夏期講習1

「おー、小湊さん!」

「朝倉くん!おはよう!」

ひょいっと角から飛び出してきたのは、朝倉春馬あさくらはるま、通称「ハル」だ。

彼は優しく、とてもさわやかな少年だ。この夏にぴったり。

そのため私が引っ越してきてからは、ずいぶんとお世話になったものだった。

「あれ、小湊さん講習出るの?」

「おばあちゃんに強制されてさぁ……朝倉くんも?」

「部活の合間に顔出そうかなと思ってさ。雄大ゆうだいも講習出席するらしいし」

「板垣くん出席するんだ。珍しいね」

朝倉くんと板垣くんはバスケ部に所属している。朝倉くんとは違うクラスだが、時間帯がかぶるときは何度か一緒に帰る付き合いだ。

板垣くんは、名前しか知らない。ただ、朝倉くんと同様にバスケ部であることから、そこそこ知名度は高いのだ。

「じゃあ俺はここで」

「うん。部活頑張ってね!」

朝倉くんは、体育館へと消えていく。

よし。夏期講習、頑張るぞ。

心の中でそっと、そう言い聞かせた。



見慣れた校舎。朝日に照らされた、委員会のポスター。

しかし、いつもの騒がしい声々は聞こえない。

「あれ、2年1組は6人しかいない……?」

靴がある、下駄箱を丁寧に数えていく。

1、2、3

……やっぱり6人。

優秀なのか、ちがうのか。

いつもとは一味違う、夏色に染まりそうな階段をひとつひとつ、踏みしめていく。

「おっ、おはよう!」

不思議なテンションで教室の扉を引いた。

その世界は予想通りのものだった。

ただ本や教科書を凝視する人、問題集を解く人。

一部寝ている人は……論外である。

があがあと間抜けに鳴くカラスの声が、やけに教室に響き渡った。

「おはよ、塩崎しおざきさん」

びくっと体を緊張させたのは、塩崎若菜しおざきわかなちゃんだ。

小さく、ぺこりと会釈を返す。

彼女はかわいい。とてもかわいい。

小動物のような動き。さらさらとした美しい髪は、今日は三つ編みに結ばれている。

顔もとてもかわいい。

故にクラスのアイドルだ。今にも吸い込まれそうな、可憐な瞳。

特に関わりもない私にとって、この3日間は絶好のチャンスとなりそうだ。

ただ……一つだけ、気がかりなことがあった。




「あー、本当に最悪!」

予想は的中した。この4時間、なんとすべて数学の授業だったのだ。私語禁止、10分休憩ではただ課題を解くのみ。

そのうえ、なんと先生は川口先生だった。

この学校で、いや、この村の子供全員に代々言い伝えられている、厳しすぎる先生のこと。

「午後の授業は3時間も……?だから3日間しかなかったのか。昼休みが1時間あるのが不幸中の幸いだよね……私、生きて帰れるのだろうか……」

「うるせえな、静かにしろよ。迷惑だ」

「えっ、ああ、ごめん……?」

振り返ると、とある男子がそう言っていた。

彼の目力に圧倒されそうになる。

しかし、私は彼の「それ」を、まだ知らなかった。

「えっと……誰だっけ?」

「おい!」

男子は思わず、こけたような動きをする。

塩崎さんも吹き出していた。

ほかの4人も肩を震わせている。バレバレだ。

「いやあ、転校してきたばかりでさ。だいたい、凛以外の人とは話さないし、4か月しか経ってないから」

「いやお前、4か月経ったらいい加減覚えろよ。2年1組は25人しかいないだろ」

そうだっけ、と思い返す私。

関わりのない人の名前を覚えることは、私にとっては難易度高めのミッションなのだ。

その男子はとても困惑した顔を見せている。

こそっと塩崎さんが近づいてきて、私にこう言った。

「あの……咲ちゃん、この人結構有名だよ……バスケ部だし」

「え、バスケ部?」

と、いうことは。

「俺は板垣雄大いたがきゆうだい

「あああああ!」

ガタン!と思い切り立ち上がった。その衝動で、椅子もゴロンと地面に転げる。

「っせーな……静かにしろって」

「昼休みくらい楽しく過ごさせてよ。板垣くんって、朝倉くんが言ってた人だ!板垣くんが講習来るなんて意外だね、本当に」

「さっきから心の声、漏れてるっつーの」

あははっと板垣くんは顔をほころばせた。

「……板垣くんってさ、意外といい顔するじゃん」

「……は?」

しん、と水を打ったように、あたりは静寂につつまれる。

何言ってんだ、こいつ?というような目で、眉をひそめる。

「知らね」

板垣くんは席を外し、顔を見せないまま廊下へと出て行った。

「……私、なにか変なこと言ったかな」

隣では、塩崎さんが小刻みに顔を横に振っていた。

「多分、板垣くんは女子に慣れていないんだと思うよ……。今まで凜ちゃんとしか話したのを見たことがないし……」

塩崎さんの声が聞こえたのか、ほかのみんなもうんうんとうなずいている。

そんな少女漫画的な男子が、この中学校にも存在するとは……。

「少し驚いちゃったのかもしれないね」

塩崎さんは、春の花が満開に咲くように、にこっとほほえんだ。

うるわしく、端麗な彼女の姿に私は、体中に稲妻が走るように、一つの名案が浮かんだ。

「……ねえ、塩崎さん」

私は意を決したように、口を開いた。



「放課後、塩崎さん書かせてくれない?」



「ちょっと、恥ずかしいよ……」

黙々と、私はその「女の子」の制服の袖を描いていく。

「……ほう。よい出来かもしれんなあ」

「な、なんで私なの?」

塩崎さんはきまりが悪そうに、もじもじしている。

「なんでって!塩崎さんともっと話してみたいし、かわいいからすごく描きがいあるでしょ?」

「そんなことないよ……」

照れている塩崎さんもかわいい。だが、そんなことは1組の常識だ。

淑やかな彼女が見せてくれるのは、花のような可憐さだけではない。照れたり、ほほえんだり、驚いたり。1日でたくさんの表情を見ることができた。

そう、まるで……空のように。

あの時の、あかね色の空のように。

「塩崎さん、いろいろなスキル持ってるのにもったいないよ。空みたいに」

「空……?」

「ううん、なんでもないよ」

私は笑い、キャンバスに目を移した。

「そうそう、あのさ」

ずいっと塩崎さんに近づく。塩崎さんは少し驚いて一歩引いたけど。

「若菜ちゃん、って呼んでいい?」

そういった途端、彼女ははっと小さく息をのんだ。

「だめ、だった……?」

おそるおそる尋ねると、塩崎さんは横に首を振る。

「……そんなことないよ。ありがとう」

塩崎さんは、ふっと口元で笑った。そのうるんだ瞳は、とても切なげに見えた。



*      *      *



ざく、ざく。

一つ、また一つと、舗装されていない地面に足跡をつけていく。

「はあ……」

大きくため息をつく、少女が一人。

塩崎若菜。咲の同級生だ。

一歩、また一歩。

重く感じる足を引きずらせ、たどり着いたのは。

「……しお?」

「大樹。いたんだ」

思わず顔をほころばせる、若菜。

その場所は、なんと小さな神社だった。



「気が付いたらここに来てたんだ。しおは?」

「……私も」

池のほとりのベンチで、二人はたたずむ。

水中ではくるくると、金魚が踊るように泳いでいる。あかね色の夕日を反射させながら。

若菜はぎゅっとスカートの端を握った。

「ねえ、どうしよう。大樹、どうしよう……」

若菜はさらにうつむく。

「……しおは一番つらいよな。わかるよ」

まるで大切な宝石に触れるように、大樹は優しく若菜の頭をなでた。

「……大樹の手は、昔からみんなを守ってきたよ。なでられているだけで落ち着くの。きっと、咲も……」

この手に守られてきたんだよ。

口にそう出かけたが、のどにつっかえたように言葉が出ない。

「……今日ね、夏期講習があったの。そしたら咲が私をね」

描きたいって……

そう言おうとした途端に、何かがこみ上げてきた。

言葉で表せない、悲しみでも喜びでもない感情。

同時に、視界もぐにゃりとぼやける。

あふれんばかりに涙がこぼれてきた。

「ねえ、私」

嗚咽を交えながらも、突然流れ始めた涙を止めようとする、若菜。

もちろん彼女も驚いていた。

止めどなく溢れる涙。

必死に止めようとするも、思えば思うほどあふれてくる。

怖かった。怖くてたまらない。

「大丈夫。大丈夫だよ」

大樹はそっと若菜の手に手を重ねる。包み込むように。

「……ゆっくりでいいから。しおの言いたいことは、俺にもよくわかるから」

胸の奥にズキと痛むように、だが救われるように、その言葉が突き刺さる。

「……私を描き出したの。そしたら、空の話を……」

空。

あかねいろの、あの時の。

「私のこと、若菜ちゃんって呼んでもいいかなって……」

さらに勢いを増して、若菜の涙はこぼれ落ちる。

抑制できない感情。

表現のできないことが、若菜にとってはとても辛いことだった。

本音を口に出せば、さらに涙があふれてくる。

「変わっちゃった咲の、変わらない性格が怖いの……!」

やっとの思いで言い切ったその短文には、言葉で表しきれない感情と、涙がつまっていた。

ずきずきと「何か」が痛む。それと共鳴するように、若菜は背徳感に飲み込まれた。

若菜を優しく見守る、大樹。

そんな二人の姿を、境内から見ていたのは

春馬だった。

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