第2話 怪しすぎる常備薬

 期待と不安にさいなまれて五分後、出てきたのは意外やちゃんとしたお料理だった。


 玉ねぎを飴色あめいろになるまで炒めて煮詰めた、コンソメスープだ。


 チーズを落として香ばしいトーストを浸してある。シンプルだけど、これが深くお腹に沁みる。


 琥珀色こはくいろのオニオンスープがじわりと沁みたトーストがまた心憎くて、食べ応えもある。


(ふ、普通の食べ物だ…)


 などと思う間もなく、完食してしまった。感動である。知らなかった。


 九王沢さん、無理して知らない日本料理を作らなければ、こんなにお料理上手な女子なのだ。



「ちゃんと食べられましたか?熱いですから、火傷しないで下さいね…?」


 そしてこの慈愛に満ちた微笑み。もはや天使を通り越して、僕の中では九王沢さんは聖母である。


 スープを飲んでいるだけで、みるみる身体に活力が戻ってきた。ついでに、いつものエロ心も。


「九王沢さんっ」

「ひゃっ」

 エプロン姿の九王沢さんに、僕はいきなり抱きついてしまった。


 性欲、あ、いや、自分の恋人を愛おしいと思う気持ちが衝動として表れたのである。違う意味で身体が火照ってしまった。


「ごめんっ、本当に心配かけて…帰って来るの、本当に大変だっただろ?僕のせいで」

「そんなあ…わたしのことなんか…どうでもいいんですよう…」

 とか言いつつ、九王沢さん、満更でもなさそうな表情だ。


 よっぽど大変だったんだと思う。でも、これはいける。いける表情だ。僕は少し潤んだ九王沢さんの瞳に吸い込まれそうになりながら、ぐっと顔を近づけた。


「な、那智さん?…あ、だめですよ…まだ、熱があるじゃないですか…」


 ベッドに上半身を持たせかけた九王沢さんの頬は、少し赤らんだが、抵抗する力は弱い。


「大丈夫。熱くなってるのは、別の理由だから…」

「別のって…あっ」

 今や風邪は、すっかり吹き飛んでいる。


 全身を包むのは、別の熱。欲情と言う名の間欠泉である。だって我慢できるか。


 目の前にはまるで、たった今、温泉に入ってきたばかりと言うような、ほんのり艶やか、美しい赤みを帯びた九王沢さんの顔があるのだ。



 ひんやりとした気配すら漂わせる濡れた色の黒髪が、僕の手にもしなだれかかっている。


 九王沢さんは顔を背けると、もう蚊の泣くような声になっていた。


「やあっ…本当、無理したらだめですよ。…また、元気なくなっちゃいますよ…?」


 僕は、イイ顔で首を振った。ありえないぜ。こんな九王沢さんと一緒で、元気じゃなくなるときなんて最初から。


 久しぶりにまともなものでお腹もいっぱいになったし、僕がキスを求めようとするとだ。



「あっ、背中…」


 急に顔をしかめた九王沢さん。


 背中?倒れた拍子に、何かにベッドの何かに当たったらしい。


 いや、でもそんなことでは僕の勢いはとまらない。僕が身体ごと前に、九王沢さんにのしかかろうとしたときだ。



「何でしょう、これ…?」


 九王沢さんの手に残る黒いパッケージ。DVDのケースである。


 僕には珍しく、アニメのっぽい。何気なくタイトルを見た瞬間、僕は蒼褪あおざめた。いや、ちょっと待て!これは、これは!?



「ちょっ、ちょっと待ったあ!」


 僕は、あわてて九王沢さんの手からDVDをもぎとった。


 しかしベッドの上である。もはやどこにも隠すところなんかない。僕が出来たのは、全速力でそれを背中の後ろに覆い隠すことだけだった。


「あのっ、今のは…?」

「なっ、何でもないです!今のわッ別に何でもないのです!」


 言葉遣いまで改まってしまった。僕はぶんぶんと首を振ると、困惑する九王沢さんを突き放す。


 この両手は絶対持ち上げないぞ。だが相手は一度興味を持つと、とことんまで興味を持つ九王沢さんである。


「映画のDVDですか?」

「だからちがっ…あっ、頭痛い!身体サムイ!」


 急いで僕は布団を引っ被った。


 さっき自分で迫った癖に白々しいの極致だが、なりふりなんか構ってられるか。


 だって寸でで九王沢さんに、発見されそうになったのである。


『黒髪巨乳お姫さまエレア 淫乱巨乳秘育』


 エロゲーのソフトである。しかも鬼畜調教系と言われるまずいやつ。


 数日前、泊まった文芸部の友達がふざけて持って来やがったのだ。


「ほーら、このエレアって言う巨乳お姫さま、九王沢さんに似てないか?」


 似てねえよ!!


 名前はともかく、それ以外は断じて似てないッ!と言いたい。


 似ていると言うなら、それは、九王沢さんへの理解が浅すぎる。


 唯一無二にして空前絶後、それが九王沢さんであり、僕にとっては彼女の代わりなど存在しない。



「大丈夫ですか…?」


 なんとも白々しい仮病なのに、九王沢さんは、心配そうに尋ねてくる。


 この天使の女子力。そう、これが九王沢さんじゃないか。



「おっ、お慈悲を…何かっ温かい飲み物を…」

「はいっ!無理しないで待っていて下さいっ!」


 九王沢さんはいちにもなく、飛び出した。


 素直な子で本当に助かった。それにしても、何と言うタイミングで見つかったものである。


 恋人とえろいことをしようと言うときに、機を見計らったように見つかるえろいアイテムは、ご法度もいいところだ。さっさとどこかに隠さなければ。



「ああっ、那智さんそう言えば!」

 と、突然、九王沢さんの声がすぐ後ろから立った。

「うわあああっ、なっ、なっ!なに!?なに一体!?」


 あわててDVDを背中に隠して振り向くと、九王沢さんがミルク入りのホットココアを持って立っていた。


「風邪を惹いたのでしたら、お掃除もお洗濯もまだですよね?わたし、これから那智さんの風邪が治るまで、毎日来てお世話しますから☆」

「えっ、ええっ!いいよう、そんな悪いからー」

「遠慮しないで下さい。むしろこう言うときこそ、わたしのことを頼ってもらえなくてどうするんですか。…それに、(小声)これから一緒に住んだら、普通のことになるかも知れないじゃないですか…」


 みるみる真っ赤になる、九王沢さんの顔。せわしなく布団にのの字を書く指。


「あっ、あのっ、お洗濯!…しちゃいますね!」


 自分で言って恥ずかしいと思ったか、彼女はそのままぷいっと横を向いて、そそくさと逃げてしまった。


 僕は硬直してその場を動けなかった。一発必中である。



 これこそ同棲どうせいの誘い。いやいや、九王沢さんはカトリックなのだ。


 一緒に住みたいと言ったなら、一蓮托生、これは天下晴れて夫婦みょうとになりたいと言う思し召し。


(けッ、結婚ッ!)


 さすがに気が遠くなった。結婚!結婚って。いや、いくら前のめりな僕でも、一気にそこまでわ。


 あの九王沢さんが僕の嫁である。つまりあれに『若妻』…いや、『俺妻オレツマ』属性をまとうと言うのだ。もはや無敵ってことじゃないか。



「くく九王沢さんッ!今ッ今、そのッ…」

 なんて言ったの?って聞くまでもないじゃないか。でも、聞くしかなかった。


 なぜかと言うならば、超!個人的にもう一度聞きたいから。九王沢さんが僕のお嫁さんになりたいってその部分、はっきりそこだけ聞いてみたいから。


「えっ、ええ!?那智さん!?あのっ、けほっ、ちょっと…ちょっと待って下さいっ」


 こほん、と空咳をしながら、九王沢さんは何かを飲んでいた。


 僕が迫ったのが、あまりに唐突だったのか、九王沢さんはのけぞってマグカップの中身をこぼしてしまった。


「あっ、ごめん!ごめんねえ!何か飲んでたんだね!?」

「…飛行機の空調で咽喉のどを痛めてて、少し咳が出るので…」


 常備薬をお借りしました、と言って、九王沢さんは薬瓶を取り出した。んん?うちに常備薬なんてあったっけ。


 何だか見慣れぬ咳止め錠の瓶である。と言うか、今時、咳止めなんか瓶で買うんだろうか。瓶を眺めていて僕は、悲鳴を上げそうになった。


 消費期限がクレジットされているのだが、それがえらい昔である。これ、十年以上前だよ!?



「くっ、九王沢さん!こんなの飲んじゃだめだよ!十年くらい前…あっ、いや、消費期限全然切れてるからこれ!」


 まったくなんてものを、九王沢さんに飲ませてしまったんだ。何かあったら、完っ全に僕のせいである。


「大丈夫ですよう。だって那智さんのおうちに、あったものですから。わたし、気にしてませんから」


 九王沢さんは天使の笑みだ。だが超絶お嬢さまの彼女は、知る由がないのだ。


 九王沢さんの周りにはその存在すら確認されないだろうが、この世の中には、存在するのである。


 消費期限の過ぎたものと、それを体内に入れてしまったことによって惹き起こされる、もろもろの悲劇が。


「いや本当に大丈夫かなあ。吐き出した方がいいよ。こんな…年以上前の錠剤」


 さすがに九王沢さんの前で、今飲んだのが十年前の咳止め錠剤だとは言えない。


 とにかく一刻も早く、吐かせるとかするしかない。


「何なら吐いたら?僕、手伝うから」


 僕が人差し指を出したのを見て、九王沢さんはさすがにドン引きした。


「いえ、本当に大丈夫ですから」

「だって吐かないと。ほら」

「あの…なんで無理やり吐かせようとするんですか。那智さん、わたし、本当に大丈夫ですから!」

「いやいやいやいや…」


 とか言ってると、僕の心配は果たして目の前で当たった。それもびっくりするほど。


「あっ」


 九王沢さんは悲鳴のような声を立てたかと思うと、もうふんにゃり九の字になって横ざまに倒れた。


 あっ、と言う間すらもこっちはなかった。


「大丈夫っ!?九王沢さんッ!」


 ベッドがなかったら受け身が取れなくて、怪我をしてるところだ。


 僕があわてて駆け寄ると、九王沢さんは胎児のようにうずくまって、ぐったりしている。これはまずーい!僕の風邪どころじゃないぞ。

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