第12話 ちょっとした刺し傷
二階は上がってすぐに客室が一室あり、そこが通常、在宅医療の医師たちの夜間待機所になっていたと言う。
奥が靜子のアトリエ兼書斎、寝室であり、右手の中廊下の果てにある客室とは、隔絶された構造になっている。
「すうちゃんのお部屋は?」
「あの中廊下の向こうです。階段の突き当り」
どうやら向こうにも二階へ上がる階段があったらしい。そちらは一階奥の勝手口に続いていて、外へ通じている。
「すうちゃんのお部屋はきちんと、鍵が掛かっていたんですよね?」
「本人はそう言ってますけど、はっきりしたことは言えませんね」
児玉さんは涼花の供述にやはり否定的だった。にべもなくて涼花が可哀想だ。
どうも客室にトイレがついていないために、夜間どうしても廊下に出ることが多いと言う。
「だってトイレに行くたび開けなくてはならないんです。だからわたしもよっぽどでないと鍵は掛けませんし、特にその必要もありませんから」
と、児玉さんは医師の待機所だった部屋を開けて説明する。
客室のドアの構造は、ここと同じだと言う。ノブには回転式の鍵がついているが、掛け金は意外に丈夫で重くて硬い。
手軽なものだが、夜間、トイレに行くたび掛けたり外したりするのは、確かにまどるっこしい。
「しかし、無用心でした。広瀬が生きていたときの癖で、夜間通用口として使っていた勝手口の戸締りが甘かったんです。まさかストーカーが入って来るなんて。初枝さんや香名子にも、よく言っておかないと」
児玉さんは涼花を襲ったのは、完全に貴崎と言うストーカーだと思っているようだ。
あまり話を聞いてくれそうにないが涼花、僕たちにしたような話は児玉さんにはしたのだろうか。
「あ、いいですかここ。この部屋には広瀬の模写くらいしか、作品がないので」
と、児玉さんがドアを閉めようとしたが、九王沢さんは、素知らぬふりで中にどんどん入っていく。
「お医者様の待機所なんですか?」
「はい、元は仮眠室のようなもので主に訪問看護士さんたちを泊めたりしていたのですが」
まるで旅館のような和洋折衷の部屋だが、少ない調度品も綺麗に片付けられていた。いたって普通の客室だ。
移動式の簡易ベッドだけがそれらしくそこに残されている。緊急用だが、事件当時まさにここに瀕死の靜子が、部屋から運び出されて処置を受けていたのだそうな。
「さすがにもうお医者様は、おられないみたいですね?」
九王沢さんはベッドについた血の痕らしいシミを確かめながら、尋ねた。
「ええ、何しろ、優秀な方ですから。広瀬が亡くなった後は、もう、次の仕事のオファーがあって、今はスイスにいらっしゃると聞いています」
「靜子さんの身の回りにいた方は、じゃあ今はほとんどいらっしゃらないのですか?」
「そうですね。個人事務所は解散しましたし、残務処理のスタッフもそれほど必要ではなかったので。どの子にせよ、早めに再就職出来るに越したことはないですし」
「では靜子さんの遺産の管理は、児玉さんが?」
「いいえ、わたしは情報を管理して提供するだけ、作業は主に弁護士さんです。それも広瀬が生前、すべて方針を決定していましたし。涼花に遺産が相続されて安全な後見人さえつけば、わたしはお役御免です。わたしにも第二の人生がありますし、とにかく早く、すっきり出来ると良いんですが」
児玉さんはごく淡々と答え続けた。
恐らく今の九王沢さんは、児玉さんが涼花の遺産相続が終わることで何か利益があるのかどうかを探ったのだろうが、一見したところ児玉さんが私的に利益を得られるような仕組みは、一切ないように思えた。
どころか広瀬靜子死後の残務処理が終われば、彼女は身を退く考えのようだ。それは涼花のマネージャーも辞めてしまう、と言うことなのだろうか。
「そうですね。今年から露出が増えてきましたし、今はわたしが大手の受け皿になって動いていますが、大手に専属をつけてもらった方が、これからは仕事はしやすいはずです。この子もいい加減、口うるさいわたしといるのに、うんざりしたでしょうし」
「誰もそんなこと、言ったことない。だから嫌いなの。…あの人、そう言うの分かってないから」
涼花は鼻を鳴らして、ぼそりと不満を漏らした。
確かに児玉さんは涼花を頭ごなしに抑えつけるところがあるのだろうが、涼花は涼花で、また大人に見捨てられる経験をしたくはないのだ。
「あ、間に合った。現場、こっちですよ」
その時、香名子さんが、タイミング悪く顔を出した。児玉さんが怪訝そうに、今の言葉を聞き咎めた。
「なにその現場って?」
児玉さんに突っ込まれ、香名子さんはみるみる蒼くなる。
「ああああっ、いやそのー何でもないです。こんなとこよりー靜子奥さまのお部屋の方が広いですし、綺麗ですよ!すごいものいっぱいありますし!」
「あっ、あんたね、そんな勝手に」
「靜子さんのお部屋が見たいです」
すかさず九王沢さんが割って入った。
「本家として確認しておきたいのですが、宝刀『
九王沢さんが本家の力で押し切ってきた。
彼女を睨み返す代わりに児玉さんはじとっとした目で、香名子さんを見た。あわてて香名子さんは視線を逸らした。
「…分かりました。本家のお嬢さまたってのご要望なら、ご案内しましょう」
靜子の部屋は、廊下の奥の突き出しにたっぷり間取りをとって造られていた。
眺望が、川の方へ突き出して見えるよう造られているのがよく分かる。どこからも清流を見ることの出来る六角形だ。
靜子が好きだった
ちなみにこの部屋だけは専用のバスとトイレがついている。絵画製作のため、何日もここへ
「まだここは、散らかっているんです」
児玉さんは案内を渋った言い訳をするように、ぼそりこぼした。
「広瀬が亡くなった日から、誰にも触れさせていないんです。最後はわたしが一人で、片づけて帰ろう、と思って」
彼女の言う通り、この部屋の持ち主はまだ仕事中であるかのようだ。
たっぷりと陽だまりが落ちたデスクには、デスクトップが淡い埃を被っていたし、美術書の専門書に海外製(英語圏以外の製品だ)のDVD、雑多なプリントアウト、ファイルや手帳などが置かれたままになっていた。
キャンバスの架かったイーゼルもそのままだ。
九王沢さんの目はしばらく、デスクにあったプリントアウトに注がれていた。タイプされているのは、英語ではなかったが、内容は丸々彼女の頭に写し取られたろう。
恐らくドイツ語と思われた。彼女はヨーロッパの言語なら、ほとんど読み書きが自由なのだ。
「とにかく散らかってますので。…『家籠』は、こちらに保管してあります」
さりげなく児玉さんは、プリントアウトを裏返すと、九王沢さんに余計なものは見ないよう促した。
宝刀は壁にはめ込まれた金庫の中に安置されているようだった。ロックを解除すると児玉さんはラテックスの手袋をはめ、九王沢さんにも手渡した。
「どうぞ」
児玉さんは慎重に、それを手渡した。
外観は黒漆に
九王沢さんは扱い慣れた所作で
さすがにお宝を見慣れていない僕には貧困な語彙しかないが、抜いて玉散る凍りの刃とはこのことだろう。
まるで北海の鮮魚のように、瑞々しく地肌が銀色に光っている。
切っ先はすらりとして鋭く、刃紋は豪放に波打ち、まるで牙を剥いた狼を思わせる凄みがあるが、決して野卑下品ではない。
実にその拵えに恥じぬ、気品のある一刀であった。
「眼福です。装飾品としての姿が美しいばかりでなく、機能美を兼ねて実に斬れそうな日本刀らしい、と言うのが
「涼花にこれを、受け継いでもらうのですから当然です。広瀬はあんなことになりましたが、これは六園家の女性の、守り神のようなものだと聞いていますから」
「確かにこの刀で、靜子さんは
ぱちりと刀身を仕舞うと、九王沢さんは直接的なことに切りこんだ。
「はい、言いにくいことですが。わたしが見つけたときは、この刀が広瀬の身体に入っていて。医師もおりましたのですぐに処置したのですが。やはりすでに手遅れでした」
「靜子さんはお腹を?」
児玉さんは黙って頷いた。
発見した時、刀身は根元近くまで、靜子の脇腹を貫いていたと言う。切っ先はなんと、
「他に傷は?」
「なかった、と思います。広瀬も、相当の覚悟を決めていたことを行ったはずです」
確かに女性の腕で切腹と言うのは、かなりの覚悟がいることだろう。
先述の
「たぶん、柄を両手で握ってお腹に刀を抱え込んだまま、床に倒れたんだと思います。そうすれば自重で、手の力で刺すより刀身が入ります。女性が一人で自決する場合は、古今、このような方法をとったと考えられています。ですがその場合は、咽喉を突くのが一般的です。靜子さんはなぜ、お腹にしたんでしょう?」
「…分かりません。…やっぱり、怖かったからじゃないでしょうか」
児玉さんの答えは歯切れが悪かったが、当然だと思う。
死ぬ瞬間の人間の思考など、生半可に分かるなどとはとても言えない。
「靜子さんはどのあたりに倒れていらっしゃったんですか?」
もう完全に現場検証である。しかし児玉さんは文句を言う様子もなく、デスクの隣にある応接ソファの後ろの空間を指さしてみせた。
「この辺りです。仰向けになって、もう血まみれで」
と児玉さんは言った。
が、そこは入念に拭き取られたのか、下の
「香名子さんも、見ていらっしゃったんですよね。見たとおりにして頂けますか?」
「わっ、わたしですか!?わたしはあわててまして、児玉さんの後ろに隠れて見ただけですから…」
と言いつつ香名子さん、積極的にやってきて寝そべった。
(あれ?)
気のせいだろうか、直感的に違和感がした。なぜかそれは僕から見ても少し不可思議なポーズに見えた。
まず靜子は柄を手にしていない。それだけ意識が朦朧としていたのだろうが、右腕をだらりと下げ、同じ方の足を折り曲げて、まるで裾を隠すようにしているのだ。
ベッドからずり落ちそうなのを踏みとどまっているようなそんな姿勢にも見える。
「もっ…もういいでしょうかっ?」
さすがにこの姿勢が辛いのか、香名子さんが悲鳴を上げ始めた。
それほど辛い姿勢ではないが、実際、事件があった場所である。
しかし、九王沢さんは完全な思考モードであった。
何か想いがあるのか、悲鳴を上げる香名子さんを気遣うこともなく、麗しの唇に左の人差し指を当てたまま、ずっと沈黙である。
「九王沢さん、そろそろいいんじゃないか?」
と堪えかねて僕が声をかけると、九王沢さん、やがて何を言ったのかと言えば、
「あっ」
と小さく悲鳴を呑み込み、
「ちょっとした、刺し傷ですね…?」
「ええっ!?」
これには全員、唖然となった。
ちょっとしたどころじゃない。致命傷なのである。
刀が臓器まで達していたと言ってたじゃないか。確かに人より天然な部分も多い子だ。しかし、こんな場面で不謹慎な発言をすることはなかったはずなのに。
全員の呆れきった顔に気づいたのか、九王沢さんはまた、あっ、と悲鳴を上げ、
「すみません。…少し、考えに耽り過ぎていました。変なこと言っちゃいましたね。じゃあ、もう出ましょうか」
気が付くともう、お昼である。聞いてみれば元々、香名子さんはお昼の支度がそろそろ調うので、僕たちを呼びに来たのだった。
「行きましょう」
いそいそと九王沢さんは僕の腕を曳いた。
(ちょっとした刺し傷って…)
に、しても九王沢さんは、なぜあんなとんちんかんなことを言ったのか。僕たちには最後まで判らなかった。
しかしその言葉こそ、この密室の死の謎を解く、大きな糸口になっていたのだが、九王沢さん以外のその場の誰も知る由は無かった。
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