第85話 ハイネの詩と悪魔の男
家に帰ると、みどりはあいかわらず、玄関に出迎えてくれて、子猫のような愛らしさで
「・・おかえりなさい」
と言ってくれる。
彼女が飾り付けてくれる部屋の飾りは自分もとても心安らぐものだった。
たとえば壁に見慣れぬアルファベットの詩と押し花が額に入れて飾られている。
「・・これはなんでしょう、みどりさん。英語じゃないようだけれど。」
と聞いてみると
「・・それはね、ハイネの詩に、私の好きな花をつけたもの。」
「・・意味は?」
と聞くと少し赤くなった
「・・あのね・・
『恋に狂うって言うのは、僕からしたら意味が重複している。恋してること自体が、狂うってことだからね。』
って書いてあるの。」
一緒に暮らすようになって1年以上も経つのに、この初々しさはどうだろう。
しかしそれと同時に、自分の心は暗く暗く沈んでいく。
Y子の電話を断れない自分。
Y子と離れられない自分。
みどりは気丈に振るまってはいるが、相当堪えているのだろう。
ある夜中、自分がふと目を覚ますと、彼女は背中をこちらを向けて、
「・・う・・う・・・」
と泣いていた。
すべてを知っているのだろう。
こんな自分でもわかる。
人は誰かを幸せにするために生きているのだろう。
自分も大部分、怨嗟のかたまりの人間であることに違いはないが、それでも心のどこかでは知っている。
人は1人では生きられない。
だからこそ自分はあの過酷な少年時代を生き残った。
誰かの愛や情けを受けてこそ自分の今日がある。
鑑みて自分はどうか
みどりもY子も奈落の底に落とし込んでいる。
ハイネの詩を愛しむような優しい女性を、肩を震わせ泣かせている。
自分の人生を切り開くため、朝早く起きて母親や弟を扶けるため働く若い女をかどわかしている。
彼女たちのことだ
自分と出会わなくても、そこには愛おしむべき人生があったに違いない。
”自分はなんのために生きている。・・・自分は親を地獄の住人と罵った。・・・しかしもしかしたら、自分こそが地獄の住人ではないのか。”
自分は情けない話、みどりにベッドの中ですがりついたことがある。
震えがとまらず、海老のように丸まりながら
「・・みどり、頼む、俺を抱きしめてくれないか」
そうしないと、いつベランダを開けて、飛び降りるか、自分でもわからない。
そう思った。
みどりはそのとき
「・・大丈夫・・あなたを愛してる・・だれよりも・・これからも・・」
と抱いてくれるのだ。
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