忘れ去った記憶

「おい!」

耳元ではじけた。その声は、鮮明に、私を呼び止めた。

「これ、落とした」

時空がゆがむように、ゆっくりと振り返る。

その声の主は少年だった。まだ声変わりの最中かと思わせるような、落ち着いた少年の声。

どこかで聞いたような…変な考えが脳裏をよぎる。

いやいや。そんなはずはない。

灰色のズボン、真っ白な半袖のシャツを身に着け、その手には私の生徒手帳が握られていた。

こんな人は見たこともない。

「あ…ありがとうございます。すみません、いつの間にか落としていたみたいで」

ペコッと会釈を交えてよそよそしく、逃げるようにきびすを返した。

「おい」

「なんですか!?」

しつこいな、と急に腹が立ち、思わず口調が強くなってしまった。

見ず知らずの人に、どうしてこんななれなれしい言葉がかけられるのだろうか。

「お前…どこかで」

少年の顔は一層曇る。私があんな言い方をしたからだろう。

何かを訴えているような、純粋な瞳。

誰だ…誰だっけ…

必死に思考回路を働かせるが、一向に思い出せる気配もない。

むしろ恐怖に包まれている感覚だ。

「…すみません。あなたのこと知らなくて。生徒手帳、拾ってくれてありがとうございました。さようなら」

再び私は帰途を駆けていく。少年の声はもう、私の耳には届かなかった。



「ただいまー!」

スパーン、と思い切り家の格子戸を開ける。と言っても駄菓子屋の裏口だが。

「ちょっと、いい加減その癖やめなさい。扉が壊れたらどうするの」

奥からのっそりと登場したのは私の祖母。通称『駄菓子屋のばあちゃん』。

いつものごとく、お決まりの言葉を口にする。

「うちの駄菓子屋はね、代々100年も続いているのよ。その100年の重さが咲にわかる日がいつか…」

「わかった。わかったから、手伝えばいいんでしょ?」

「その通り。よくわかったねえ」

あたりまえよ。何年も聞いてるから。

さすがは私の孫ね、とつぶやく祖母をよそに、そそくさと私は部屋へ戻る。

「こらあ、咲!」

あれ、おばあちゃんの声がしたかな。

…気にしない。

振り返りもせず、私は自分の部屋へと直行した。



部屋に戻ると私はスクールバッグを放り投げ、たたみに寝転んだ。

机の上には、いつか撮った家族写真。

私、父、母、祖母、後ろにはなぜか野良猫。

「そうだ。この村に初めて来た夏の写真なんだ」

思わずクスッと笑う。楽しかったな、あの時は。

…と、思いたいのに。

それなのに。なぜ私は思い出せないのだろう。

お母さん、お父さん…なんでいなくなったんだっけ。

なぜだろう。思いを巡らすほど、知りたいという気持ちが強くなっていく。

「なんで…思い出せないのかな」

独り言を言っても何も起きないのに。

思わず笑ってしまう。

「咲、入るわよ」

ガラガラ。いかにも、古びた扉の音。

「手伝いもしないで。ごろごろしていて何か楽しいの?」

「ごろごろしているほうが楽しいの!」

私はごろんと反対を向いてすねる。祖母は優しく私の肩に触れた。

「友達はたくさんいるの?いじめられていない?」

「大丈夫。大丈夫だって」

口癖のように、おばあちゃんが毎日私にかける言葉。

今の悲しみを知るはずもない祖母の声が、心の底までじんと染み渡った。

タイミング…見計らったかのようだ。

「それよりお店は大丈夫なの?」

そう言う私の声が、少し震えた。目の奥がじんわりと熱くなる。

「今はだいちゃんが店番してくれているから。頼りになるわね、だいちゃんは」

だいちゃんというのは、近所に住む高校1年生だ。

直接会ったことはあまりないが、常々つねづねうちの店番をしてくれるらしい。

(手伝わない私に対しての嫌味?)

なんて、こんな時は思ってしまう。

鼻がツンとする。視界もぐにゃりと曲がり、ぼやけた。

祖母の手は、優しく慰めるように私の肩をゆっくりとさする。

「…おばあちゃん、私の顔見えてるの?」

震えた声で問いかけたが、祖母は何も答えなかった。



ジージーとアブラゼミがやかましく鳴く、梅雨明けの午後。

豊かな緑の景色に自分も染まってしまいそうな夏の初め。

若者ほど、この夏を楽しみにするものはいない。

潮風かおるこの村は、美しい海に面していて、みずみずしさをまとった海は私たちを招く。遠くからは、パシャパシャとはしゃぐ子供たちの声が聞こえる。

…だったらよかったのに。

七夕も終わり、今日も今南村いまなみむらの夏祭りを壮大に盛り上げようとする村人たちでにぎわっている。

もちろん山の中だ。

「夏といえば幽霊!」

なんて言って通り過ぎた公民館の皆さんは、お化け屋敷をもよおすらしい。

そこら中にいる子供のように私は遊べない。

夏祭り、この駄菓子屋の露店を毎年出店していて、その手伝いをしなくてはならないのだ。

そのため祖母は大忙し。「だいちゃん」もその手伝いをしており、店番は終業式を先ほど終わらせた私がすることになった。

もちろんエアコンもない。隣には使い古した扇風機のみ。

ガガガガ、といやな音を立てて必死にはたらいているその姿は、まさに滑稽なものだった。

「…さい」

チリリと夏の音が響く。しかし、私はそう優雅に風鈴の音など聞く暇もない。

店の前を駆けていく子供たちをただ、ぼんやりと何の気もなく見ているだけだ。

「ください」

そう。私はあの後、祖母に「手伝いなさい」というように笑顔で諭されたのだ。

おかげでクーラーのきいた祖母の作業場とは別に、この真夏に古びた扇風機一台のこの店で…

「かき氷くださいってば!」

「はい!すみませんでした!?」

あまりに唐突なことだったので、反射的に足と手が動いていた。気づけばもう、手には大盛りのかき氷がのったガラスの器を手にしていた。

「ごめんなさい、ぼうっとしてて…何味がいいですか?」

「イチゴ」

今にもこぼれそうな氷の上に、たっぷりとシロップをかける。かき氷だけはわたしのと言っても過言ではない。

「お待たせしました、イチゴシロップのかき氷です」

「どうも」

改めてお客さんの顔を見ると、背の低い少年だった。小学生を連想させるような短パン、Tシャツ。定番だ。

「お姉さん遅すぎ」

「えっ…ご、ごめんね!ちょっと疲れていたかも?」

あはは、と作り笑いでごまかす私。何をしているんだ。

初めて「お姉さん」と呼ばれたから嬉しかった、なんて。誰にも言えない。

「それさ…」

少年が氷を口に放り込みながら、指をさす。

指の先には、思いもよらなかった「それ」があった。




氷をほおばりながら指さした、それは。

「…お姉さんさ、東京に住んでいたの?」

たくさんのビルが立ち並んだ「絵」だった。

東京タワーやスカイツリー、オフィスビルが隙間なく並んでいる。

「これ、お姉さんの絵でしょ。絵をかくのが上手なお姉さんがいる駄菓子屋さんって、ここのことだよね?」

「そ、そうだけど…」

私は絵画が好き。描くのが得意。

人からそう言い続けられているうちに、自分でもいつしか納得するようになった。

「…よく覚えていないの。東京にいて何かが起こって、気づいたらこの村に来ていて…いつ、どこでなぜそれを書いたかもわからないんだ。…なんて、きみに言ってもしょうがないよね」

しかし、その絵の筆跡は確実に私のものだった。

思わず顔が緩む。少年はじっと、私の瞳をのぞき込んでいた。

「きみ、名前なんて言うの?」

「ぼくは月城渚つきしろなぎさ

渚…?

どこかで聞いたような…?

「僕がまだ小さい時、お姉さんみたいに絵が上手な人がいたんだって、兄ちゃんが言ってた。でも、その人はもういないんだって」

…なんだろう。

初めて聞いた気がしない。おばあちゃんから聞いたことがあるのかな。

「だから兄ちゃん、その人の絵をもう一回見たいんだって。すごく仲が良かったんだよね、きっと」

「…そうだね。きっと」

きっと、そのうち。

「お兄ちゃんはその人に会えるよ。私も探している人がいるの。一緒に頑張ろう、ってお兄ちゃんに伝えてくれる?」

「うん!ありがとう、お姉さん!」

渚くんは立ち上がり、氷の粒さえも食べられてしまったガラスの器を私に手渡す。

また食べに来るね!と手を大きく振りながら、だんだん小さくなっていく渚くん。

思わずにこやかになるその瞬間、私はあることに気づいてしまった。

「…どうしよう」

かき氷代、もらっていない。


*        *         *


「やばいやばい!どうしよう!おばあちゃんに怒られる!」

バタンバタンと誰もいない店の中で暴れる少女が、一人。

小湊咲こみなとさき。普通の中学二年。

…の、はずだった。

「はああ~…どうしよう。どうしてごまかそうかな…」

かき氷代一つで、こんなにも不安になる必要はないだろう。

だが咲の祖母は、将来の彼女のために厳しくしつけをしているようなのだ。

「そうだ、店のお手伝いをするために夏休み課題も早く終わらせないと」

よっと咲は起き上がり、分厚い数学の課題を広げる。

「あの~、すみませんソーダ2つお願いします」

「はい!しばらくお待ちください」

どこに何があるか、把握することが大切。祖母はいつも少女に語りかけていた。

「どうぞ!2本で200円になります」

「200円…って」

客は咲の顔をのぞき込む。

少年だった。背の高い、優しそうな少年。

一つ、深呼吸をしてから、口に出した。

「……咲?」




少年の顔が曇る。

「え……?」

誰だ、この人……?

咲は困惑した。

見ず知らずの人が、なぜ私の名前を知っているのか?

「だ、誰ですか?」

「おれ、大樹だいき。『だいちゃん』だよ」

「ああ……!」

だいちゃん!

祖母がいつも言っている人。毎日駄菓子屋の手伝いに来てくれている人。

会ったことがなかった、あの人。

今までの謎が、すべて「だいちゃん」に結びつかれたような気がした。

「お手伝いをしてくれてありがとうございます!私のこと、おばあちゃんから聞いたんですよね。小湊咲です」

「……よろしく。俺は今南高校に通う高1です」

大樹は朗らかに笑った。切なさをかすませながら。

「ご近所さんなんですね。私は店番をしていますので、露店の準備頑張ってくださいね。だいちゃんさん!」

咲は歯を見せて、満面の笑みを見せた。

だいちゃんもその笑顔を見て思わず笑う。

「だいちゃん」のその笑顔が、警戒心の強いおばあちゃんの緊張を解いたのだろうな。

そう思えた咲であった。




「千代さん」

駄菓子屋の裏部屋ともいえる、作業部屋では、咲の祖母・千代ちよが夏祭りの準備をしていた。

「あら、おかえり。買ってきてくれたのね」

「ああ。でも、千代さんがソーダなんて飲むの?」

千代はうふふと明るく笑い、手を動かし続ける。

「私は飲まないわよ。なぎさくんが飲みたがるでしょう?」

振り返ると、隣に渚がちょこんと座っているのである。

「うわっ、いつの間に」

「だいちゃん、世話焼きなのに弟には厳しいのよね」

「それは……」

口を閉ざしてしまう、大樹。

「ついさっき、咲とかき氷を食べている渚くんを見たのよ。おいしそうに」

「ええっ、いつの間に」

渚の行動力は誰にも予測できないものだった。放浪癖がある、と大樹の母からも告げられていた。

「咲、楽しそうにだいちゃんのこと話していてお代もらってないのよね」

千代は苦笑する。

「俺……の話?」

「そう。詳しいことは彼から聞いてみなさい」

そういうと、千代は渚へと目を配った。

渚はおいしそうにソーダを飲んでいる。先ほど咲がのせた大盛りのかき氷を食べたというのに。

「千代さん……俺」

大樹は左手を強く握りしめる。

「……咲の中の俺は『だいちゃん』のままでいいのかな」

千代のねじをまく音とともに、大樹は語勢を失っていく。

「しおだってこのままだったら、咲に心を閉ざしてしまうかもしれない」

「だいちゃんが咲のために毎日手伝いに来てくれるの、私は知っていたわよ」

目もくれずに、ただ露店の柱を組み立てていく。よく見れば、かすかにほほえんでいたような気もした。

「だいちゃん、あんたは偉い子よ。村の子供たちの仲も治めてくれる。だからあきらめちゃだめよ。咲も必死なんだから」

「でも……」

千代は大樹の手を強く握りしめる。

「大丈夫。可能性は皆無ではない。そういわれたでしょう?」



トントントントン

包丁とまな板がぶつかり合う、なじみのあるあの音が響く。

「はい、サラダ。咲のね」

咲の受け取ったサラダには、大好物のきゅうりが大量にのせられていた。東京では「かっぱ」とも呼ばれていたほどだ。

「うわあ!きゅうりじゃん!」

「そうよ。明日から3日間の夏期講習でしょう。少しでも応援しようと思ったのよ」

「……あ」

そう、咲はすっかり忘れていた。

今南いまなみ中学校では1学期が終わると同時に、翌日から有志の夏期講習が開かれる。

たいていは呼び出された生徒の他、まじめに授業を受ける生徒が集まる夏期講習だが、千代の強い言い聞かせにより、咲も行くことになったのだ。

ーー次のニュースです。昨年起きた無差別殺傷事件から1年が経ち、現場には花を手向ける人々がーー

いつもに増して冷淡に聞こえた、ラジオから流れるアナウンサーの声。

「おばあちゃん、これって何の事件?」

大好きなきゅうりをほおばりながら、咲は無邪気に問う。

「これはね……」

千代はゆっくりと、残ったきゅうりをぬかに沈ませる。

「たくさんの人が殺されてしまったのよ。罪も何も犯していない人々がね。多くの人が犠牲になったわ」

ふうん、とサラダをもりもり食べる、咲。

「そのうちに……亡くなってしまったのは2人だけ、だったのよね」

そう語る千代の声が、だんだんと小さくなってゆく。

ーー殺害された夫婦の友人が、手を合わせている様子がうかがえました。なお、犯人はいまだ逃走中でーー

「……だからね、咲もその人たちも分まで生きなさい。今を生きている人間というのは、奇跡であるほんの一部なんだから」

そう語る千代の背を、咲はただ静かに見ていた。


*      *       *



「いってきまーす!」

目の前の坂道を、私は自転車で一気に駆け下りていく。

「危ない、ちゃんとスピード落としてね!ブレーキも!」

「はいはい、やるから!」

この夏から、私は自転車登校となる。昔、私の母が使っていたという自転車を倉庫から引っ張り出し、私が乗ることになったのだ。

「うおおおおっ、自転車サイコー!」

夏の風を自転車で受ける爽快感、青空の下で駆けるすがすがしさ。

今から向かうのが夏期講習であることを忘れてしまうかのような「晴れ」を、太陽が届けてくれる。

「この新鮮な空気を、今すぐにでもえがけたらいいのに」

新たな3日間。

あんなことが起こるなんて、私は夢にも思わなかった。

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