第3話 崩壊九王沢さん

 すぐに救急車を呼ぶべきか、それともダッシュで近所のお医者さんを呼んで来るべきか。迷った。いや、迷っている暇はない。とにかく、出来るだけ錠剤を吐かせなきゃ!



「はゃ…那智ひゃん…ろうしてでひょう…?身体が熱く…」

「うわああっ」

 九王沢さんが変だ。


 なんて言うか、タコみたいにふにゃふにゃになっている。しゃべり方もふにゃふにゃだが、手足もまったくと言っていいほど、力が入っていない。


「身体、起こせる!?とにかく、錠剤を吐こう!」


 大分胃で吸収しちゃってるかも知れないが、まずはそれしかない。


 そう思って身体を起こそうとするのだが、九王沢さんはぐでんぐでんになってしまって、何度起こしても首が据わらないのだ。


「じゃあ、とにかく救急車だ…」


 と、携帯で一一九番にコールしたが、この状態、なんて言えば。今、どんな状態なんだろ?腹痛?…それとも、発熱してるんだろうか?


「大体なんでこんな錠剤なんか…」

 中々電話はつながらない。


 僕は錠剤の瓶をこねまわしながら何度も思い返したが、一向に心当たりがない。


 そもそも今気づいたのだが、この錠剤、十五年前が消費期限て、僕十五年もここに住んでるはずがない。一体どこから出て来たんだ?


 僕は試しに瓶を開けてみた。


 すると、もわっと漂ってきたのはオーガニックと言うか、市販の化学薬品にそぐわない、ボタニカルな異臭。漢方のような密林のような、呼吸が苦しくなりそうな薬物臭だ。



「あっ、もしやこれ…?」

 思い出した。


 僕の友人に、東南アジアの秘薬を訪ねて命がけの無銭旅行をする変人がいるのだ。


 確かその男が、ただ酒と引き換えに勝手に置いていったのだ。


「うわあああっ、これ咳止めじゃないじゃん!?」

 紛れもない劇薬である。


 どうしよう、僕、九王沢さんにとんでもないものを飲ませてしまった。


 ああああ落ち着け。よく思い出すんだ。いくらそいつが変人でも、死に至るような薬を置いていくわけがない。なんの薬だって言ってたんだっけ…?


 僕はスマホでそいつの連絡先を捜そうとしたが、そいつは海外へ行くとき以外はガラケーすら持っていない、今時、希少価値の世捨て人だ。毒ではない。毒ではないはずだけども。


 そうだやつは、ボルネオに行ってたって言ってた。で、これは確か何かの宗教儀式に使われる薬らしい。


 胡散臭いの極致だが成分は漢方と同じで、研究室に材料があったから自分でも作ってみたと言ってたんだ。その効能は…?


 九王沢さんは泥酔したみたいに、重たい息をついている。苦しそうではないけど、何だかすごく蒸し暑そうだ。



「那智しゃん…はあっ、はあっ…わたし、すっごく暑いです…ちょっと上、脱いでもいいですかあ…?」

「うわああっ、それだめええええっ!」


 とめる間もなく、上着をすっぽり脱いで裸になろうとする九王沢さん。


 鼻血が出るかと思った。

 あの九王沢さんが下着姿だ。

 うわっ、いくらするのか見当もつかないが、カップに職人芸なレースのついたブラはやっぱり純白、ふた房たわわに実っているのは正しく病院のお見舞いとかで見るマスクメロンのイメージである。


「お風呂じゃないから九王沢さん!ここ、お風呂じゃないからね!?上着着ようか!わっ、外から見えちゃうから!」


 僕はあわててカーテンを閉めると、すっぽり脱いだブラウスを着せようとするが、九王沢さんはどうしちゃったのか、子供みたいにいやいやして僕に抵抗する。


 こんないい子が。どうしてこうなっちゃううう!?


 明らかに正気じゃなかった。あの聡明な九王沢さんが幼児退行したみたいだ。まるで、べろべろの酔っぱらいである。なにこの薬!?なにに効くやつ!?


「だって熱いんですう…胸が、胸の辺りがじんじんして…」

 そう言う九王沢さんの、瞳が潤んでいる。


 魅惑の唇が濡れている。乳白色のお肌は、お風呂にも入ってないのに湯上り薄桃色。


 肩で息をしながら九王沢さんはじいっと、胸元を見ていたが。やがて何か思いついたかのように、ブラのホックに手をかけて。


「だめだっ!それだけはだめっ!まずいから!本ッ当にまずいから!九王沢さんみたいな子がそんなことしちゃだめええええっ!」


 僕は思わず、九王沢さんの手をとって抑えた。十八禁はまずいよ。見えちゃうよ。


 あわよくば見ようと、普段は狙ってるけど、この見せ方だけはまずい。このタイミングはだめだよ。



(そうだっ、この薬…)


 媚薬びやくである。

 今、思い出した。


 確かボルネオのどこかの奥地で、門外不出とか言われている幻の媚薬なのだそうだ。


「まだなんだろ、お前ら。お茶とかに混ぜてその子に飲ましちゃえば?」

「いるかこんなもん」


 相手は聖なる九王沢さんだぞ、と怒った記憶はあるのだが、そいつは我が家の使いかけの生卵を冷蔵庫から強奪した挙句、物々交換だと言って勝手にそれを置いていったのだ。


 そいつはそのままミャンマーで消息を絶ち、返しに行くのも不可能なので棚に突っ込んでおいたのだが、今考えてみれば、それがまずかった。



「ちょっ、じっとしてて九王沢さん。おっぱい見えちゃうから!本当まずいから!ほら!」


 高価そうなフランス製のブラは紐まで外れて、僕が手を離したらこのままR18である。


 完全にキマってしまっているのか、九王沢さんはけらけら笑って僕に抱きつこうとしてくる。いやああ、こんなの九王沢さんじゃない!



「こらあっ、ちょっ、耳ひっぱたりとかしない!変なとこ触るなって!…大人しくしなさい!」


 不器用な僕がどうにかホックを留めようと腐心していると、さらにとんでもない事態が発生した。


「わぷっ!」


 どーん!とクジラが海面をダイブするみたいに、九王沢さんが豪快に僕を押し倒して来たのだ。


 たわわに実った神乳が、問答無用な勢いで迫ってきた。神乳、崩落である。


 目を閉じるとそこは、すべての男が夢見るおっぱいの楽園。天国である。


 ああああっ、もう、このまま死んでもいい。レースの下着越しにおっぱいの弾力と九王沢さんの体温を感じながら、昇天するところだった。リアルに気が遠くなった。



「ちょっ、九王沢さんダメ!これ以上はっ…おっぱい圧しつけないで!いや圧しつけてもいいけどじかはまずいって!心のおっ、心の準備の方をっ!」


 谷間が、房が左右に揺れる。何してるのかと思ったら、九王沢さん、どこかに手を伸ばして何かを取ろうとしているらしい。たちまち僕の顔の前に突きつけられる、見慣れた黒いケース。



「これ、さっきのDVDですよね…?」


 そっ、それはもっとらめええええええええええっ!


(終わった…)


 ボクシングだったら、セコンドからタオルを投げてもらってるところである。


 天使な九王沢さんに、ついに見られてしまった。僕のもっともゲスな部分を。


 そりゃ一回ありえないとか怒ってはみたけど、やってはみましたよヒロインが九王沢さんに似てるって皆が言うから。


 淫乱巨乳秘育しましたごめんなさい。…ってああっ!薄汚れた僕を見ないで。神様、三十秒前でいい、時間を戻して。



「これ…那智さんのですか?」

「ちっ、違うよっ!友達が無理やり!」

「『黒髪巨乳お姫さまエレア 淫乱巨乳秘育』…エレアって」

「九王沢さんとは関係ない!全然関係ない!本製品に登場する人物や設定は、実在のいかなる人物、団体ともなんの関係もありません!」


 と言う言い訳は、口に出して自分で後悔するくらいに通用しない。


「うっ、うううっ、ううーひどいですよう…」


 依田ちゃんだったら、もう問答無用で引っ叩かれるところだ。でも九王沢さんは違う。


 その大きな瞳に、大粒の涙をためて泣き始めた。なんていじましい…じゃなくて、張っ倒される以上にずきっときた。し、心臓が痛い。なんと言う罪悪感だ。



「ごめんっ、本当にごめん!もう絶対、絶っ対しないから!」


 もう出家、いや去勢する覚悟である。僕がよこしまな性欲を持っているばかりに。


「どうしてですかっ…」


 九王沢さんは、絞り出すような声で僕を責める。ど、どうしてと言われても。


 その、とにかくごめんなさいと言うしかない。僕はひたすら謝ろうと思った。が、


「どうして絶対しないなんて言うんですかっ…!?」


 えええええっ!?僕は思わず、唖然としてしまった。九王沢さんが、あれっ、真逆のことを言い出したからだ。


「く、九王沢さん?」


 僕が思わず問い返すと、九王沢さんは、さっきと打って変わって真剣な表情だ。


 薬はまだ、効いているんだと思うけどこれ以上ないほど顔を真っ赤にして、消え入るような切ない声で僕に言った。


「どうしてわたしと、ちゃんとしてくれないんですか…わたし、那智さんとだったら何でも、いや、っていいませんよう…」


 僕は言葉を喪った。今の言葉は、これ以上ないほどに深く突き刺さった。


「わたし、もう気にしてませんよ?」


 なぜなら九王沢さんが、あのときのことを口にしたからだ。


「だってあのときのことは、しょうがないです。理解しました。疲れて、わたしが寝ちゃったんですから。…仕方なかったんですよね…?」

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