第4話

 九王沢さんは、急ぎ旅館に電話した。もちろん、この時間だ、誰も出るはずがない。ついで依田ちゃんや部長にコールしたのだが、早々に眠ってしまったものか、これも何度着信を鳴らしても応答しなかった。


 ちなみに僕は携帯を部屋に置き忘れていた。これは困った。後は助けを求めるとしたら警察だが、僕たちは私有地と建造物に不法侵入である。たぶん、すっごく怒られるに違いない。


「朝まで待ったら、誰か気づいてくれるかも知れませんね…」

 さすがに九王沢さん、目が泳いでいた。


 まさかこんなところに閉じ込められるとは、夢にも思っていなかったのだ。僕だって死ぬほど後悔した。やっぱりもっと、適当なところで九王沢さんを止めるべきだったのだ。



 身も凍る恐怖体験はまさに、これからだった。



 ドン、と言う誰かが床を踏み抜くような大きな音がしたのは、そのときである。ここは二階、最上階だ。しかし、確実に天井の方から聞こえた。


 ついで誰かが歩き回るような騒がしい音。これは隣の部屋だ。そこでさすがに限界だったのだろう。


「ひっ」

 九王沢さんは悲鳴を上げて、僕にしがみついてきた。気丈なようで、やっぱり九王沢さんは、女の子なのだ。

「だ、大丈夫だって…」

 内心全然大丈夫じゃないけど、僕は言った。


 僕がパニックになったら、九王沢さんは、どうにもならない。少し汗ばんだ肩が、細かく震えていた。僕は脳味噌をフル回転させて、現状の打開策を探した。


 さすがにここに一晩閉じ込められているわけにはいかない。とにかく自力でこの部屋を脱しなくては。


「窓から出てみようよ」

 外明かりがさす方を見て、僕は言った。

「角部屋だし、壁を伝えば外に出られるかも知れない」


 友達のアパートに侵入するときなど、雨どいを伝ってやるあれである。


 幸いここは二階だ。それほどの高さがあるわけではない。九王沢さんをなだめつつ、僕が一歩、リビングに足を踏み出した時だ。


 ぎいい…ぎいい…と何かが軋むような音がした。いわゆる恐ろしく重たい何かが、縄か何かで吊るされて、振り子のように揺られている、そんな状態である。


「まさか首吊り…」

 最悪の想像を口にしかけて、僕はあわてて息を呑んだ。


 怖がらせてどうする、九王沢さんを。全く同じことを想像したのか、みなまで言わずとも九王沢さんの顔面は蒼白だった。考えたくはないが確かOLが絞殺された後は、次の入居者はこの部屋で首を吊って死んでいたのだ。


「おおおぅ…あっ…」


 今のは確実に男の声だ。咽喉を強く締めつけられるような、不気味なうめき声である。うわっ、本物だ。一刻も早く、ここを出なければ。


「いっ、いやあっ。離れないで下さいっ」

 サッシを開けようとした僕に、九王沢さんがしがみつく。全力だった。なんてことだ。あの九王沢さんが、なんと本気で怖がっているのだ。

「離れちゃいやです!」

 九王沢さんは声を震わせてしがみついてきた。

「那智さん、お願いです…何があっても離れないで下さい…」


 このときの僕である。正直言おう。こんだけ心霊現象が目白押しで、九王沢さんですらがたがた震えていたが。頭の中には、たったの二文字しかなかった。


 性・欲!である。


 誰になんと言われようといいが、経緯は別として、息を乱した九王沢さんにこれだけ密着されているのである。文章では伝わりにくいが、九王沢さんのフェロモンは並外れている。


 それをほんの数メートル先から検知できる僕が、密着した彼女の髪の毛や少し汗ばんだ肌から、がっつり感じてみろ。即ノックアウトである。霊感だと?首つり死体だ?そんなもの屁でもない。この息の詰まるような甘酸っぱい、九王沢さんの匂いの中にいて、僕が堪えられるはずがなかった。


 また、やたらと切なそうな瞳で九王沢さんは僕に助けを求めて来るのだ。離れてほしくないらしいので、僕は後ろから腕を回して抱き寄せたが、バストはともかく、九王沢さんてこんなに華奢きゃしゃだったっけ。


 モデル並みに小さな頭も、細かく震える方も、とにかく可憐なのだ。しかもなんと、それが僕の恋人なのだ。


「と、とにかく大丈夫だから。僕が何とかするから」


 上擦った声で僕は言った。いやこのままだと、僕が九王沢さんを襲うモンスターと化しそうだったがまずここは全力で、紳士を貫くしかない。


「那智さん…」

 涙をためた瞳で九王沢さんは僕を切なげに見上げると、小さく唇を噛んだ。

「ごめんなさい…わたしのせいで、こんなことに」

「そんなことないって。朝までの辛抱だよ」


 僕自身、こんな心霊アパートからとっとと脱出したかったが、九王沢さんを、ここで逃がすわけにはいかない。性欲がぐいぐい後ろ髪を引っ張ってくる。


 もはや僕は、完全に襲う側の思考である。もはやどんな怨霊も僕の下心は、止められないのだった。


「愛してます、那智さん…」


 熱に浮かされたような声で、九王沢さんが言ったのはそのときだった。


 いや、もうそれを聞いたら堪えられなかった。


 完全に衝動的に僕はキスしようと顔を近づけたのだが、信じられないことに、おとがいをあげた九王沢さんは、親鳥を求めるひなのように、僕に応じたのだ。こんな場所で九王沢さんの唇を、僕は今までで一番長く深く、味わってしまった。


 積極的にキスに応じたあと九王沢さんは、あわてて僕から顔を背けた。かわいすぎる。黙って髪を撫でていると、深く息を吐いた彼女は意を決したように言った。


「那智さん…去年のクリスマスにラブホテル、連れて行ってくれましたよね…?依田さんに聞きました。日本のラブホテル、と言うのはその…恋人同士の、そう言うことをするホテルだと」

 僕は黙って頷いた。

「ずっと、悩んでいたんです。もしかしたらわたし、全然女の子として魅力がないので、那智さんは全然、わたしとそう言うことをしたがらないのではないか、と」

 僕は強く、かぶりを振った。全くそんなことはない。


 でもあの聖夜で過ごした時間、僕は待つことにしたのだ。九王沢さんが、経験したい、と思うまで。おでこにそっとしたキスを、九王沢さんは、軽く唇に返してきた。


「この前の続き、して下さい…」


 感無量であった。これぞ、OKの目である。

 女の子が一番優しい目つきをするときだ。

 まるでしゃがかかったような、火照りきった女の人の目。


 まさか九王沢さんがそんな顔をするときが見られるなんて。

 僕は、前人未到の到達点を予感していた。誰もが憧れながら、ついには入れなかったこの世界で空前絶後と言える聖域に、僕はついに足跡を残せると言うのだ。


 もう一度、九王沢さんの唇に僕は触れ、深く味わった。少ししんなりした、九王沢さんの薄いブルーのサマードレス。乳白色の肌はかすかに汗ばんでいた。布地の上から、僕はそちこちをまさぐった。


 九王沢さんのため息が、さらに深くなった。これはいける。行くところまで。ためらっちゃだめだ。僕の中の赤タオルの男が盛大に拳を振り上げている。そうだ。危ぶめば道はなし。迷わず行けよ、行けば分かるさ。


 しかしだ。僕は忘れていた。ホラーものの真髄を。侵しがたき不文律を。


 エロ志す者、それすなわち救われぬ者。


 暗闇の中で九王沢さんの胸をまさぐっていて、僕は即座に気が付いた。思ったよりないのだ。何がって、おっぱいがである。九王沢さんと言えばHカップの爆乳のはずが、これはどう考えてもBカップくらいだ。さらに上をまさぐって首を傾げた。


 あれっ、九王沢さん、首に何か巻いてるぞ。ネックレスなんかしてたっけ。いや、て言うか何かちょっと太い。これ、ネックレスなんかじゃない。


 タコ足配線などにつなぐ延長コードだった。金属のプラグが、肌にめりこんでいたのだ。さらには白い首筋に、いっぱいついていた。爪で肉を引っ掻いた傷が。苦しさに堪えかねて、自分の首を絞めるコードを外そうとしたのだ。しかしそれは無惨、自分の咽喉の肉をむしり取る羽目になってしまったのだ。


 九王沢さんじゃなかった。僕が抱きしめていたのは。ショートボブの、見知らぬ若い女の子だった。


 自分で噛み破ったのか唇は切れ、真っ白いあぶくと血が混じってだらだらとあごまで垂れていた。窒息した目は赤黒くうっ血し、目蓋の裏側のあらぬ方向へいっていた。すると裏返った瞳がぐるりと動いて僕を睨みつけた。断末魔のうめき声。


「おっ、おがねっ…おがねっがえして…」

 僕は気絶した。




 次の朝、僕たちを助けてくれたのは、奈須葉さんだった。九王沢さんは彼女にも助けを求めていたらしい。明け方着信を見た彼女は、後輩の女の子とあわてて僕たちを捜しに来てくれたのだった。



「化かされちゃいましたねえ」


 駐車場の壁にもたれて揃って寝こけていたと言う僕たちを発見して、奈須葉さんは嬉しそうに言った。どうも夏の間に何回かは、そう言うことがあるらしい。


「幽霊じゃないですよう。昔から、この辺は狸が化かすんです」


 戦前生まれの御年寄りなどはよく知っていて、『五日火いつかび』と言う化け狸が悪さをするのだと言う。


 真夏の夜、肥溜めにはまって大笑いをしている人や、億万長者になったと言って、葉っぱをき散らしている人などは皆、この化け狸の仕業と言うことになっているらしい。


「あ、祟りなんかは一切ないですよう。だから安心してください☆」


 かくして無事に帰った僕と九王沢さん二人は、起きてきた皆にさんざん冷やかされた。九王沢さんの実話怪談を怖がって皆が帰ったのをいいことに、二人でホテルにでもしけこんだ、と思われたのである。


 九王沢さんはからかえないので、非難は当然、僕に集中した。お蔭で今日は、罰として皆の荷物持ちである。


「案外やるときはやるんですねえ、先輩!」

 依田ちゃんまでにやにやして、僕の肩を叩いてくる。


 ふざけんな、こっちはあそこまでキメておいてまさかの不発である。化け狸だか、殺されたOLだか知らないが、首でも絞めてやりたい気分なのだ。


 しかしそれにしても、

(どこまでが本当で、どこまでが幻だったんだろう…?)


 あの切なそうな声。胸が詰まるような眼差し。そして、いつもより深く触れ合った唇の感触。それらは本物だと思いたい。


 でも非常に残念なことに。


「この前の続き、して下さい…」


 常識で考えて天使で清楚な九王沢さんが、自分からそんなこと言うはずがないのだ。


 全部僕の妄想の産物だったのだろう。大体そんな完全聖女な九王沢さんが、僕にあの眼差しで返してくる日はいつのことになるのやら。


 深いため息をついて、はしゃぐ依田ちゃんたちを見ていると、目の前に冷たい缶コーラが差し出された。水着の九王沢さんがそこに立っていた。


「あれっ、皆と泳ぎに行かないの?」

 と尋ねると、九王沢さんは首を振った。

「後で行きます」


 いつもと違って、天使の笑みじゃなかった。珍しくどこか不機嫌そうな顔だ。

 なんか気まずい。


「昨夜は、その、ひどい目に遭っちゃったね…?」

 仕方なく話しかけたが彼女は、応えなかった。


 視線は海の方をみながら、自分も汗を掻いた缶ジュースを抱えて僕の隣に座ったのだ。ん、なんだろこの威圧感。いたたまれなさがいや増した。


「まあ、助けに来てくれた人がいて、良かったよ。あそこで閉じ込められたままだったら、今頃大変だったかも知れないしね」

 彼女が答えないのを知ってて僕はまくしたてた。

「でも本当、二人とも無事で良かったよ」

「どうしてですか?」

 すると突き返すようにふいに、九王沢さんは突然、口を開いたのだ。僕は思わず面喰った。

「え?く、九王沢さん?」

 じっと九王沢さんは僕を睨みつけていた。

 昨夜とはまた違う意味で、切ない、思いつめた眼差しである。


「どうしてあそこで、終わっちゃったんでしょうか?せっかく、那智さんが、求めてくれたのに。せっかく、二人きりになれたのに。わたし、納得できません」


 たぶんあの幽霊だか化け狸にだろう。いや、そんな無茶な。しかしありったけの憤懣を吐き出すように言うと、九王沢さんはふいに顔を近づけてきた。


 僕は確かに聞いた。すぐ耳元で、誰にも聞こえないよう、彼女はこう僕に吹き込んだのだ。


「今度はちゃんと最後まで続き、して下さいね…?」

 言ってから九王沢さんは、涙目で僕を見たあと、あわてて顔を背けた。


 僕は、はっと息を呑んだ。まさか。まさかだ。あの晩の言葉は、幻じゃなかった。僕の妄想なんかじゃない。じゃあ、あそこまでは本当に…?


「い、今、なんて…?」

 僕は戸惑いながら問い返した。でも、あの九王沢さんが、答えてくれるはずがない。みるみる顔が真っ赤になった。

「知りませんっ」

「うわっ」


 立ち上がりかけた僕は、両手で思いっきり突き倒された。いってえ。手をすりむいてしまった。


 その間にも、白ビキニの九王沢さんの背中はみるみる遠ざかっていく。僕は声を出せなかった。言うだけ言って走り去った彼女を、引き留めておく余裕もない。陽射しのせいばかりじゃない。顔が熱くて、しばらく誰とも話せそうになかったのだ。


(そう言えばまだ、夏は始まったばかりなんだよな)


 言い訳するように僕は思い直すと、人でごった返すビーチを、望んだ。


 九王沢さんが通り抜けたあと、大音量でレゲエを流すラジカセを担いだ男が通り、転げるように水着の小さな子供たちが、次から次へと湧き出てきた。


(今度こそ、いや…この夏こそは!)


 絶対にキメる。だって九王沢さんだって、それを嫌がってなかったことが分かったじゃないか。


(それにしても)


 昨夜はちっくしょう。


 ホラーなんか大っ嫌いだ。

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