第11話 月光

唇を話した彼女は、


「・・こんなわたしでいいの?」


と言ってきた。


彼女が片耳で聴いていたウォークマンのヘッドホンが傍らに落ちている。


周囲に音がまるでないので小さいヘッドホンでもよく聞こえた。


曲名は無学の自分でもわかる。


ベートーベンの「月光」だ。


人間というものは、自分自身でさえも、どこから来たのかわからないものだと以前誰かから聞いた。


この自分自身、なぜ自分があの両親から生まれ、あの街で生まれ育ち、そして今この荒涼とした平原にいるのかわからない。


今からどこへいくのかなど、なおさらわからない。


自分がこの世にいるのは、ただ両親の肉欲の結果なのか。


社会にとけこまれず、時折自殺願望から逃れるようにして一人旅にでるのは、この世に執着しているからではないのか。


そんな自分なのだから、ただそこにいてくれる彼女にありがたさを感じる。


「こんな私でいいの」


と聞いてくれる彼女には、それはこちらこそ言いたい言葉だった。


ただ


”彼女の弱った心を利用している”


そう思う自分の心に咎があった。


幼少期、ホステスである自分の母親が義父に手ひどく罵られ、時には殴られて、夜中にでも幼い自分の手を引いて、家を出るときがあった。


そのとき、母親が誰かに電話をすると、必ず他の男が車で迎えに来た。


というよりも、男が来なかった試しはない。


母親が電話帳に載せていた男達のリスト、その誰もに母親が電話をかけても、集蛾灯のように男達は集まった。


自分はその男達に連れられて、母親と同じくホテルに泊まるのだが、母親と同じベッドに寝ていたはずなのに、朝起きると、決まって母親は会った男と同じベッドに寝ていた。


子供心に考えた。


「母親は人として、この男達も人として、何かがおかしい」


あれから10年以上の時が経って思う。


「・・自分こそは、あの”蛾”のようにはなるまい。」


自分を生んだ母親からは母親のそれよりも、女としての母親を数多く見てきた。


同時に女の性というものを嫌というほど思い知った。


別れた男に思いが強いほど、離れた男に惹かれているほど、女というものは新しい出会いに無防備になる。


義父が自分にした虐待は、何十年経とうと心にトラウマになり残っているし、あの義父を呪っている自分を変えられない。しかし、あの男にはあの男なりの行動原則があった。


いつも気分次第で女や子供を殴るくせに、卑怯な男は許せないという、一面から見たらこれほどの身勝手な性格もないのだが、そんな義父は陰で人の悪口をいい、ストレートに物事をいってこない弱々しい男を憎悪していた。


自分は義父を呪ってはいるが、義父の目をかすめとって母親に集まる男どもはそれ以上に憎悪していた。


自分は憧れていた彼女の胸に額を埋めて考え込んでいたが、彼女をそっと自分から離した。


「・・もう寝よう」


そう言って彼女の身体にそっと毛布を掛けて、自分は背を向けて横になった。


しばらくの静寂を置いて彼女が聞いてきた。


「・・抱いてくれないの?・・・」


答えることができないので、寝たふりをしていた。


女性として、この一言がどんなに勇気の要る言葉かは分かっている。


「・・嫌いなの?わたしのこと・・」


そう彼女は言葉をついだ。


「・・そうじゃない、そうじゃないんです。」


と言うしかない。


彼女はさらに聞いてきた。


「・・好きな人、いるんですか?」


自分は少しイライラして肩越しに


「・・そんなにもてる男に見えますか?」


と言ってしまった。


彼女は後ろから自分に抱きつき、泣いていた。


自分は眉間にしわを寄せながら、彼女に背を向けたま、無理にでも寝入ろうとした。

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