第10話 メーテルリンクの高原
車はトコトコと日本海沿いを走っている。
死のうとしたほどの心の傷を負っていた彼女に、あまり重いものは見せたくないので、自然だけを見せられるような、そんな旅にしようと思っていた。
日本海は晴れていて、時々カモメが舞っているのが見える。
彼女に聞いてみた
「昨日の夜は疲れたでしょう?車中泊だなんて、女性向きじゃないですよね・・・」
「・・え?とても楽しかったですよ。」
彼女は、飲んでいるジュースのストローをくわえるのをやめて、そう言ってくれた。
「・・生まれてはじめて近くに星を感じたり、何もない山のなかで風の音を聞いたり、あんなに楽しいことだなんて・・。」
そういってくれてほんとうにうれしかった。
「・・こんなことが毎日だったら、どんなに幸せかわからない。本気でそう思ったんです。」
生まれてこの方、こんなに人に感謝されることがあっただろうか。
自分は顔を真っ赤にしながら、ただハンドルを握っていた。
だけれど現実は厳しい。
二人とも、いつかは現実に戻らなくてはならないのだ。
小突かれて、走り回るような、そんな辛い日常がまた銀次郎には待っているだろう。
対人恐怖症となり、人と喋るのが苦手な自分にとって、本音もろくにいえず、表情も心の中を相手に悟られぬように、無理して笑顔を作る毎日に、いつかはまた又戻る。
それが人生だと言えばそれまでだが、まだ若かった自分はそれを考えると、あの海岸の崖にたっていた彼女の気持ちがわかるような、そんな気がした。
生きているのがつらい
こうやって旅しているとき以外は、いつもそう感じている人生、果たしてそんな人生に意味あるのか。
ふとこんなことを彼女に言ってみた。
「・・どこかに・・山小屋でも作って、二人で暮らそうか。」
出会って3日目の女性にこんなことを伝えるのは我ながらおかしいと思いこういった。
「・・すいません、厚かましい申し出でした。出会って3日目ですもんね。いや・・・自分でも、恥ずかしい・・。」
すると女性はクスリとわらって
「・・出会って5分で愛し合う人もいれば、100年時が経ってもわかり合えない人たちがいます。」
とだけ言ってくれた。
「・・そう言ってくれると、助かるんですが・・。」
と頭をかきながら、自分は照れ隠しをしていた。
県境の近くの高原に、最近できたばかりの自然博物館があるらしく、看板があって、そこにいくことにした。
このあたりの高原は、カルスト台地と言って、ヨーロッパで見られるような、例えばアルプスの少女ハイジで見るような、ああいう高原が連なっている。
彼女はそんな高原を見て、
「・・遠くへ来たら・・こんなところもあるのね・・」
と言ってくれた。
元々はこんな山陰なんか来ない人なんだなと想像しながら、自分はそういう勘ぐりを打ち消すように彼女に答えた
「・・このあたりは、放牧されている牛もいるらしく、チーズやら牛乳やら作っているらしいですよ。」
山陰の山々の表情は多彩だ。
水木しげるの描画で代表されるように、大山から連なる山脈、そしてその下に広がる大湿原のように、妖怪画で代表されるような陰鬱な風景もあれば、秋芳洞に近づくにつれて、草原が銀色の波をたなびかせるような、まるでヨーロッパの高原のような、そんな台地もある。
だから、自分はこのへんを放浪するのが大好きなのだ。
できたばかりらしい自然博物館につくと、彼女は興味深げに色々見ていた。
世界的に見れば山陰の山々など狭いものだが、それでもキツネやタヌキ、テンや熊、その他の動物が健やかに生きている。厳しい冬と夏を過ごしている。
そのあと近くの大きな有名ホテルへいき、温泉浴場を使い二人とも汗をながした。
お土産のコーナーにはしゃれたスイートを売っている売り子さんがいて、どうですかとチーズクリームケーキの試食を彼女に促していた。
彼女は思わず
「・・おいしい」
と言った。
そうだ、これが女性というものだ。
自分にとってはひと箱1000円も2000円もするようなお菓子、なにほどのものかと思うけれども、女性にとっては職人が手をかけたブランデーや生乳の微妙な味のする、そんな微細な甘いものが大好きなのだ。
何やら甘いものを買っている彼女は楽しそうで、しかしその一方で今まで自分に縁のなかった宇宙人を見ている風でもあり、自分は横にいて彼女の仕草を見守るだけだった。
こうやって買い物をしていると、まるで夫婦のようだ。
「今日は、どこかカルストの高原に車を止めて一泊します。」
と言うと、彼女は喜んだ。
車を動かして、人がこないような高原へと走らせる。
だれもいない高原の駐車場で車を止めた。もう陽が沈みかけている。
トイレだけはあるけれど、他はなにもない。
アルプスの少女ハイジの世界が広がる。
「まっくらになる前に、食事にしましょうか。」
といって、自分が材料を出そうとすると彼女は、
「・・今日は私が作っていい?」
と聞く。
自分は意外な気がして
「・・え?別に構いませんが、材料はあるのですか?」
と聞くと
彼女は自分のコンロや食器をつかいながら器用に作り始めた。
コンロの上に鍋をおいて、ご飯を置き、水を足し、なにやら白いものをそれに継ぎ足した。雑炊だろうか?
「雑炊ですか?悪くないですね。」
と聞くと
「・・違います、食べてみてください。」
と言うので食べてみたら、チーズの味がする雑炊だった。
とても美味しい、食べたことがない。
「・・これはなんという雑炊ですか?」
と聞くと、
「・・これはチーズリゾット・・」
といいながら笑った。
そのあとは、驚いたことに例のクリームチーズケーキが出てきた。
カシスソーダもアルミのコップについでくれた。
ふだんの自分だったらぜったいに食べないだろう、そんなものばかり。
でもそうやって食べてみると、おいしいということがわかった。
自分は軽い眠気を覚え、フラットシートにした車の中でまた本を読んでいたが、彼女は足を崩してシートに座り、外をずっとみている。
外には荒涼とした平原が続いている。
「雲が・・とても早いのね。」
「・・このへんはいつも風が強いのです。」
というと、彼女は突然へんなことをいいだした。
「・・天国って、こういう感じなのかしら。」
自分は黙って聞くしか無かった。
そして自分は覚悟もした。
(彼女がどんなことをこれから先話したとしても、自分はそれを受け止めよう。どんなに恐ろしい話をしても、たとえそれが自分のすべてをうしなう話だったとしても、それを受け止めよう。)
当時偏屈だった自分は思う。
天国も地獄もない。
女の弱さを利用して女を地獄に落とすような義父のような男もいる。
男の弱さを利用して、都合のいいときだけ男を利用しつかの間の天国気分を味あわせる母のような女もいる。
天国や地獄をいうのなら、自分こそ彼らの子として、この目で見てきたつもりだ。
天国や地獄は、あの世にあるのではない、この世にあるのだ。人間が作り出すものだ。
そういう意味で自分は嫌というほど地獄を見てきたのだから、死んだ後ぐらいは天国へ行けるだろう。
子供の頃はそう考えていた。
自分の頭でそんなぐるぐるしていることを、彼女に言葉にだしていうつもりはなかった。
もし今ここを彼女が天国だと感じてくれているなら、それだけでいい。
男冥利につきる話では無いか。
それでいい。
そして自分は今でも忘れない、とても恥ずかしいことを彼女に言ってしまった。
「知ってますか、メーテルリンクって。彼は言ったそうですよ。『天国はお互いがキスするとこだ。そしてそれはどこにでもである。』って。」
カッコイイ男がそんなことをいうのならまだしも、この自分がそんなこというかと今でも思う。顔から火がでそうなことを言ってしまった。
案の定、彼女はこっちをじっと見て、車の中の空気が固まってしまった。
「じゃあ、メーテルリンクさんのおっしゃっるとおり、この車の中を天国にしましょう。」
彼女は自分に顔を近づけ口づけをしてきた。
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