第4話 幸江さんの心残り
幸江さんがこの病棟に入院してきたのは半年前のことだ。入院時の検査の結果ですでにある癌の末期だと診断された。治療法はなく、これから増強していく痛みなどの苦痛を軽減するための緩和ケアの対象だった。
主治医は緩和ケア病棟のある病院への転院を進めたが幸江さんはそれをかたくなに拒んだ。転院先の病院は遠いからという理由だったが主治医もスタッフも首をひねった。遠いといっても車で30分ほどだし、体調から言っても今なら十分可能だ。それに何よりこれからの限りある命の時間をできるだけよりよく過ごすためにはこんな一般病棟では厳しい。どれだけかわるがわる説得を試みようとも幸江さんの反応は否だった。
病院側としては本来は2か月まで、長くても3か月までで退院もしくは転院をして欲しいのだが、病院の上層部とのつながりがあったらしくそのまま継続入院となった。幸江さんは経済的に裕福だったらしく室料の高額な特室のある意味住人となった。
幸江さんは何かしらの会社を経営していたらしく部屋には重役と思しき人や弁護士バッジをつけた人が度々訪れていた。だが、身内と思われる人の面会はなかったように思われる。私の知る限りは。
ある日の昼下がりに状態観察のため訪室すると、幸江さんは少しベッドの頭側をギャッジアップした状態で横たわり窓の外を見ていた。窓からは駐車場と植え込みの桜の木が目に入った。
「私には息子が一人いたの」と、窓の外を見ながらまるでひとりごとを話すかのように語りだした。私は体調を問うことはせずそのまま幸江さんの言葉に耳を傾けた。
「とても頭の良い子でね。素直で何より優しい子だったの」
「でも、捨てたの。そう何よりも大切だったのに。自分の身勝手さで、、、」
「私が家を出たのはあの子の10歳の誕生日からまだ1か月も経っていないときだったわ。車のトランクに荷物を詰め去っていく私を泣きながら追いかけてくる姿が今でもはっきりと目に焼き付いている。「お母さーん、待って。どこに行くの。待って。なんで、」と、繰り返し叫びながら追ってくる姿がね」
「罰が当たったのよね。ちゃんと理由も告げずに。まあ、理由やなんかを説明したところで決して許されることではないのだけど。」
幸江さんの瞳には涙がにじみ話すうちに大きな粒となっていくつもいくつも落ちていった。病室には鼻をすする音に交じって時々嗚咽が響いた。
入院当初に窓から駐車場を見ていると、医療機器関係の会社のマークが入った車から一人の青年が降りてきた。3階の窓からなので若干遠目ではあるものの、幸江さんはその青年が成長した息子だと一目で思った。慌てて1階のロビーに行くとやはり息子だった。愛おしい息子のことは長年会っていなくても感で分かったそうだ。息子はこの病院の出入り業者として来ていたようだった。
その日から幸江さんは毎日窓の外を見つめ息子の姿を探していた。名乗り出ることはかなわずに。
日が経つにつれ癌細胞は幸江さんの体をさらに蝕んでいった。やがて息も荒くなり酸素吸入も外せなくなった。痛み止めも徐々に強いものへと変更されていった。自力でほとんど体も動かせなくなり意識も徐々に遠くなることが増えていったがやはり左側をむき窓の外を眺めていた。
床ずれができてはいけないからと逆方向に体の向きを変えクッションで安定させても次に訪室するとクッションは床に落ちていてやはり左を向いていた。どこにそんな力が残っているのかと不思議だった。
休み明けの出勤の際に同僚の絵里ちゃんから前日に幸江さんの息子さんが面会に来られたことを聞いた。その日訪室すると幸江さんは私のほうを見てうなずくような笑顔を見せ、そのあと深い意識のなかへと沈んでいった。それから3日後幸江さんは静かに息を引き取った。窓の外の桜の蕾はまだ小さく閉じその気配を隠していた。
幸江さんから息子さんの話を教えてもらっていた私は少しでも意識のある間に息子さんとの再会が叶えられて本当に良かったと、涙が出るほどだった。
それなのになぜ、、、まだ思い残しがあったのだろうか。
亡くなって49日にはまだ間があるけれど、幸江さんの魂はまだこの場をさまよっていた。何が心残りなのだろう。もとの自分の部屋に入るときの振り向きざまに私を見た時のあの申し訳なさそうな表情は何だったのだろう。
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