こころの炎
坂本治
こころの炎
まぶしい太陽が頭上に昇る午後、人々は焼けた大地を進み山を越える。
木々も育たぬ土埃の舞う山肌を、裸足の少年は毎日のように駆け抜けたヒマラヤを行き交う行商人の荷物運びの手伝いをして生計を立てている幼い彼は、家族を思って懸命に働き、日々苦痛に耐えた。
乾いた空気が喉の乾燥をひどくする。今日の山道には誰もおらず、彼一人の足跡が長く長く続いていた。彼はやさしい子であったから、山道で困っている人に出会ったならば、必ず手を差し伸べた。とりわけこの気候のせいで喉の渇きを訴える者が多く、その度に彼は自分の飲み水を分け与えていた。
その行為を重ねる内に彼はいつ頃からか、日の高い内に水筒を空にしてしまうことを避けていた。
厚く太陽が照り付けて幼い彼の背は褐色に焼けた。
その日は周りにも数人の
すると山の天候は打って変わり、たちまち黒い雲が辺りを包むと大粒の雨を降らした。
人々はサンサンと差す日光によって奪われた水分が注がれたことに歓喜して、それを神の恵みだと言った。少年も喉を潤しほんの束の間、短い休息を得た。
雨雲が過ぎ、一行がポツリポツリと再び山を越え始めた。少年もその列に加わった。
道は切り立った崖のような場所へ差し掛かっていた。気をつけなければならないのは、先ほどの雨で水を含んだ足元で、非常に緩く崩れやすくなっていた。少年は荷物の重みに注意しながら慎重に歩みを進めた。
「気をつけろよ」周りの誰とも知らぬ同業者らが、口々に声をかける。肩幅の広い者、体の細い者、各々が真剣な表情で足元を見つめていた。列には少年と同じくらいの年頃の子どもたちが多かったが、大人も何人か混じっていた。その中に一際手足の細くなった老婆がいた。少年はその日の一行に彼女がいたことを知っていたからその人のことがとても心配だった。
とたん前方からどよめきが起こり、少年の前を行く人物も歩みのペースを乱した。顔を前の者の荷物にぶつけた少年は、慌てながらもバランスをとり列に合わせて進んだ。
細い道を行くと岩壁のない左側、覗き込めば落ちてしまいそうなそちらの下方に老婆がいた。何事かと思ったが、見えてくる景色に変わりはなかった。列の前方を進んでいた彼女は運悪く落下してしまったのだ。
彼は息をのみ、その老婆の安否を気にした。彼女はまだ生きており窪んだ岩肌に足場を見つけ、こちらを困ったようにこちらを見上げていた。
少年は心を痛め、救いたいと思った。だが周りの者たちに止められた。けれども普段から善行に取り組んでいた彼にとって、そのままここを去ることは難儀なことだった。明日も通るであろうこの道に彼女がいることを、どうして忘れて仕事に取り組めようか。
大人たちも心中を察したが助けることは叶わない状況だと誰もが思った。足場の悪いその場所では老婆を引き上げることはできず、降りて行ったとしてもまた登ってくることは、成人の男性であっても不可能と思われた。
その時人々は自然の恐ろしさ、先ほどまで恵みと思っていた雨への憎悪を抱いたのだ。そして足を滑らせた老婆の不注意を責め、徐々に列は動き始めた。少年は誰も憎むことができなかった。強いて言うなら己の無力さを嘆いた。
とうとう皆行ってしまい少年だけが岩場に残った。
下を見ると老婆と目が合い、彼は謝罪した。悲しそうな少年を慰めるように老婆は複雑そうな表情で「お行き」と手で促した。
食い下がれない少年の瞳に水分が溜まってくる。雲がどいて姿を現した太陽が空を赤く染め出した。夕刻の気配を感じて少年は日が暮れた後の凍える山道のことを思い出した。答えの出せない彼の肩が震えたとき、老婆がやさしく声をかける。
「坊や、水をおくれ」ハッとしてそちらに顔を向ける。
「すっかり喉が渇いてしまってねエ。まだ残っているかい?」
彼はコクコクと激しく頷くと、自分に与えられるものがあることを喜び飲み切っていない水筒を岩場へ投げた。
老婆は狭い岩場で見事それを受け取ると、中身をなんと硬い大地にこぼしてしまった。
少年が動揺していると、老婆の足元からみるみる内に立派な幹の植物が生えてきた。それはあっという間に少年の目の高さまで育ち、葉をつけツルを伸ばし、彼女はというとそれに体を任せて無事に彼の眼前まで戻ってきた。
老婆の正体は聖仙であった。
少年の心がどんなにあたたかで、どんな雲でも隠すことのできない輝かしい太陽を宿していることを知っていた。そしてその尊い行動は、きっとあなたの役に立つだろうと諭したのだ。
日ごろからやさしい心を持つのは大事なこと。しかし、それをどんな時も手放さないのはとても難しいこと。彼のように一貫した強い精神を人々が育めるように聖仙は祈った。
けれど時にはそのやさしい行為が自分を危険や苦しみに陥れることがあるかもしれない。その時には十分な自然の恩恵や、神々があなたを守るようにと約束した。
それに一番に応えたのは火神アグニであった。
彼は天上にあっては太陽、地上にあっては祭火、そして家の火、森の中を照らす火である。それから忘れてはならない、心の中を照らす火である。火神アグニはいつも生命の傍にいる。
聖仙は火神の力を借りて、薄暗くなった道を帰る少年が寒くないように温め続けた。
彼の心に燃える炎はその出来事以降、永遠に耐えることはなかった。
〈終わり〉
こころの炎 坂本治 @skmt1215
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