Reach the stars     作:タンバリン

   

冬の太陽は低く、淡い光は澄んでいた。それは北向きのビルの窓からブラインドを抜け、古びたスタンドライトの影と重なる。青いフランネルのシャツの袖と、そこから這い出た私の腕がその下でうごめく。長年の安月給によって完成された、肋骨のような腕だ。誰に知られることもなく、腕は血を巡らせながら、永遠のタスクの尻尾につかまりつづけていた。

安物の机には緑のデスクマットが敷かれている。上に置かれているのは、カシオのデジタル時計、大束の書類とA4の紙一枚、付箋だらけの雑誌、100円ショップによくあるペン立て、赤いスタンドライト、そして小さな本棚。木で組まれた枠組みの内側に、10冊ほどの本が横並びに詰められ、蒸気のようなほこりが積もっている。部屋の空気は悪い。塀の下の抜け道のように狭いスペースで、大人6人が働いている。挨拶を交わすことさえまれな関係。誰かが椅子の後ろを通り、私の裏の席に座った。とても足早で、気をつかって前に椅子を動かすことさえできない。

 

 そのとき、鋭い羽音がした。


 思わず私の身は跳ねよけ、固まった。音の方を見た。何もない。わずかの後に仕事に戻ると、また鳴った。もう一度音の方を向いて探すも、やはり虫の姿はない。窓の外からとどく音ではないかと願ってブラインドを持ち上げると、果たしてそこに蠅がいた。


 蠅は2cm程の大きさしかなく、灰色をしていた。夏場の黒々しい、あの獣のような体躯とは違って、それは老犬の目ヤニを思わせた。ただ過剰な温風を逃れたいと窓枠をのぼっては、滑り落ちる。その都度ちぎれそうな羽を震わせ、宙をかく。何よりも細く短い足は、六つであっても二つしかなくても、差は一切ないように思えた。背が地に当たって、羽音が止む。仮にこの窓の頂上に行ってさえ徒労だろう。行かなければならないのは、外なのだ。太陽の姿が響く、外なのだ。私はブラインドを落とすと、書類へ視線をかえした。


 しばらくして不得手な事務作業を終え、ノートPCの電源を入れる。旧石器時代の遺産のようなPCだ。その間に、あの神経をしめつける羽音は、六度鳴っていた。蠅は私の傍にいる。ブラインドを互いの不可侵の壁としたまま我々は並ぶ。

七度目。私は念のため窓枠を見る。壁は破られていない。なんとなくブラインドを押さえて、姿をのぞいたが、蠅の体は外の方を向いていた。私が何かを期待してその側を小突いてみると、慌てるそぶりもないのに蠅は、ガラスに二度、頭をぶつけた。そしてまた下枠へ落ちる。哀れみか、窓を開けてやりたくなった。しかしわざわざ席を立って、留め具を外すのもためらわれる。迷う間にまた羽が鳴った。それでイラついて飽いたのと、PCの起動が完了したのとで、先程の感情は流れ去った。


 レイアウトどおりに、メモに書いてあることを貼りつける。これもまた事務作業に過ぎない。私が調べたこともあるし、書いてくれと命令されたものもある。余った部分を埋めたり、はみ出た文を削ったりしつつ、滞りなく作業が進む。当然蠅は騒いでいる。終えるころには私もなれ、いちいち気に掛けることを止めていた。羽音に固まることだけはわずかにあったが。

途中、まるまる一ページ空いている箇所がある。一通り終えたため、それにとりかかる。


 「コラム 川端康成『古都』をめくって

 日本初のノーベル文学賞受賞者、川端康成。彼は耽美的な作風と透明な文賞、そして氏特有の不思議な世界で、人々を魅了し続けている。その氏の一作、『古都』これは古き良き、戦後の京都が描かれた、京歩きには欠くことのできない小説だ。各名所、年中行事、季節、食べ物(ページ下部に列挙)、その地の様々が鮮やかに映し出され、氏の愛した京、日本人のこころにあった都の姿が、こめられている。250ページほどの小品で、行きの新幹線から読み始めても読み終るだろう。

 『古都』のあらすじはこのようになっている。

 京呉服問屋の一人娘、千恵子は大変美しく育っていた。しかし彼女は自身を捨て子と知っていて、それを憂いとしていた。そして祇園祭の夜、うり二つの村娘、苗子と出会う。互いが双子であることを確認しあった彼女たちは、交友を結ぶ。身分の差と、これまでの生活とから、一緒に暮らすことはできないと思ったまま……

 作中、ストーリーの大胆なうねりはない。美しい日々が紡がれていくだけに過ぎないのだが、そこから読者は、もう現れない京を楽しみ、善良な人々のこころに温められる。氏が睡眠薬中毒を患いながら描いたとは、到底感じられないだろう。上流の京言葉や、職人の生きる姿勢なども、是非実際に、本の世界で見ていただきたい。

 また、もう一つの魅力に、時代の変化への物悲しい雰囲気もある。復興や都市の成長の中で、変わっていく京都。古都、とは古い都であり、京都という土地ではない。確かに滅んでいく何かがある。同時代の人々は、それを痛切に感じながらも、何もできなかった。そこに思いをはせるのも趣深い。京歩きに際して大いに助けになるだろう。

 

それにしても、昨今文系教育の敗北はすさまじく、こういった小説も読まれなくなってきている。指導要領も見直され、より実用的な、より同時間的な、例えば税の仕組みや契約書の読み方、などが教えられるらしい。しかし私は希望をもっている。実用性、けっこう。生活を直接向上させてくれるのは、より実際的なことなのだ。小説は、とおまきにしか人を良くしない。時間が要る。ならば、文学は絶えることさえなければ良い。数はすくなくなっても生き続ければ、再び日を浴びることは容易。経済も思想も関係ない。人のこころは物語を希求している。私はそう、信じてやまない。また、この小説のパワーに、そう信じさせられた。私の息まいている姿は見苦しいだろうが、そこを信じて『古都』をめくって欲しい。」


 集中して気づかなかっただけかもしれないが、この間、蠅はほとんど静まっていた。私は一息ついて、背をもたげ、末尾が削られることを思った。若者向けの旅行雑誌に、熱を込めてもどうにもならない。「私は」などというのは、存在してはならない言葉なのだ。睡眠の不足が招いたのか、字数を埋めるだけのアイディアの枯渇は衰えか。私は鼻からため息を出してのびをする。力を緩め、ふとブラインドを押さえて蠅を見た。さすがに立ち位置は変えていたが、動きのさまは相変わらずだった。慣れた手つきでそっとブラインドを戻し、残りの仕事へ意識を移した。

 一日が終わる。陽はとうに傾き、うるさい灯りが車の過ぎる音とともに、窓にはりつく。

三度、用を足しに行っただけで、二度の飯さえここで済ませた。私はこの月をこの椅子で、この一日を蠅の隣で、終えることになる。何故だか蠅はどこにも行かなかったのだ。飛ぶ気力が尽きたのかもしれない。夕日が音もなく沈んだ後、震える羽の音さえ聞いていない。


 今日の分は済んだ。帰らなくてはいけない。蹴とばすように勢いをつけ、椅子を身から引きはがす。鉛のように重い体を踏ん張らせたまま、持ち帰るべきものをチェックする。そのうち、一本のペンと二冊の資料とパソコンだけを、肩に下げた鞄に入れた。充電ケーブルは机の側に差しっぱなし。道のついでに捨てて行こうとゴミ袋を開き、ものを投げ込む。押しつぶして口を閉じると、ようやく帰途となる。そして、もう会うことはないのかもしれないと蠅に目をやった。すると、不思議な感じがした。立ち上がって見るブラインドは、あんなにも隙間だらけだった。角度の違いだ。横から面に触れるには一面を光沢のある白で固めていたブラインドは、斜めに視点をおくと、脇から風も何者でも抜けられる。それもそうだ。私の想定を満たすには、全てのブラインドがつながってなければならない。そうなると窓の開け閉めは行えない。常識以前のことが頭から消えている。疲れているのだろう。しかし余りにもばかげている。私はこれを、壁とみなしていたのだ……

窓に反射した明かりが、古い記憶のように輝いている。


 無為を感じさせる冷たい風が、頬を打つ。夜空の下では車の音も、人々の声も気にならなかった。ただ薄い黒が、星の気配さえなくあたりを包む。静まったビル群が、その視界の半分を領し、何も見るべきことはない。私は寒さにおいたてられ、足早に駅へ向かった。ゆっくりと動く数少ない人々の脇を、通り過ぎて行く。


 駅ビルの上辺が細い道の先、海の底のような暗がりに浮かぶ。角を曲がりきると全貌と、足元でなされている広場のライトアップとが見えた。地方のターミナル駅らしい豪奢さと、クリスマスの大型セールの呼び込みに相応しい貧乏くささ。その青と白を主立てたイルミネーションは、光の粒がついたひもを、明日散ってもおかしくない葉の奥、老人の指のようなその幹に、巻きつけている。粗いつぶ状の光は空間となってつながり、両隣の木と交わっている。遠い私には、暗い葉を持った木は区別がつかない。一歩進む度に光の広がりは増し、木の根元にある黄色の細工が見えるほどからは、光のてっぺんが、夜空に浮かぶ、こぼした牛乳のような雲を突き破っていた。この昇るようなまばゆさは、所詮は田舎にただずむ駅の、娼婦じみた化粧のようだと私は漠然と思った。

しかし、私がその眼前に立ち止まったとき、それは消えた。11時の消灯だった。瞬間に立ち現れた暗闇は激しく、私の目の裏にきらめく光の粒子を不安と共に呼び覚ます。一瞬ののち、それさえ消える。再び現れた陰鬱な木々の沈黙に、私は瞬きを繰り返した。


 最終の、まばらになった電車のマットに私は倒れこんでいる。窓の奥で流れ去っていく街は、私にとって何の感慨もない。目を閉じると、眠りに落ちきることのない意識が、その街を繰り返し、繰り返し映す。人ひとりいないような、大きな町。手すりのない古い階段のような世界。或いは戸惑った小さい灰色の点。それらがずっと巡っていく。


 










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