変わるということ

ビビビ

ありのまま

 世の中には、二種類の偶然があるんだと思う。いい偶然と、悪い偶然。いい偶然がラッキーで、悪い偶然がアンラッキー。

 寒い冬の夕暮れ。もしかしたら、細かい雪が降っていたかもそれない。その日私は、奇しくも両方の偶然に見舞われていた。ラッキーなのは、想い人の朝山君と二人で帰っているということ。そして、アンラッキーは。


「この人、鈴木の知り合いか?」


「……うん、小学校時代のクラスメイト」


 会いたくない奴に会ってしまった。両親の仲違いで、私が荒れていた時期を知る奴に。しかも、意地悪野郎でガキ大将の大屋に。

 相変わらずの筋肉と脂肪でがっちりした身体は、着膨れてまるまるとしていた。背も伸びていて、六年生の大屋を拡大コピーしたようだった。


「久し振りじゃん。中学受験してどっか行ったと思ってたら、こんなとこでなにしてんの」


 大屋の張り付いたようなニタニタとした笑みも昔と全く変わっていなくて、私は目眩のような感覚を覚えた。


「この辺の中学に行ってるから」


「へえ。横の人彼氏?」


 顔がかっと熱くなった。薄暗いのとマフラーを巻いているのとで、二人は気付かなかっただろう。

 何でそんなことを聞くの。よりにもよって、彼の前で。

 彼の手前、努めて明るい調子で言った。


「違うよ。というか、そう思ってんなら何で話しかけるの」


 大屋はあざ笑うように目を細めた。


「本気で言ってねえよ。お前に彼氏とかできるわけないし。つーか、ほんとに誰」


 私は唇を噛んだ。私の中で、細くて、脆い糸が、キリキリと張り詰められていく感じがした。

 これ以上詮索しないで。こっちに来ないでよ。

 この空間にたった三人隔絶されたような錯覚に陥った。冷たい空気と一緒に、この場所から一刻も早く逃げ出したいという気持ちが濁流のように流れ込んで来た。

 でも、大屋を無理矢理追い払うわけにも、朝山君と大屋を二人きりにするわけにもいかなかった。


「朝山君。同じクラスの友達で、同じ係でね。仕事が終わったから一緒に帰ってるの」


「えっ。お前、君付けとかしてんの?意外だわー」


 朝山君が首を傾げるのが分かる。この寒いのに、冷や汗が首筋を伝った。心臓がバクバクいうのを感じた。

 違うんだよ、朝山君。今が素なんだよ。こいつが知ってる私は、私じゃないんだよ。


「別に。普通だし」


「小学生のときは呼び捨てだったじゃん」


「今はこっちのほうがしっくりくるの」


 身体が奥から熱くなっていく。熱くて熱くて仕方ない。でも、コートがその熱を逃してくれない。

 早くどこかに行ってくれ。


「えー違和感しかないんだけど。そうだ、朝山だっけ?知ってるか?五年生のとき、こいつの親が参観に来たときーー」


 ドクン、と心臓が跳ねた。心の奥に押し込めていた光景がフラッシュバックした。

 熱が張り詰めた糸を焦がし始めた。


「大屋」


 頭の中がぐるぐる回ようだった。胸が痛い。目が見開いていくのが分かった。汗が血のように熱くて、今にも煮えたぎりそうだった。

 頼むから、それ以上はやめてくれ。


「俺、別に聞かなくていいから……」


「いいっていいって。こいつの父ちゃんが来てたんだけどよ。その時ーー」

 

 やめて。

 耐えきれなくなった糸が、音もなく、ぷっつりと切れた。


「やめてよ!」


 大屋が驚いたようにこっちを向いた。朝山君は、何が起こったのかわからないというように立ちすくんでいた。

 叫ぼうとしても、喉に力が入らずに、上ずった声しか出ない。


「お願いだから、それ以上はやめてよ」


 そこまで言って、はっとした。あまりに悲痛な声。

 今の、私の声?

 私は間抜けに口をぱくぱくさせて、いうべき言葉を探した。しかし時間が知らん顔で流れるだけで、結局私が言葉を発したのは深呼吸という行為を思いだした後、しゃっくりのようなそれを繰り返してからだった。

 

「ごめん。変な声出して。でも、その話はやめて」


「お、おう。なんか、悪かったな」


 大屋は頭をポリポリ掻いて、視線を泳がせた。落ち着きなく足踏みをして、頭をかく手を変えて、最後に諦めたようにため息をついた。


「じゃあ俺、もう行くわ。じゃあな」

 

「うん。じゃあね」


 早足に去って行く大屋の後ろ姿を見て、私も頭をぐしゃぐしゃと掻いた。

 最悪の事態だけは避けられたけれど。


「ごめんね。変なことに巻き込んで」


「いや、大丈夫だよ」


 朝山君が、抑揚が不自然な声で言った。気まずい沈黙が流れる。

 あの日。父親が参観に来たとき私は事件を起した。あの日、私は叫んでいた。何を言ったかは覚えていない。何に対する怒りだったのかもよくわからない。親が家で言い争ってばかりいるのが我慢できなかったのかもしれない。近所の人や友達のママに後ろ指を指されるのが悔しかったのかもしれない。無理にひにくれたまま元の自分に戻るタイミングを失って窮屈だったのかもしれない。全部理由な気がするけれど、きっとまだ足りない。

 いつか味わった苦くてジャリジャリした味が身体いっぱいに広がった。


「誰でも、言いたくないことってあるよな」


 朝山君がぽつりと呟いた。私は朝山君の横顔を見た。朝山君は真っ直ぐ前を見つめていた。


「俺、鈴木の過去を引掻きまわそうとも思わないし、さっきのことも全部忘れるからさ。気にすんな」


 その言葉を聞いて、ふっと気持ちが軽くなった。キリキリという音はやみ、代わりに通行人の話し声が戻ってきた。

 あの事件がきっかけで、両親の喧嘩も少し収まった。それを機に、私は中学受験を提案した。中学三年間もあんな自分でいるのが嫌で、ただ早く元の自分に戻りたくて。私を知る人のいない、私がまっさらになれる場所に逃げたくて。必死に勉強した末に、ここに来た。

 大丈夫。誰がなんと言おうと、今の私が本当の私。自分の力で得た、自由な私。

 ほら、ここは"私"を受け止めてくれてるんだから、過去の自分がどうだろうと、胸を張っていなさい。

 

「あーあ、それにしても、今日は寒いな」


 朝山君が、大きく伸びをしながら言った。彼の溢れた白い息がもくもくとのぼって消えていった。


「そうだね。明日も寒いかな」


「そりゃあ寒いだろ」


 私の頬が、やっと冬の空気を感じ取った。ズカズカ入り込んでくるような寒さも、のぼせ上がった身体には気持ち良かった。

 今日は、なんだかんだラッキーだったな。






 今、私は社会人になって働いている。今まで何度も環境は変わったし、私が変わる出来事もたくさんあった。でも、それは誰かに対する反抗でも、自分を自分で縛り付ける呪いでも無かった。あの寒い冬の帰り道のような、自分の芯が溶けたり、伸びたりするような変化。

 今の私は、ありのままの自分のまま、少しずつ変わった私の姿だ。

 『ありのまま』という意味では、私はあの日から変わってないし、これからもこのままでいたいと心の底から思っている。

 

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