新しい生活

第86話 3000度の地表温度とマイナス100度の心

会社での仕事は順調だった。


自分の仕事に部下ができて新人が入り、一年前とは比べものにならない収入が手に入った。


みどりさんが口座を見ていぶかるくらいである。


基本給プラスの営業報酬が入るから、月によっては莫大な金額になった。


「・・こんなにもらって大丈夫なのかしら・・。」


と彼女はいうのだけれど


「・・さあ、大丈夫なんじゃないの・・・もらっておいたら?・・」


自分は頬杖をつき外の風景を見ながらそういった。


はっきりいって、社長の逆鱗にふれればおしまいの会社だったから、いきなり辞めたときのためにお金はいくらあってもいい。


そんなことを考えている最中、突如まためまいと吐き気が襲ってきた。


トイレに駆け込む自分に、彼女は急いで濡れたタオルと水をもってくる。


彼女の甲斐甲斐しさにかえってこちらが情けなくなってくる。


思い切り吐いた後、気分を変えようと思ってベランダに出た。


自分は気分が悪いときはベランダに出て夜景を眺めることにしている。


夜景をみながら色々なことが思い浮かぶ。


思えばここ1年ちょっとでものすごい出世だ。


誰が一年前、あの風呂さえもないアパートから、信号待ちで止まる赤いファミリアから、銀次郎の今の暮らしを想像できたろうか。


みどりという女性から始まった今の生活


そういう意味で言えば彼女は間違いなく福の神であった。


あれから1年経ったが、彼女は今でも自分にとっては福の神であり、このちっぽけな男に毎日毎日尽くしてくれている。


彼女がいなければ、今の会社での成功もなかっただろう。


しかし、なぜかこの日自分は彼女に素直になれなかった。


自分がベランダにでると、彼女は自分の衝動的な自殺でも心配するのか、必ず近くに来た。


「・・・心配しなくても・・死なないよ。」


「・・でも、風邪引くから。」


自分は夜景の遠くにある原爆ドームを見た。


「・・・みどり・・知ってる・・?60年前さ・・ちょうどあの建物・・今は原爆ドームといわれるあの建物の真上、600mで原子爆弾が爆発したんだ。・・・」


「・・・。」


みどりは何もいわずに聞いている。


「・・そのとき、地表温度は3000度にも達したそうだよ。・・人間なんて、フライパンの上に乗ったアイスクリームみたいに、一瞬で溶ける。・・いや、蒸発しちゃうんだ。・・・」


「・・・。」


「・・・広島の人間だったら、誰でも知っていることなんだよ。・・・」


「・・・・。」


「・・・・でもねえ、ぼくは死んだあの人たち、ある意味幸せじゃないかと思うんだよ。」


・・彼女は自分の背中にバスタオルをかけた。

自分はかまわず話をすすめた。


「・・当時ね、『すすめ一億火の玉だ』とか『八紘一宇』とかいうスローガンで、みんな日本が負けると思っていなかったらしい。死んだ人たちのほとんどは、当時の言葉で”神州不滅”っていうんだけれど、ほとんどの人が信念をもっていたらしいよ。」


「・・・。」


「・・そんな信念のまま、死んでいったらしいよ・・。信じることがあって死ねるって、ある意味、うらやましいよねえ。・・・」


「・・・・。」


「・・自分の信念があるとすれば・・・・君を幸せにすることなんだけれど、みどりをかえって追い込んでる。正直、今は俺わからないんだよ。なんでみどりさんがこんなに情けない俺についてこれるのか。」


「・・・どうしてそんなことを言うの?・・へんだよ。」


「・・もし仮にだよ・・君が東京がいやでここにいるとする。・・・どこにもいくところがなくてここにいるとする。ほんとはこんな俺といるのがいやだけど、・・・いやいやここにいるのだとしたら、お金は全部もっていい、お金はぜんぶあげるから・・みどりさんは他に住むところを探したほうがよくないか・・」


「・・・・。」


「・・・・お金はぜんぶあげるよ、だから・・」


「・・・・。」


「・・・俺のこときらいなのに・・生活のためだけに俺といる必要ないんだ。・・・」


自分がそこまでいうとみどりは遮って


「・・ぎんじろうさん、こっちむいて。」


と言った。


いきなり頬に軽い衝撃がはしった。


「・・わたし、今まであなたをきらいになったことなんてなかった。・・」


今まで見たこともない、冷めた目をしたみどりがそこにいた。

悲しみも怒りもない、ただ冷めた目をしてこっちを見ている。


「・・・でも、今わたしあなたを初めて”きらい”だと思った。」


「・・・。」


「・・・お金?・・今のわたしに、お金なんて、そんなに価値のあるものだと思う・・?」


情けない話、下を向いているしかなかった。


「・・・いいわ、そんなに私と別れたかったら、私、出てあげる。」


彼女はスタスタとリビングにでると、エプロンを取り去り、玄関に向かった。


ガチャンと、スチールドアの閉まる音がして静寂だけが残った。

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