たまたま。

「初めて夢中になれるものを見つけたので、嬉しくて堪らなくなっちゃいました」

 俺はそれを聞いて思わず吹き出した。

「なんだ馬渕も、もう立派な美術馬鹿か」

 でもな、と前置き、続けた。

「それでも今回みたいなことはしちゃ駄目だ。皆がどれだけ心配したと思ってる」

「す、すみません」

「やりたいことを全う出来るのは、結局やるべきことをちゃんと全うしてる奴だけなんだぞ。これは佐野先生の受け売りだけど」

「うぅ、心配かけてすみませんでした」

「描きたい気持ちはわかるけどな、学校はちゃんと来ないと駄目だ」

「……はいっ!」

 馬渕の元気な返事を聞いて安心した俺は、買い物袋からゼリーとお茶を取り出した。

「ほら、馬渕が風邪で倒れてたらって心配して買ってしまった見舞いだ。食べてくれ」

「あ、ありがとうございます! すみません、いただきます」

 それからゼリーを食べながら、ここ最近のことを話した。

 俺は前向きなテーマがいまいち浮かばない事、凛子に言われた作品作りのヒントが掴めていない事、結局思考が迷宮入りしてまた何も描けなくなっていること。

 俺の話ばかりでつまらないかな、と思い馬渕に話を振ろうとしたら、馬渕はぱっと何かを閃いたように身を乗り出した。

「先輩が描きたいものは何ですか? テーマなんて後付けでもいいかも知れないですよ」

「ふむ」

「先輩が手を動かす原動力は何ですか? それを素直に表してみたらどうでしょう?」

 俺は少し考えた。答えはすぐ出た。でもそれは口には出さなかった。

「馬渕って、たまにいいこと言うよな」

「たまにでもいいです。先輩の力になれるなら」

 にこにこと嬉しそうな馬渕の頭に思わず手を伸ばしかけて、引っ込めた。

「ん、先輩、どうしたんですか?」

 今なら言える、謎の推進力が俺の背中を押した。

「馬渕、頭撫でていい?」

「えっ、い、いいですけど」

 いいんだ……と内心驚きながら無言で馬渕の頭を撫でた。つやつやの髪の感触が俺の手に伝わった。うーん、これは父性というか……なんでもない。

「先輩の手、大きいですね」

「そりゃな、俺も男だし」

「………」

 そんなやり取りをしながら頭を撫でていたら、気が付くと俺も馬渕も顔が真っ赤になっていた。やめ時が、わからない。

「あ、ありがとう」

 気持ちの踏ん切りをつけて馬渕の頭から手を離すと、馬渕は真っ赤な顔で困ったように「えへへ」と笑った。

「じゃ、じゃあ俺はそろそろ行くからな。来週から学校ちゃんと来いよ!」

 俺が立ち上がって部屋を出ようとすると、馬渕も見送りのためか立ち上がって後ろを付いて来た。一階に下りると馬渕のお母さんがひょこっと台所から顔を出した。

「ありがとうね。また遊びに来て」

 一礼して馬渕の家を出た。

 大きく腕を振り回して姿が見えなくなるまで見送ってくれた馬渕のことを思いながら時計を見ると、もう十八時を回っていた。部長達は今頃帰る準備でもしているんだろうか。

 今日見たことを報告すべく、歩きながらアプリの通話サービスで部長に電話をかけた。三コール程度で出た。

「どうしたの?」

「調査の結果が出ました」

「はいはい、馬渕さんね」

「馬渕は家に缶詰になって作品のラフを描き続けてて学校を休んだみたいです」

「ぶふっ」

 しばらく部長の爆笑が響いた。ぶふって、イケメンが何て声を。ていうか笑いすぎだろう、少し引いたぞ。

「あの……」

「いやー、そんなことだろうと思ったよ」

「え?」

「え、進は逆にそっちに気付かなかったの? まだまだだなぁ」

「いや、さっきは馬渕が美術を嫌になったんじゃとか」

「あんなのフェイクに決まってるじゃん。あこまで言わないと進が心配しすぎて駄目になりそうだったからね」

「つ、つまり……」

 俺は思わず歩みを止めて電話越しの声に集中した。

「いやー俺俳優なれちゃうかもね。日本画家の俳優とか需要が止まらないね」

「部長……」

「進ったら感動しすぎて言葉が出ないの?」

「俺、部長には日本画に専念して欲しいです」

「可愛い後輩を持って俺は幸せだよ……じゃ、そろそろ学校出るから切るよ」

「あっはい。部長、ファインプレーでした。ありがとうございました」

「あいよー」

 真田真広という男はどこまで出来る男なんだ……。

 俺は馬渕のことをよく見ていたつもりでも、よくよく考えると冷静に馬渕のことを考えたことが無かったのかも知れない。久しぶりの感情に流されて見落としていたものも多かったんだなと気付かされた。

 残念師匠とはよく言ったものだ。


****


 次の日。土曜日だが俺は制服を着て学校に向かっていた。

 もう作品展の締め切りまで時間が無い。今日で一気に完成させようという目論見だ。今まで散々考えて描けなかったものが今になって描き上げられるかという不安も強いが、やるしかない。俺はこの三週間で色々なものを得られたし、その間色々なことを考えた。今日はその集大成を発揮していこうという決意があった。

 教務室で鍵を借りて美術室に向かう。美術室の手前、美術準備室で一旦足を止めた。ノックして美術準備室の扉を開けると、そこにはやはり佐野先生がいた。

「どうした荻野目、土曜日に珍しいじゃないか」

「今日で作品を完成させようと思いまして」

 佐野先生は高そうなティーカップを傾けた後、脚を組みなおした。

「どうだ、この三週間は刺激的だったか?」

「ははは、とても……ところで」

 俺は美術準備室の扉を閉めて、佐野先生に向き合った。

「先生は、何故馬渕を美術部に連れて来たんですか?」

「その質問がやっと出てくるところから見て、荻野目はだいぶ冷静になれたようだな」

 椅子を一回転させながらそう言い、佐野先生は続けた。

「馬渕がな、生徒指導室に来た時に『変わりたい』と言ったんだ。特筆した才能が無い自分を相当コンプレックスに思っていたようでな。そういう自分を変えたいけれど何から始めればいいかわからないと言っていたから、なら美術部に来いと言った。それだけだ」

「なんでまた美術部に」

「私はな、芸術の力を信じている。己と向き合い己の信念を発露させる。それを繰り返す中で人は己の理解を深め、時にはそうして産んだ芸術で人の心をも動かすだろう。言葉を使わずとも、いや、言葉を使うより多くの感情を人に与えることが出来るのが芸術だ。正直その当時は馬渕がどの程度のポテンシャルを持っているかなんてわからなかったし、駄目で元々という感覚で連行した。だが結果として馬渕は荻野目の心を動かす絵を描いた。それも油彩の習作でだ。私としても馬渕は是非育てていきたい人材であると感じているよ。……話が逸れてしまったな。まあ結局のところ馬渕を美術部に連れて行ったのは『たまたま』だな」

「たまたま」

 人の生活って何が起こるかわからないものだ。そう思ったけど月並みすぎて特に言葉にするには至らなかった。俺はその代わりに別の言葉を佐野先生に発した。

「今度、佐野先生の作品も見せてくださいよ。実は一年間ずっと気になっていたんです」

「機会があったらな。ほら、早く描け」

 そう言って、しっしっと俺を送り出す佐野先生は少し寂しそうな顔だったように見えた。

 そのまま美術準備室でイーゼルと数日前下塗りしたまま放置していたカンバス、置きっぱなしだった画材を持ち出して廊下に出ると、そこには先日買った工具箱を重たそうに持った馬渕がいた。

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