書かれなかった遺書

夜依伯英

書かれなかった遺書

 私のご飯は、一日に一回だけだった。中学校には行かせてもらえていたから、そこで出される給食を食べていた。私のお父さんは外面だけは良かったから、給食費とかそういう類の支払いはしっかりしていた。家でのお父さんとは対照的に、外では明るい性格の人格者として通っていた。だけど私には、それらが別のものに見えたりしなかった。男手一つで娘を育てている。そういう事実が欲しいから、私は棄てられていない。或いは、私の身体がお父さんの好みだったから。ただそれだけ。家族だから愛されるとか、そんな幻想に縋れなくなったのはいつからだろう。というか、縋れていた時期がなかったように思える。お父さんが家にいるとき、お母さんが楽しそうにしたことはなかった。お母さんは専業主婦で、買い物もお父さんがしていたから外に出ることが少なかった。だからだろうか、お父さんはいつもお母さんの顔を殴った。小さい頃は私が泣いてしまって、それを見たお父さんは私の口をテープで塞いで、両手を拘束して押入れに閉じ込めた。お母さんは必死に私を守ろうとして、殴られた。そういう毎日だったから、お母さんが急にいなくなったときもお父さんは何も心配しなかった。殴るときはまだ機嫌が良いほうだった。最悪だったのは蹴り始めるときだ。

 あれは私が小学六年生だったとき。そのときはまだお母さんがいて、私の身体の変化にも気を遣ってくれた。でもお父さんがそれに気づいたとき、私は実の父親に蹂躙された。私の心の中にはただただ絶望があった。学校の友達や先生は、少なくとも表面上はいい人ばかりだったから、人間不信とか男性恐怖症とかにはならずに済んだ。でも、私はもうずっと自分が汚く思えて、それが全部怖くて、頻繁に洗浄しないと身体が腐り堕ちてしまうように感じた。クラスメイトの賢い男の子があるとき私を呼び出して、私の行動は強迫性障害と呼ばれるものの症状に似ているということを教えてくれた。私は元気を繕っていたから、二人きりになって話してくれたのは彼の気遣いだろう。恐怖がなかったわけではない。また犯されるかもしれないとは感じた。それでも、お父さんにされるよりはましだとすら思ってしまった。結局、自分がすでに汚れているという強迫観念にずっと囚われているわけだ。彼は心療内科を勧めてくれたけど、私は病院にかかる方法もなかった。家に帰ってお父さんがいるときは、たいていはすぐに犯される。そして無責任に中に出したあと、とんでもない理屈で私のお腹を蹴ったり踏みつけたりするものだった。

「妊娠できる機能が壊れれば俺が気にする必要もないな。お前だって不安じゃなくなるだろ。お前のためだよ」

 お父さんはそう言っていた。お母さんはずっと泣いていた。私が中学校に上がるころにはお母さんも黙って見ているようになった。お父さんの言動よりも、そのことがずっと悲しくて、苦しかった。中学校に上がってすぐ、お母さんはいなくなった。学校には相談できなかった。学校にいる間だけは、普通の女の子として過ごしたかった。話せば何か変わるかもしれないのは分かっていたけど、どうしてもできなかった。ほかの大人、たとえば警察に助けを求めるとかは、なぜか思いつきもしなかった。

 あるとき私は、いつもに増して自分の身体が汚く感じた。全身が痒くなって、一生懸命引っ掻いたけど、全然解決しなくて、私はカッターを使った。そうすると、今までの不快感が急になくなった。痛かったけど、自分が人間だと感じられる方法になった。そうして初めて、私はお父さんの道具じゃなくて、人間なんだと心から思えた。怒りと悲しみと喜びと、それから希望が胸中に芽生えた。それから私は、図書室で色々なことを勉強するようになった。一酸化炭素やアコニチンが人を殺すこと。家庭用の漂白剤で毒ガスを発生させられること。そういうことを知ったのは、お母さんがいなくなってから暫くしたころだった。これは目覚めだった。

 私はお父さんがいないときを見計らって、そしてお父さんが帰ってくる少し前を狙ってそれを実行した。それが昨日のこと。お父さんに強姦されてから三年が経っていた。私は浴室で、アルカリ性漂白剤にそのまま酸性漂白剤を入れた。息を止め、そしてすぐに浴室から逃げ、ドアを閉めた。換気扇は止まっている。私は念のため、手と顔をよく洗った。そして私は、家から出た。行き先は決まっている。学校以外で外出を認められていないとはいえ、文明から隔絶されているわけではない。どこへ向かえばいいのかは分かっていた。

 駅に着くと、私は改札ではなく、線路を囲う金網に近づいた。人がいないのを確認して、私はそれを乗り越えた。安全に降りられずに身体を打ち付ける。でも、構わない。次の電車がくるのを待った。

 これが私が人間であるという証明だった。これが唯一の希望だった。

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