朝になったら

宇土為 名

朝になったら



 いつも突然に、ふらりと姿を消す人だった。

 初めて会ったときからそうだ。何も言わずに置いて行かれた。

 それを今さらどうこう言うつもりもないけれど。



 目が覚めると癖になったように隣の気配を探る。同じベッドで眠ったときには常になってしまった仕草だった。まだ半分眠りの中に浸かったまま手を伸ばす。

「──」

 目を開けて常盤は飛び起きた。

 隣にいたはずの人はいない。

 温もりはすでに消えかけていた。



「…あれ、何?」

 玄関を開けて入ってきた久我直は、驚いた顔でこちらを見つめた。

「おかえり」

「た、ただいま…?」

 玄関前の廊下に寄りかかる常盤に直は戸惑った声を返した。

 出勤前の姿、ワイシャツに濃いグレーのスラックス、ネクタイはまだしておらず、手にはレジ袋を提げていた。その袋に記されていたのは近所のパン屋のもので──つまりパンを、朝食を買いに行っていたのだ。

「朝メシ?」

「え、ああそう。食べるの何にもなかったから」

 目元を和らげて常盤の横をすり抜けていく。リビングに入る直の背中を常盤は追いかけた。

 細い腰に目が行きかけて慌てて逸らす。

 直はシャツの袖をまくり、朝食の準備をし始めた。慣れた手つきでケトルをコンロに掛けるのを眺めていると、その気配を感じたのか直が振り向いた。

「まだ寝てていいよ。準備だけしておくから」

 昨夜遅かっただろ、と言われて常盤は首を振った。確かに朝方に帰って来てからまだ4時間ほどしか経っていない。頭の芯では睡眠を求めていたが、今さらベッドに戻る気にはなれなかった。

 直の傍にいって彼の手から卵を取り上げる。

「いいよ、目覚めちゃったし。俺が作るから支度してこいよ」

 何よりも一緒に食事をしたい欲求の方が勝っていた。

「え、でも──」

「いいから」

 ほら、と言うと、しょうがないなというように直は笑って常盤に場所を譲った。



 直が行ってしまった部屋の中はしんとしていた。テレビをつけてみたが大して興味を引くものもない。

 テレビを消して、食器を片付ける。

 一緒に食事をしたのは3日ぶりだった。月曜日から常盤は仕事で家を空けており、帰ってきたのは日付けも変わった今朝、木曜日の夜中だった。

 疲れ切った体を引きずって、ふらつく足で直が眠っているベッドにもぐりこんだ。昨夜の記憶は、温かな細い体を後ろから抱き締めたところで途切れている。

 洗い物をして、洗濯をしてしまえばやることもなくなった。

 ソファに座り残りのコーヒーを飲み干す。

 外はいい天気だった。

 出張帰りの今日は休みだ。予定もない。もう一度寝直すには時間が経ち過ぎていた。

 ぼんやりしているだけなのも性に合わない。

 直が帰ってくるまでにメシを作るのは当然として、あとは何をするか…

「よし──」

 常盤は立ち上がって、今は自分の部屋と化している直の書斎に入り、とりあえず部屋を片付けることにした。


***

 

 総務室の応接セットの上には色んなものが積み上がっていた。資料や備品のカタログ、業者が持ってくるパンフレット、女性陣が時折読む雑誌、新聞、社内報、いつかの社内報、そのまた前の社内報、そして。

「賃貸情報?」

 誰が置いたものやら分からない住宅情報誌が一番上に乗っかっていた。おーい、と室長の前原が呆れたような声を出す。

「誰だーこんなところで家探してるのはーそんなのはねえ、家でやりなさいよー」

「室長」

 雑誌を手にした直が呼びかける。

「そういうの、いるときに言わないと意味ないですよ」

 前原が背を向けているオフィスの中には誰もいない。部屋の中にはふたりだけだ。

 今は昼休みで、総務の女性陣は皆外にランチに行っているのだ。

 ちっ、前原は舌打ちした。

「いいんだよ、言ったつもりで円滑に笑って仕事したいのよ俺は」

 吐き出したいの、と言われ、はいはい、と慣れた手つきでテーブルの上にあるものをどかしながら直は相槌を打った。確かに、6対2では勝ち目はない。

 ここは女性の花園だ。

 彼女たちにいかに快適に仕事をしてもらうかに前原は全てを掛けている。

 何気に住宅情報誌に目を向けていると、前原が言った。

「何だ、おまえも家探してるのか?」

「え、ああ──更新もあるので」

「ふーん」

 表紙に目を奪われながらも直はそれらを一纏めにして紐で括った。

 すっかり片付いたテーブルにつく。ようやくふたりして昼食をテーブルに広げた。

 直はコンビニの弁当。前原は手作り弁当だ。今や前原の手製弁当は着実に進化を遂げている。

「今日も美味しそうですね」

「だろ、自信作よ」

 目玉焼きを乗せたガパオライスを眺めながら、にんまりと前原は笑った。


***


「あ、──」

 ばさっと雪崩を起こして積み上げていた荷物が床に広がった。部屋の隅にあった直の本だ。いずれ古本として出す予定のものばかりのそれを、片付けに夢中になっていて蹴躓いて倒してしまった。

 あらら、と独り言をこぼしながら常盤はしゃがみ込み、それらを拾い集めた。直は活字中毒の気があり、家の中は本だらけだ。文字であれば何でもいいというように様々なものを読み漁っていた。しかしジャンルは狭いので、おのずと似たようなものばかりが溜まっていく。

 作家は北欧、イギリス、アメリカ、中国、スコットランドが主で、日本の作家のものはあまりない。フィクションにノンフィクション、子供向けのもの、探偵もの、ミステリーが多く、次いで多いのは理系のノンフィクション、それと医療もの。恋愛に関するものは皆無、そして意外なことに写真に関するものも割とあった。

「おっと…」

 散らばったものの中に一冊の写真集があった。若手写真家の本だ。かなりマイナーな写真家で、確かすでに廃刊になった雑誌の最終ページのコラムにいつも風景写真を載せていた人だ。その雑誌が店頭から消えてからあまり名前を見かけなくなった。常盤も好きだったので、意識してその名を探すようにしていたけれど…

 直もあの雑誌を見ていたのだろうか。

 そうでなければ買ったりはしないだろう。

 手放してしまうのは惜しいな、と床に座り込み常盤は表紙を捲った。

 美しく青い色味の写真がこの人の特徴だ。ページをめくるたびにその世界に引き込まれていく。

 中程のページに明け方の湖畔があった。

 波打ち際が斜めに切り取られ、深く、吸い込まれそうなほどに奥行きを深く写している。

 自然と手が止まった。

 常盤の意識はあの日に飛んでいく。

 明け方の記憶。

 あれからもう4ヶ月余りが過ぎた。

 結局常盤は住む場所をここに落ち着けてしまった。2LDKのマンションに男ふたり、快適だし不満はない。常盤も直もほとんど寝に帰るようなものだし──それでも──直は何も言わないが、少しばかり手狭だと彼が感じているような気がしていた。転がり込んできたのは自分だ。彼が言い出す前にどこか住む場所を探さなければならないのは分かってはいたが、どうにも、常盤はその気になれずにいた。

 直の傍を離れたくない。離れてしまったら、いつか、ふっと消えてしまうような気がする。

 彼の妹のように。

「……」

 どこか直には浮世離れというか──そこにいるのにいないように感じる時があった。しっかり掴まえておかないと腕の中をすり抜けて行ってしまいそうで怖い。そんな迷路のような思考に陥ってしまうのには、随分前に、自分が似たような経験をしているからだと分かっていた。あのときには何の感情も持たなかったのに。

 ただ出て行ったんだと、それだけで済んだのに。

 直にはまるで違う。

 捨てられたと感じてしまう。

 そうでなくとも彼は、はじめから何もかもを諦めきっているようなところがあるのだ。ある日突然にそうならないとどうして言えるだろう。

 目が覚めるとそこにいないような錯覚がいつまでも消えない。

 あの日も──

 あのときの自分の胸の痛み。

 確かにいたはずなのに消えていた温もり。

 嫌な予感ばかりが寝起きの頭の中を駆け巡っていた。

 まさか、まさか、──妹の後を追ったのではないかと。

 叫びだしそうなほどの恐怖。

 気がつけば部屋を飛び出していた。

 ──まずい。

 根に持っているつもりはないのだが、どうしても思い出してしまうあの日の苦い思いを、常盤は苦笑して振り払った。

 直には、ひとつ考えていることがあるのだが、いい加減その話をしようと思う。出来れば早く、今夜にでも。

 もう昼を過ぎていた。シャワーでも浴びて、夕飯の買い出しがてら少し散歩でもするかと常盤は立ち上がった。膝の上に載せていた写真集がその勢いで床の上に落ちる。

 拾い上げたとき、白いものがページの間から抜け出て、床の上をひらりと滑った。

 それはペーパーナプキンだった。

「……?」

 何かが書きつけられている。インクが滲んだそれは電話番号のように見えた。


***

 

 久我さーん、と呼ばれて直は顔を上げた。

「おやつ、久我さんの分です」

 後輩で同僚の荻野が個包装の菓子を手に立っていた。彼女は直よりも5つほど年が下だ。ありがとう、と言って受け取ったそれはバウムクーヘンのようだった。期間限定のレモン味、と表に書いてある。

「コーヒーも入ってますよ」

「あ、いいよ」

 取りに行こうとする荻野を制して、直は立ち上がってカフェスタンドと密かに呼ばれている給湯台に行き、自分のカップにサーバーからコーヒーを注いだ。

 デスクに戻ってみると、荻野が直のデスクの上を凝視していた。

「久我さん引っ越し?」

「ああまあ──更新もあるからね」

 前原に言ったことと同じことを返して、直は座った。パソコンのキーボードの上には、応接セットから回収した住宅情報誌が広げられている。

 休憩の合間にざっと目を通していたのだった。

「今どれくらいなのかな、と思って」

「なるほどー、でもネットで見た方が早くないですか」

「うん、そうだよね」

 誤魔化すように笑って直は雑誌を閉じようとした、が、一瞬早く荻野がページを指先で押さえた。

「3LDK…」

「はい、おしまい」

「あっ」

 寄越された視線に直はちらりとだけ返してから、ぱたんと雑誌を閉じた。

 更新の話は事実だったが、部屋を探す本当の理由は別にあった。


***


 夕飯の買い物を済ませ家に戻ると、常盤はさっそく支度を始めた。

 煮込み料理は得意なので、カレーを作ることにする。

 たまねぎを刻み、炒めている間ににんじんを切り肉を用意する。

 いわゆる普通のカレーだが、じゃがいもはルーを入れてから、レンジで火が通ったものを入れるのが好きだ。煮崩れしないから口当たりもよくて気に入っているやり方だった。

 ことことと鍋で煮込む音を聞きながら、視線はカウンターの上にある。

 直の本の間から出て来たペーパーナプキンがそこに置いてあった。なぜか気になって戻せなくなってしまった。

 直はこれをどこでもらったのだろう。

 電話番号をペーパーナプキンに書くような場面。それは、つまり、…

 滲んだ数字はなんとか判別出来そうだったが…

 常盤は長い間それを見つめていた。

 やがて香ばしい香りが漂う。

 きな臭い。

「あ──やべっ、嘘だろ!」

 鍋の底が焦げる匂いに気がついて慌てて火を止める。

 食べられるか?

 なんとか体裁を繕って食べられるようにまで取り戻したときにはすでに、直がそろそろ帰宅する時間になっていた。



 ただいま、と玄関を開けると、夕飯の匂いがしていた。

「おかえり」

 リビングのドアを開けると、常盤がキッチンに立ち、何かを刻んでいた。大きな体を丸めるようにしている後ろ姿がなんともおかしい。

「いい匂いだな、カレーだ」

「うん」

 傍に行き手元を覗き込むと、サラダにでもするのか胡瓜とトマトを刻んでいる。

「手伝おうか」

「いや、もう出来るから。着替えてくれば?」

「うん」

 直はリビングを抜け自室に行きかける。ふと、ソファの上に見覚えのある本が置いてあった。それは随分前に取り寄せて買った若い写真家の写真集だった。

「常盤くん、これ──」

 振り向いた常盤が一瞬驚いたような顔をした。

「え、何?」

「この本どこにあった?」

「あー、えと、俺が使ってる部屋。今日掃除してたら出て来た。古本に回すほうに入ってたよ」

「そう」

 必要なものは全部寝室に運んだとばかり思っていたが、そうではなかったようだ。

「よかった、そっちにあったんだな」

 ふと常盤が眉をひそめた。

「…大事なもん?」

「うん。なかなか手に入らなくて、出版社から直接送ってもらったものだから」

「へえ」

 見つけてくれてよかった、と直が微笑むと、なぜか常盤は一瞬むっとして、顔を背けた。まな板の上のトマトを再び刻んでいく。

「いいから、早く着替えてこいよ」

「?うん…」

 急に拗ねたような声で言う常盤に首を傾げながら、直は着替えに行った。


***

 

 平日の夜は抱き締めて眠るだけだ。

 どんなに持て余していても、相手の体のことを考えると激しくは出来ない。彼にも生活がある。

 仕事を送る日常がある。

 どんなに、どんなに欲しくても。

 今日が終われば、また週末だ。今日の夜には思い切り腕の中に囲っておける。

 離さないでそのまま。ずっと。

「高史!」

 ばし、と叩かれて常盤は沈んだ考えから引きずり出された。

 顔を上げれば険しい顔をした自分の上司がこちらを睨んでいた。

「しゃきっとしろよ、ぼけっとすんな。早く、データ!」

 手のひらを突き出されて、ああ、と常盤は画像の入ったメモリーを上司の手のひらに押し付けた。上司はひったくるようにしてそれを奪うと、パソコンに繋ぎ、確認作業に入っていく。

「ふーん、結構いいな」

「どれですか」

「これとこれ、…ちょっと露出変えてみるか」

 作業に没頭していく上司から離れ、常盤は狭い事務所内にある古い革のソファに座った。

 常盤は今このアートスタジオで専属カメラマンとして働いている。スタジオと言っても常盤と、常盤を自分の元に引っ張ってきた上司である所長の清水のふたりだけだった。あとはたまにやって来る事務員がひとり。

 仕事はウェブなどで使うフリー素材の撮影が主だ。それ以外には写真に関することなら何でもやるという大まかな括りだった。所長の性格をそのまま表しているようで、仕事の幅は多岐に渡り、おかげで退屈はしない。今回の出張も地方自治体のウェブ動画をGIF画像にしたいとの依頼があり、それに使用する静止画を撮影に行っていたのだった。

 清水はどこでそういった人脈を培ってきたのか、似たような依頼は最近増えていた。そういうわけで、常盤の出張の頻度も右肩上がりだ。

 田舎の人々の歓迎ぶりは久しぶりに帰ってきた息子に対するようなもので、そういうところは実家の写真館を継いでやっていたときと同じだ。いい経験が出来ていると思う。

 ついでに素材として使えそうなものも撮影しておいたので、そのメモリーも清水に渡す。

 ふと思いついて常盤は言った。

「清水さん、ミトって写真家、知ってます?」

「ミト?」

 何それ、と清水が手を止めて振り向いた。

「だいぶん前に…4、5年前かな、廃刊になった「markマルク」って雑誌に写真載せてた人なんすよね。風景写真が主で、本一冊出してんだけど」

 ネットで探してみても、古い記事がいくつかあるだけで最近のものは見つからなかった。現在の活動の痕跡は全くなく、写真をやめてしまったか、ただずっと休んでいるだけなのか。

「ふーん、知らねえなあ」

「そうですか」

「それが何?」

 あの才能を眠らせてしまうのは惜しい気がした。自分にはないものだ。同じ場所を見ていても、まるで違うものを作り上げる目だ。

 彼の好むものを生み出す力。

 それが羨ましくて悔しかった。

 たったひとつ見つかったミト本人の写真はぼやけていて、あからさまに意図して焦点をずらして撮影したものだと分かった。多分──銀色の髪の後ろ姿。

「いや、何でもないです。同居人がその本持ってたんで、ちょっと」

 へえ、と清水は返事をした。

「同居人ねえ…おまえもう帰っていいよ」

「え?」

 時刻はまだ昼を少し回ったばかりだ。出社してからまだ3時間ぐらいしか経っていない。

「いいから帰れ。その仏頂面じゃ仕事になんねえだろ」

 と笑いながら清水は言った。


***

 

「はーいナポリタンねーお待ちどっさまー」

 どか、と赤いギンガムチェックのテーブルに鉄板に載ったナポリタンが置かれた。そして焼肉屋で出されるような紙製のエプロンを差し出される。喜々として荻野が受け取るのを直は眺めていた。

 以前前原と訪れた洋食屋だ。今日は荻野と来ていた。

 相変わらず銀髪の青年が愛嬌を振りまきながら給仕してくれる。

「お客さんはサンドイッチだね。これだけでいいの?ちゃんと食べなきゃもたないよー、はい」

 とは言っても、揚げた野菜チップがハムサンドの隣に盛りつけられているので充分な量だった。

 うわー美味しそう、と荻野が声を上げる。

「ありがとう」

「追加あったら呼んでね、ごゆっくり―」

 奥に引っ込む青年の後ろ姿を見つめながら、荻野が呟いた。

「眼福だわー」

「口から漏れてるよ」

 ふふ、と荻野は上機嫌で紙エプロンを着け、ナポリタンにフォークを突き刺した。美味しそうに頬張る姿が見る人を幸せにする。

「んー美味しい!久我さんよくこんないいお店知ってましたね」

 会社から距離があるのに、と言われて直は笑った。

「前に室長に連れて来てもらったんだ」

「へえ、いいなあ」

「言えば連れて来てくれるんじゃないかな」

 しかしその場合は女性陣全員を引き連れて来なければならないから、実現はなかなか難しそうだ。

 それは荻野も分かっているのか、笑っただけで言ってみようとは言わなかった。

「それで、これが昨日見つけたやつなんですけどね」

 食事が終わり飲み物が運ばれてくると、荻野はテーブルの上にプリントアウトした用紙を広げた。

「3LDKで、ちょっとした納戸っていうかワークスペースが付いてるんですよね。場所も、ほら」

 差された指の先を読んで、直は頷いた。

「ああ本当だ。近いんだね」

 細かな部分まで読み進めていくと、提示されていた条件はこちらの希望とほぼ合致していて──つまりすごくいい物件だった。

「更新いつなんですか?」

「再来月…決めるならもう決めないといけないな」

 彼がすでに新しい住まいを見つけている可能性もある。

 常盤に今夜こそ話をしようと直は思った。

 昨日はなんだか──そんな雰囲気ではなくなってしまって、話を切り出せなかったけれど。

 きっと出張明けで疲れていたんだろう、と直は内心ため息をついた。年下の彼は普段はそうでもないが、時折ひどく子供っぽい。

 それにしても、どうしてあんなに機嫌が悪かったんだか。

 機嫌が悪いというか。

 いや、むしろ…

「週末は話し合いですねー」

「まあ…そうなるかな」

 唯一(と本人は思っている)直の秘密──恋人は同性で、家に居候している事実──を知っている荻野はにこっと笑った。屈託なくそう言われて、直も素直に頷いた。


***

 

 今日もまた食材の買い置きをするためにスーパーに寄った。

 直には自分が買い出しをするとメッセージを送っておく。

 週末、外に出なくてもいいくらいの食材を買い込んで家に着いた。

 荷物を置き、誰もいない部屋の中で、常盤の携帯が鳴った。

 直からありがとう、と送られてきていた。そして『今日は少し寄るところがあるから』と続いている。

 それを見つめ、もやもやしたままの心の中をなぜか見透かされたような気持ちになった。

 昨夜、直があの本を見つけて嬉しそうに笑った瞬間、ひどく嫌なものが込み上げてきて、ひとりで勝手に不機嫌になってしまい、散々だった。言おうと思っていたことも何もかも吹き飛んで、直が気づかないようにそっとしておいてくれるのにも苛ついて、最悪だった。

 まるで子供のようだ。

 彼が気持ちを向けるすべてに嫉妬するなんて、本当にどうかしている。

 今日は、そんなのはごめんだ。

 今夜こそちゃんと言いたい。

 常盤はポケットに捻じ込んでいたペーパーナプキンを取り出して、その番号を押した。



『はい?』

 あっさりとそれは繋がった。

 出たのは、落ち着いた男の声だった。

『もしもし』

 沈黙する相手に苛立つふうでもなく、男は繰り返した。

『もしもし?』

「あの」

 常盤が声を掛けると、今度は相手が押し黙った。

「すみませんが、この番号はどこに掛かってますか?」

 声の感じからして相手は年上のようだと思った。直と同じくらいだろうか。

 もしも直の仕事関係の人だったらまずい。常盤は努めて営業用の声で言った。

 ああ、とややあって、声が返って来た。

『あなたはこの番号をどちらで?』

 問い返されて、常盤は少し身構えた。

「友人が持っていました」

 そう、と男は言った。

「その友人とあなたがどういう関係なのかと思って」

 言いながら、自分のやっていることが酷く直を傷つけているような気がしてきた。

 直に対する執着に、自分で自分が嫌になる。

 本当に俺はどうしようもない。

『関係なんてないよ』

 男は真摯な声で言った。

『彼とは偶然に3度会ったことがあって、もしも4度目があったら名前を教え合おうと言っていたんだ』

 静かに言う男の真剣な声が、それは真実なのだろうと思えた。

「…4度目は、あったんですか」

 男は今度こそ笑いを含んだ声で言った。

『ないよ。だからお互いに名前を知らないんだ』

「そうですか…」

『安心した?』

 きみが教えてくれてもいいんだよ、と男は潜めた声で続けた。

 冗談じゃない、と常盤は思った。深く息を吐き、今度こそはっきりと言い返した。

「勿体なくてできねえよ」

『だろうね』

 笑いながら男は言い、電話を切った。切る直前に、彼の後ろから、アサクラさん、と呼ぶ別の声が聞こえていた。


***


 玄関を開けると、またいい匂いがしていた。

「ただいま…」

 リビングのドアを開けると、昨日と同じように常盤がキッチンに立っていた。

「おかえり」

 振り向いたその顔が笑っていて、直はほっとした。今朝はまだ、どこかぎこちない感じだったのだ。

 彼が不機嫌になるのは、決まって自分のことでだと直は最近気がついた。直が彼に何かをしたとかではなく、自分の言動がどうやら常盤をそうさせているらしかった。

 直には言わず、自分の中で折り合いをつけようとしているのが分かるので、いつも気づかないふりで普段通りに接するようにしていた。それに、翌日になれば大抵常盤はもとに戻っているのだ。

 何でも言えばいいのに、と思う。

 そうすればもっと分かり合えるのに。

「いい匂いだな、今日何?」

「ん?鶏と茄子の煮込み」

 残ったカレーは明日にしようと言われて、直は笑った。

 明日はもうどこにも行かなくて済む。何もせずに、ふたりで引き籠れる週末だった。

 でもその前に、直には常盤に言わねばならないことがあった。食事の後でもよかったけれど、直は早く常盤に言いたかった。

 ただ、向き合って食事をしながら、常盤とこの話をしたいと思っただけだったのだ。

「常盤くん」

 ダイニングの椅子に鞄を置き、ネクタイを緩めながら直は切り出した。

「何?」

「きみ、、部屋はどうなった?新しいところ、どこかいいところは見つかった?」

「え…?」

 直は鞄の中を探って、荻野からもらった不動産の紙を取り出した。

「あの、ずっと考えてたんだけど、もしまだだったら、僕と…」

 顔を上げて、直はぎくりとした。

 さっきまで笑っていた常盤が、眉を顰めてこちらをじっと見据えていた。

 彼は怒っていた。

「え、なんで…?」

「何それ」

 直が手にしたものをひどく嫌なものを見るような目で一瞥する。

 紙はちょうど常盤からも見えるように開いていた。

 常盤の声は恐ろしく低かった。彼は本当に怒っているのだ。

 でも、何に?

「それ、俺に?」

「え?あ、いや…そうだけど、でも」

「俺に──出てけって?」

 直は目を瞠った。

「え──ちが」

「俺と離れたいの?」

「違う、だから」

「そんなもんまで用意して、何が違うんだよ!」

「待って、ちが…っ」

 直は最後まで言えなかった。大股で近づいてきた常盤が直の顎を掴み取り、無理やりに上向けて噛みつくように口づけてきた。

「んーッ、んんっ…!」

 蠢く舌が唇をこじ開けて潜り込み、逃げる直の舌を絡み取った。強く吸い上げられる。きつく責めるように嬲られて、じわっと涙が滲んで、直は常盤の肩を拳で叩いた。

「ん、や、あっ…んんう、っ」

「くそ、なんだよっ、なんで…!」

 こぼれていく直の声を口づけで蓋をする。

「や、だ…あ…」

 顎を掴んで離さない大きな手を直は握った。引き剥がそうともがく。どうにかして話を聞いてもらわなければならないのに、力では敵わない。

「んんんっ…!」

 爪を立てた。

 ぎり、とそれが食い込んだ瞬間、唇が離れた。

「あ…っ!」

 視界がぐるりと回り、背中からソファの上に落ちた。衝撃がなかったのは、常盤が直を抱え上げたまま直の背を支えて倒れ込んだからだ。

 口づけられる。

 ソファと常盤に挟まれて、直はもがいた。抵抗するほどに執拗に嬲られる。呼吸さえも奪われて、苦しくて視界が滲んだ。

 言い方を間違えたのだと気づいたが、常盤は訂正させる暇さえ与えてくれない。

 こんなのはだめだ。

「ときわく、待って、や、ちがう、…違うから…っ!」

「何がだよ、…あんた、俺がどんなに──」

 ベルトを引き抜かれ、常盤の手がシャツを引き出していく。

「常盤くん…!」

「俺はこんなにいつもあんたが欲しいのに、あんたはどうして、なんでそうなんだよ⁉俺から離れて平気なのか?」

「あ、あっあっ、…」

 常盤の指が下着の中に入って来る。掠める指先をどけようと直は身を捩った。けれど引き戻されて、指の先を先端に押し込まれる。仰け反ってさらされた首筋に噛みついた歯が、きつく食い込んでくる。

「や、あ、あああああっ!」

「直っ…」

 背筋を震わせるほどの快感に力が抜けていく。

 それでも話を聞いて欲しくて、直は覆い被さる常盤の胸を必死で押し返した。

 彼は勘違いしている。

 自分が彼を追いだそうなどと考えるわけがないのに。

 離れて平気なわけがない。

 そんなことは決してないのに。

 どうして。

 何が彼にそう思わせるのだろう。

 自分の何が、彼にそうさせるのだろう。

 ちゃんと言葉にして言わなければ──伝わっていると思っているのは自分ばかりなのかもしれない。

「違う、ちがうから、…あ、っや、常盤くん、まって、…待って…!」

 聞いて欲しいと直は何度も繰り返した。体をまさぐる常盤の手を少しでも感じまいと、きつく唇を噛み締める。

「聞いて…おねが、っお願いだから…頼むから…!」

 直は繰り返した。

「直…?」

 気がつくと常盤の手は止まっていた。

 直の上からじっと、見下ろしている。顔の横につかれた常盤の腕を撫で、それを辿って、直はそっとその指を握った。

「平気なわけない…こんなに好きなのに」

 離れて平気なのかと言われたことに答えを返す。

 常盤が息を呑んだ気配がした。視界はひどく滲んで揺れていて、瞬くと、涙がこめかみを伝っていくのが分かった。

「違うから、話聞いてくれる…?」

 常盤が握っていないほうの手で頬を撫ぜた。

「もう一緒に暮らさないかと思って…」

 え、と常盤が呟いた。

「今もそうだけど、そうじゃなくて」

 常盤を落ち着かせるように、じっとその目を見つめた。

「荷物も増えてきたし…あの部屋はきみには狭いから、だから…」

 新しい部屋を借りて一緒に住もう、と震える声で直は言った。


 

 部屋は見つかったのかと言われた瞬間、引き離される気がした。

 また腕の中から、あのときのように、彼がすり抜けていってしまうのだと。

 俺は何をしているんだろう。

 最悪だ。

 こんなに、こんなに大事なものを傷つけて。

「ごめん、ごめん直さん…俺──」

 細い体を抱き締めて常盤は言った。

 酷くした行為の跡がくっきりと首筋に残っている。癒すようにそっとそこを舐めると、腕の中の体が震えた。

「ごめん、ごめんね…ごめんなさい」

 抱き締めた直の肩口に額を擦りつけると、常盤の髪を直の手が撫でていく。喉が震えて、いいよ、と彼が呟いた。

「僕がもっと早くに言えばよかったんだ…」

 俺も、と常盤は言った。

「俺もずっと考えてたんだ。実家を売った金で、だから…」

 その先を濁すと、ふふ、と直が笑った。

「同じこと考えてたんだな」

「そうみたいだ…」

 体を離して直の顔を見ると、彼は笑っていた。目尻に残った涙を親指の先で拭う。

「家を売ったお金はきみのものだろ?使わなくていいから」

「でも」

 どうせ使い道などない。

 せっかくあるのだから、と常盤が思っていると直は常盤の耳を包むようにしてその髪をかき上げた。男にしては細い指先が耳たぶを掠める。

「いいところなんだ。広いし…ふたりの給料を出し合っても充分やっていけるよ?」

「本当?」

 直は頷いた。

「見てみるか?部屋の条件。さっき見て来て、一応仮押さえしてあ──」

 起き上がろうとする直の肩を常盤は押し戻した。驚いて見つめる直に口づける。

「ときわく、ちょっ…」

「いいから、ちゃんと見るから、後で」

 だから今はこのまま彼の体温を感じていたい。

 離したくない。

「後でって…や、あっ、ンン…!」

「…好きだ」

 このまま腕の中にいて欲しい。思うさま感じさせて、声を上げさせて、欲しがらせたい。

 名前を呼ばせたい。誰の名前でもない、自分の名前を。その目を自分だけに向けさせておきたい。

 彼が好きなものすべてから。

 今だけは。

 誰も知らないこの人を独り占めしていたい。心を奪う本も写真集も来るはずのない4度目も何もかも奪い去って──

 消えていく感覚が消えていくまで口づけていたい。

「ちゃんと、こらっ…!や…っ馬鹿…!」

「うん」

 どこまでも暴走しそうな愛おしさが込み上げてくる。

「うん…分かったから」

 朝になったら見ておくから、と、常盤は真っ赤になって睨んでくる直の耳元で、笑って囁いた。

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