第21話 最後の謎が遺したもの
「児玉さんが…?」
涼花の顔から、一気に血の気が引いたのはそのときだった。
後は僕と香名子さんたちだったが、誰もが絶句していた。本当にまさか、ここへ来てこんな結末が待っているとは。
涼花の首を絞めたのは、児玉さんだって?僕からしても、さすがにそれは信じられなかった。
「涼花…」
「ひっ」
児玉さんの声に、涼花は思わず身を強張らせ、息を詰まらせた。
その瞳から一筋、二筋透明な雫がこぼれ落ちる。過剰な反応になるのも無理はない。
涼花は表向きは反抗するものの、児玉さんには、ほとんど親代わりと言っていいほどの信頼を寄せていたのだ。
それが眠っている自分の部屋に侵入して、ストーカーの仕業に見せかけて首を絞めた、などと告発されて冷静でいられるはずがない。
「ちょっ、ちょっと待って!」
つい堪えがたくなって、声を上げたのは僕だった。
「…九王沢さん、さっき児玉さんはお母さんの遺志で行動していたんだろう。それがどうして、涼花を襲う必要があるんだよ?」
これは聞く必要があった。涼花はもう九王沢さんに問い返すほどの気力がないのだ。
それが残酷な真実だとしても、理由を聞かなくては、皆これから涼花をどう慰めていいか、判らないだろう。
だって児玉さんが犯人だとしたら、涼花は今度の今度こそ、本当に独りぼっちになってしまうじゃないか。
「あっ、あの!」
するとなぜか九王沢さんは少し焦った。
「それについては、大きな誤解があります。…ごめんなさい。さっきは少し、思いきった言い方をし過ぎました。だからこう言換えましょうか。確かにあの日、すうちゃんの寝室に来たのは児玉さんでした。ですが解くべき誤解は、その目的にあるんです」
「目的?」
「つまり、児玉さんに害意はあったのか、と言うことです」
九王沢さんは頷くと、自分の髪を掻き上げて首筋を見せた。
「今はもうかなり薄くなってますが、事件直後、すうちゃんの首には紐で絞められた
「それは…えっと、咽喉でしょうか…?」
香名子さんが答えると、九王沢さんは天使の笑顔を見せて頷いた。
「その通りです。相手を窒息させようと試みる場合、最も効果的な手段は咽喉、すなわち気道を塞ぐことです。つまり索条痕はすうちゃんを絞め殺そうとしたなら、あごの下あたり、首の前の方に一番強く残るはずなんです。しかし事件直後にすうちゃんの傷を調べたとき、咽喉の周りの索条痕はそれほどではありませんでした」
「つまり…それってどう言うことなんですか?」
涼花が声を上げた。九王沢さんの推理で彼女もようやく、内容が頭に入るほど冷静になっていた。
「すうちゃん、そう言えば襲われたとき、最初、首筋や襟足を触られた、そう言っていましたよね?目が覚めたすうちゃんがそれに気づき、揉みあいになったときに首を絞められた、と。つまり児玉さんはもちろん、本気で首を絞めたわけではありません。しかしすうちゃんが起きて暴れたことで混乱して、少々、強引に目的を遂げようとしてしまっただけなんです」
「目的って何ですか?」
「すうちゃん、あなたが絞められたと思っているものは何の紐でしたか?」
九王沢さんはすると、児玉さんに目配せをした。
涼花が息を呑んだのは、そのときだった。児玉さんがスーツのポケットから、とても見慣れたものを取り出したのだ。
あの青い土の鈴。僕もびっくりした。あれは涼花が靜子の身代わりにお守りとして持っているメキシコ彩陶の首飾りじゃないか。
「かっ、返して…」
思わず飛びつきそうになって、涼花は自分の胸元に気づいた。
全く同じものを、彼女もしていたのだ。ええっ、お守りが二つ!?
「児玉さんが持っている鈴は、すうちゃんのものではありません」
九王沢さんが言う。それで児玉さんは、やっと口にした。
「わたしが持っているのは、わたしたちがここへ来る直前に、靜子が航空便で送ってきたものなんです。これ、メキシコでも有名な陶芸家さんの作品で、全く同じものを手に入れるのは非常に難しかったのですが、何とか間に合ったと言ってました」
「児玉さんは靜子さんに頼まれたことをやっただけなんです。つまり、この全く同じメキシコ彩陶の首飾りを、すうちゃんがしているものと、こっそりすり替える。本来の目的はそのことだったんです」
「すり替える…?どうして?」
さすがに涼花も、目を丸くしていた。
靜子のたっての頼みとは言え、児玉さんも奇特なことをするものだ。だって、全く同じものじゃないか。それをこっそりすり替えるなんて、なんの意味があるんだろう。
靜子が涼花の身につけていた方を欲しがったとでも言うのか。
しかし本当にびっくりするのは、これからだった。
児玉さんはその首飾りを、テーブルの上に置くと、とんでもないことをしたのだ。
「涼花、あなたにこれを、託すためよ」
と、言うが早いか、テーブルの角にそれを叩きつけて割ったのだ。卵の殻でも破るように。
「あっ!」
涼花が小さく悲鳴を上げた。
そっくりなものとは言え、ぎょっとしたに違いない。
何しろ小さなメキシコ彩陶は粉々に砕け、いくつもの小さな欠片になってしまったのだった。しかし、目を見張るのはこれからだ。
「えっ!?これ…」
涼花は思わず、言葉に詰まった。
児玉さんが欠片の中から何かを拾い上げたのだ。
鈴の中には、音を出すために普通、鋳物や木の玉を入れてあるものだが、それにテープで何かが巻きつけられていたのだ。
それは画像や動画を保管する一番小さなUSBメモリだったのだ。
「靜子さんの、すうちゃんへの最期の贈り物です」
九王沢さんが、厳かな声で言った。
「最期の、贈り物…?」
涼花はその言葉を言われたままに
「お嬢さま、答えて下さい。今、最期って…」
「…はい」
九王沢さんは続きを言えなかった。
いたたまれなくなったかのように、彼女は眉をひそめ瞳を閉じると、かすかにうつむいたのだ。
「靜子はもう、亡くなったの涼花」
児玉さんが決定的なことを言ったのは、次の瞬間だ。
「いつ…!?」
涼花は、息を詰まらせて顔を上げた。
「お嬢さまに言われてさっき、国際電話で話したときに。そのときはもし、あなたに伝えることが出来たなら、こんな母親でごめんなさいって伝えてほしい、そう言ってたわ」
「うそ!」
顔を真っ青にして、涼花は叫んだ。
絶叫は止まなかった。ついさっきまで、靜子は生きていたのだ。
それなのにどうして、靜子は何も涼花に告げず世を去ったのだろう。
「…うそっ!うそっ!うそッ!!」
それが限界だった。そんな、すぐに受け入れきれるはずもない。
大きく何度もかぶりを振った涼花は、靜子の最期の贈り物を胸に抱いて、崩れ落ちたのだった。
もはや母親を責める言葉はここで、尽きた。ただそれは甲斐のないことを、否応なく悟らされたからだ。
惜しいと言うなら、いくら惜しんでも尽きなかった。涼花の涙は尽きない。
声を限りに涼花は泣いた。誰もそれを、止めることなど出来はしなかったのだ。
スイスの時差は、日本が八時間早く進んでいる。つまり現地時間では、向こうは真夜中だったはずだ。
腎臓ガンが末期に到った靜子は、日々衰弱に進んでいたと言う。ガンが全身に進み、多機能不全を起こした今は、もはやようやく話が出来る状態だったらしい。
しかし彼女はそれでも涼花が無事に自分の遺産を相続できるまでと、最期の瞬間を出来る限り遅らせて、命の続く限り待っていたのだ。
九王沢さんが真相の公開と引き換えに、計画の完遂を約束すると、それが限界だった。
そのとき靜子は、ようやく安心して旅立てたのだった。
「涼花、あなたに持たせようと思っていたその映像はまだ、靜子がまだ元気なうちに撮ったものなの」
児玉さんは苦し気に真実を告白した。
今となってはそれは、告げるには遅いにしても必ず告げなばならないことだった。
「…本当は靜子さんは、すうちゃんにそれをこっそり遺して旅立つつもりだったそうです。さっきまで話した通り、靜子さんが決意したことは普通のことではありませんでした。それでもすうちゃんには、いつか、自分の気持ちを知って欲しかったそうです。いつかこの動画で、会える日を願って靜子さんはそのUSBメモリに最期のメッセージを遺したそうです」
九王沢さんもついに、言えなかったことを口にした。
靜子は誰にも後ろ髪ひかれることを恐れ、完全に自らが死出に旅立つ決意を固めたのだった。
「お母さん…」
涼花はただ、さめざめと頷いていた。
すでにこれ以上、言葉はない。
生まれてから十六年、わがままも怒りも、そして悲しみも、胸の中にわだかまったその気持ちをぶつける相手が、もはや永遠に喪われてしまった、今となっては。
靜子の死ぬ意思が固かったのは仕方ない。だが、涼花にとって。最愛の娘だった彼女にとって、もっとよい告げ方はなかったのだろうか。あまりに残酷な真相だった。
「本当にごめんなさい。…涼花」
告げる甲斐のない児玉さんの言葉が、虚しく宙に浮いた。
ペントバルビタールは、注射によらず服用することで効果を果たすと言う。
靜子が最後にと、口にしたのは致死量のペントバルビタールが入ったグラス一杯の果実酒だったそうだ。
夜明け前、全身の衰弱に堪えて九王沢さんたちからの連絡を待った靜子は、祝杯を挙げて死んだのだろうか。
それとも独り遺されることになる、最愛の涼花を想って涙とともにそれを飲み下したのか。今となってはそれは、判らない。
それでも、ペントバルビタールによってもたらされる死は、苦痛を与えない。ただ心地よい眠りによって、訪れるものだと言う。
後で聞いたところによると、靜子の死は安らかなものだった。何年かぶりの心地よい眠気に包まれながら、靜子は、波乱と苦痛に満ちた生涯を終えたそうだ。それだけはただ、間違いのないことだった。
電話に出た靜子の主治医が、スイスでのすべてを告げてくれた。
涼花は胸に靜子からの最期の贈り物を抱えると、最愛の母の死を悼むために泣き出した。憎んでいた。恨んでいた。
しかしそれは一、二もなく、愛していたからだった。涼花は泣いた。静かに旅立った母親を想い、深く深く悲しみ、ただ声を殺して。
誰もが言葉がなかった。これ以上何も、言葉は要らない。
もはや語るべき言葉は、そこで全て語り尽くされたのだった。
「…泣かせて、あげてください」
九王沢さんが押し殺した声で言った。
靜子はもう、この地上にいない。
誰あろう涼花にだけが、それを悲しむ権利があったのだ。
涙を流す涼花の髪に降りそそぐ奥久慈の秋の陽だけが、切り立った
何もかもがすでに遅すぎた。
かくして、六園家にまつわる遺産相続事件は、粛々と幕を閉じたのだった。
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