさんの仲を疑ってしまったことを話した時だ。言うんじゃなかったと思ったけど、遅かった。
「今月は『かむなしづき』ですから」
「え、ええ」
神無月は『かんなづき』とも読むが、『かむなしづき』とも言う。さっき古典の先生に習ったばかりでカレンダーに恨み言を言ってしまった。
でもそれが何の関係があるんだと思って訝っていたら、九王沢さんはさらさらと手帳にその文字を書きつけた。
「醸成月…?」
「はい。秋の収穫が終わって、新米で作ったお酒を醸す月なんです。だからこの月を古来、日本では醸成月、神無月と同じ読み方で『かむなしづき』と呼びならわしているんです」
それはすでに与えられ、準備されたものが満たされる月。
僕は息を呑んだ。そんな僕に、九王沢さんはもう一つの言葉を与えてくれた。
「わたしたちはたぶん、今欠けているものを探し続けて生きるように出来ているんです。でも本当は、幸せを見つけようと思えば、もうそれは準備され、補われたものの中にあるのかも知れません。グノーシス派キリスト教の言葉をとって、ユングはこのようにその概念を定義しました。満たされゆくもの、『プレローマ』」
「…『
後で一人になって考えた。
今の今まで気づきもしなかった。
あのとき、やっと抱き寄せられた、みくるさんの小さな身体。今、そこにいるみくるさんそのもの。僕が欲しかったものは、これから手に入れるようなものじゃない。
ただもうすでに、そこにあるはずのものだったのだ。
花待つ季節に僕がもう、手に入れていたもの。僕さえ気づけばもう少し、寄り添うことが出来ていたもの。
そして、疑うからみすみす損なってしまうものだったのだ。綺麗に飲み干された三つのカップを洗いながら、僕はそこに置いていかれた言葉にこめられた想いを、噛みしめた。
プラシーボなんかじゃなかった。今だったらちゃんと断言できる。
だってそれは。
疑わなかったら、いつでもそこに準備されている、満たされゆくものだったから。
(そうか)
もしかしたら、今の僕は、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます