第8話 チョコを食べないちびっこ

 自分の指を口に当てただけ。ただそれだけなのに、とてつもない多幸感がメアリを満たした。体の奥から湧き出るようにしみじみと、嬉しいと思えた。

 そうした感情をよくよく味わって、そうして満足してからよく目を開けると、目の前に桐絵がいた。当然の話だけど。


 だけど目の前の桐絵の顔の、その表情の、なんて可愛いことか。そう言えばこれを見るのが目的だったのだと今更思い出したが、それでもいいと思えるくらい、今この瞬間もいい顔をしている。


「……ん。ふふ。桐絵さん、あなた、何て顔をしているのよ」


 手はずり落ちたように顎の下あたりで停止し、眉をよせ口は半開きで、赤らんだ頬にうるんだ瞳の何とも言えない物欲しそうな、おねだりをしているような。

 情けない、とも表現できるような間の抜けた顔なのに、アメリには可愛くてたまらなく胸がざわつくのを抑えられない。


「な、ん……ど、どんな顔、してるって?」

「まるで、キスをねだっているみたいな顔をしていますわ」

「ばっ、ばっかじゃないの!? へ、変態はどっちなのよ!」


 直球で感じたことを言うと、桐絵は威嚇するようにそう怒鳴ったけれど、今のアメリには自覚のない桐絵が誤魔化しているようにしか見えなくて、ますます小動物的にも可愛く見えてきて、抱きしめたくって仕方ない。


「キスはしませんけど、間接キスでよければ、もう一度させてあげてもよろしくてよ?」

「ば、かな、こと。ほんと、んなわけないじゃん」


 桐絵はそう否定したけれど、動揺で声が震え、目線はじっとアメリの唇を見ていることは一目でわかる。


 アメリと同じように桐絵もおかしな熱に体を侵され、アメリにいつもと違う感情を抱いているのだろう。

 そう確信したアメリは、ためらうことなく桐絵を抱きしめた。小さなその体はずっと隣に合って、支えられたことは数えられないくらいなのに、こうして腕に収めたのは初めてだ。


 抱きしめるくらい大したことではないと思えるくらい傍にいたのに、これが初めてだなんて、おかしな気さえした。

 それと同時に、改めて桐絵の小ささを実感する。何て小さくて可愛らしいのだろうか。すでに高い熱をもつアメリよりさらに高く、抱き合うことでお互いの心臓が同じくらいうるさいのも伝わってくる。


 こんなに小さくて頼りないほど細くて、抱きしめたら壊れてしまいそうな華奢な体で、いつもアメリを引っ張って支えて導いてくれていたのだ。

 そう思うといつも以上の感謝の気持ちと、桐絵がとても愛おしいと思う気持ちがあふれた。


「桐絵さん」

「な、な、なに!?」

「抱きしめ返してくださってもいいのよ?」

「……ば、馬鹿なことばっかり言って! ほんとに、しょうがないんだから」


 桐絵は悪態をつきながらそっと、いっそ弱弱しいと言うほどの力でアメリの背に手をまわした。それがまた、可愛らしくて胸の奥がきゅんとしたアメリはぎゅっと桐絵を抱きしめてそのまま押し倒した。


「あだっ、な、にすんのさ!」


 頭をぶつけるのは想定通りだったが、思ったよりいい音をたてて桐絵は後ろの床に頭をぶつけた。抱き着くのをやめて自身の頭を抑える桐絵に、アメリは腕に力を込めて体を離して四つん這いになってから改めて桐絵に言ってあげる。


「あら、ごめんあそばせ。お詫びに、間接キスをさせてあげてもいいわよ?」


 桐絵がしたいことなんて、アメリにはお見通しなのだ。だからあえてぶつけた。こうすれば強情な桐絵も頷きやすいだろう。アメリの優しさである。


「ば……なんで、そうなるの。ほんと、馬鹿じゃないの。……そんなにしてほしいなら、してあげればいいんでしょっ」


 そしてついに首を縦に振った桐絵は、真っ赤な顔のまま手をのばし、アメリの顔に触れた。

 頬を包み込むように手を当てられ、その予想外の感触にここまでと種類の違う胸の高鳴りが発生した。アメリと同じように指先で触れるとばかり思っていたのに。


 まるで本当にこれからキスをするように、両手で顔を包み込まれてしまう。

 え、嘘よね? 許可したのは間接キスだけで、でも、そんな、別に、いやと言うわけでは。ここで拒否したら傷つく? 泣いてしまう? それは駄目。でも、そんな、勢いでキスなんて。いくら桐絵さんでも。

 と混乱するアメリのぐるぐる目に気が付かず、桐絵はそのまま親指でアメリの唇に触れた。


「!??」


 想定外過ぎて、体が揺れるほど驚いてしまった。桐絵と目が合う。


「ふっ。びびってるわけ?」


 にっと、いつもみたいに余裕ぶった顔に戻った桐絵がそう言った。それを聞いた瞬間、アメリの中で何かが切れた。


「びっ、びびって、るわけないわ! こんな、キスくらい!」

「えっ、む!?」


 落とすように、桐絵と唇を合わせた。熱い。そしてお互いの息で唇がぬれる。ぬめりとした嫌な感じが、何故かもっとと求められて、アメリは本能のまま桐絵の唇をなめた。


「&%$!?」


 声にならない桐絵の悲鳴に、アメリは勝者特有の優越感と、そして単純な快感に酔いしれながら顔をあげる。


「このくらい、私にだって、なんてことないわ」

「っ、私にはなんてことあるわ! 馬鹿ー!」

「んぎゅっ、いっ、たーぁ」


 ほんの少しの距離だったので、勢い良くされた頭突きは避ける間もなく、脳まで響く痛みにアメリは左手を床から離して頭を押さえ、そのまま桐絵の上にのっかかるようにして脱力した。


「うぅ、なにするのよぉ。痛いぃ」


 涙目で抗議すると、桐絵は肩口にいるアメリに対して頭を撫でながら睨んでくる。


「馬鹿。泣きたいのは私のほうだっつーのっ。何勝手に、き、キスとか。馬鹿じゃん。は、初めてだったのに。つか重いから早くどいてよ」


 そしてアメリが泣き止んだと見るや、ぺしぺしと頭をたたいてどけと催促してくる。

 もはやさっきまでの神がかり的な可愛さはない。もちろん桐絵は普通にしていたって可愛いけれど。


「……なによ。私だって初めてなのよ? 光栄に思うならまだしも、そんなに……嫌がらなくてもいいじゃないの」

「う……い、嫌がってるわけじゃないけどさぁ。でもその、こういうのはふざけてやるものじゃないし。間接キスくらいならまだしもさ」


 じっと見ながら文句を言うと、桐絵は気まずそうに眼をそらして、勢いがなくなり小さな声になってそうぶつぶつと反論してきた。

 そんな風にいじらしく言われると、アメリだってなんだか悪いことをしたのかな。なんて気にならなくもない。ああ言われて状況にも飲まれて勢いでしてしまったのは認めなくもない。


 だけど、ふざけていたわけではない。そんな風に決めつけなくてもいいではないか。挑発されて、勢いだった。だけど桐絵を見ていて可愛くてドキドキしていたのも、キスが気持ちよかったのも、もっとしたくなったのも。全部本当のことなのに。


「……別に、ふざけてなんかないわよ。なによ。ふん。あなたがしたがっていたからしてあげたのに」

「だからさぁ……アメリは、どうなのさ」

「え?」


 しょんぼりしたのを隠すために、アメリは起き上がって唇をとがらせてみせた。そんなアメリに、同じく起き上がった桐絵がさっきと逆にアメリに対して手をついて顔を寄せてきた。

 そして真剣な顔でそう問われて、意味が分からずにきょとんとしてしまう。


「だから、私がしたがったとか言ってるけど、じゃあ、アメリは? アメリは私にキスしたかったわけ?」

「……そ、そんなの、愚問だわ。答えるまでもない質問ね」

「いいから答えろって」


 怒り気味に催促された。だけどそんなこと、桐絵とキスがしたかったからしたなんて。そんなはしたないことがいえるはずがない。だってアメリと桐絵は付き合ってすらいないのだ。そんなはしたないこと、アメリから言うなんて。

 できるはずがない。だけど、桐絵は真剣な顔で、嘘を言って通じるはずがない。そんなことをして、嫌われたくない。


「……し、したくないことなんて、いくら桐絵さんのためでもしないわよ。……これでいいでしょう?」


 だから精一杯の気持ちを込めた。そもそもアメリ自身にだってわからないのだ。どうしてあんな気持ちになってキスをしたのか。

 あんなに気持ちよくて、またしたいと、今でもそう思ってしまっているのか。不思議でたまらないくらいなのだ。


「……どこまで意地っ張りなの。ほんと、呆れるよ」

「な、なによその言い方は」

「別に。しょうがないから、そういうことなら、まあ、勝手にキスしたのも、許してあげようかなって」


 桐絵はそう、仕方ないなぁっていつもみたいな優しい笑みをした。詰問するような前かがみもやめてさっきの怒った声音も消えていて、アメリはほっとすると同時に、だけど桐絵が一方的に許すとか、そう言う話ではないと思う。

 放り出していたクッションを引き寄せて胸に抱きしめて、顎先を埋めながら、嫌われなさそうなので文句を言う。


「ゆ、許すも何も、桐絵さんから勝手に間接キスしたくせに」

「それは……もう、わかったわかった。じゃあ、はい、食べさせてあげるから」

「……ふん。桐絵さんの膝はまあまあだから、膝枕付きで許してあげるわよ」


 はい、あーん、と桐絵がチョコレートを持ち上げたので、仕方ないからアメリはそれにのってあげることにした。頭をさしこむと、桐絵は手をあげて迎えてくれた。

 桐絵はチョコを持っていない手でそっと撫でてくる。犬猫じゃあるまいし、気安く撫でられるのは好きではない。アメリは髪色が珍しいので、そんな風にしてくる失礼なクラスメイトは過去にもいた。

 だけどその誰とも違う、桐絵の優しい手付きは評価していて、むしろこの膝枕は癖になるかもしれない。


 それからアメリは、桐絵にチョコレートをすすめなかったし、桐絵も自分から食べようとしなかったので、半分食べたところでお腹がいっぱいになったので食後のデザートは終わった。

 別にアメリは桐絵が自分でチョコレートを食べる分には構わなかったのだけど。でも、それは絶対にアメリから言ってあげないことにする。


 だって、勝手に桐絵が先にしたのだ。その次に勝手にアメリがしたなら、その次は、桐絵の番だから。

 それが対等なお友達と言うものだから。アメリはそっとチョコで濡れた自分の唇を舐め、それを少しだけ赤らんだ顔で見る桐絵に微笑んだ。


 今日はまた少し、特別なお友達として仲良くなれた気がした。そんな梅雨の始まりだった。

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