本当に、悔しいよ。荻野目進。

「荻野目荻野目荻野目しぃ~ん!」


「どうした凛子さんや」


 朝、家を出て凛子の家の前を通り過ぎると、十歩くらい歩いたところで凛子が猛ダッシュで飛び出して突進してきた。そこを穏やかな菩薩スマイルで受け止める俺は中々訓練されていると思う。何の訓練だ。


「美術談義だ!」


「おっいいね」


 美術談義は大好きだ。凛子はスケブを取り出して、ばらばら勢い良く捲ると今の作品の構想を書き殴ったスケッチを見せてくれた。


「いやね、昨日ラッドを聞いてたらふぁーっとイメージが降りてきてさ、明け方までこんな感じに構想描いてみてたんだけど、どうよ、どうよ」


「ほう」と漏らしながら凛子からスケブを受け取ると、ページの左上にでかでかと『テーマ:青春と官能』と書いてあり、その周りには確かに性的なアピールを感じる作品のイメージが描いてあった。『青春と官能』、対極に位置していそうで、青春には官能の要素も切り離せない点も頷ける、面白そうなテーマではあるが……。


「いささか男である俺にはコメントしづらいテーマなんだが」


「抜かせ、クールベの『世界の起源』を見ても鼻息一つ荒らさず、シンプル且つ究極のテーマがどうのこうの言ってたのを私は忘れてないぞ」


「美術作品にはあいにく欲情しないんだ。でも『世界の起源』は流石に初めて見た時は動揺したぞ」


 ギュスターヴ・クールベが描いた『世界の起源』という絵画は、女性器を克明に描いた作品だ。そりゃ凛子の前でこそ鼻息一つ荒らさないように心掛けていたけど、実のところ結構ドキドキしていたのは内緒だ。


 凛子は「とにかく!」と場を取り直すように一声あげた。


「私が女とかどうとか気にしなくていいから、このテーマと構想を見た率直な意見が聞きたいの! 進にはそれができると思って聞いてるんだからはぐらかさないで」


「なるほどね」


 凛子からは美術に関して一定の信頼を得ているということか。それなら俺のほうも恥ずかしがってたら悪いかな。


「純粋に良いテーマだと思うよ。青春っていうか、思春期って官能を中心に揺れ動く感情も孕んでる物だと思うし。ただあまり露骨なエロスを全面に出しちゃうと『青春』要素が薄くなるから、難しいテーマでもあると思う」


 首をぶんぶん縦に振る凛子を横目に続ける。


「今見た構想だとそうだな……この右下のヤツなんか爽やかさとねちっこさが上手くバランス取れているように見えるけど」


 俺はページに描かれた構想の中で最もシンプルなものを指差した。何やら曲線が折り重なっているもので、自然に女性のボディラインを想起させる感じが気に入ったしテーマに則しているように感じた。


 それを聞いた凛子は苦虫を噛み潰したかのような渋い顔をした。何か間違えただろうか。


「進さんや……これは私、一番変態向けだと思ってデザインしたんだが」


「さ、作者の意図と見る側の感じ方がマッチするとは限らないだろ」


「そ、そうだね」


 なんだよこの微妙な空気。


「あ、そういえば進は作品制作始めた?」


「あぁー」


「まだか」


 察するのが早すぎるでしょ。この後の言葉もちゃんと用意してたのに。いや、「まだだ」だけなんだけど。


「どうにもこうにも煮詰まってるみたいだね、今年の進は」


「言い訳をさせてもらうと、今年は忙しすぎるんだよな」


「まこりんのこと? 進は本当に残念師匠だなぁ」


 残念師匠って……的を得すぎだろ。馬渕に色々教えているものの自分はロクに作品制作できず、その上それを馬渕のせいにしようとしているわけだからな。今のは失言だった。


 凛子はそんなことを思いながら頭を掻く俺を横目に見ながら


「まこりんのことで頭いっぱいなんだ」


 と言って頬を膨らませた。


「そうかもなぁ。馬渕が楽しくスキルアップできるようにするにはどうしたらいいか、そんなことばっかり考えてるな」


「……残念師匠に留まらず、更に残念男か!」


 突然尻を軽く蹴飛ばされた。ちょっと素直に喋り過ぎたか……って、凛子は自分の発言を否定して欲しかったのだろうか? いやまさか。ふと浮かんだ考えを受け流しながら凛子に調子を合わせることにした。


「残念男って……」


「その気持ち、絵にできないの?」


「絵に?」


「可能性は未知数だよ?」


 それはどういう事なんだ? と問おうとしたら、駅が近付き友達を見つけた凛子は「また教室でー」と走り去って行った。ぽつんと残された俺も、早々に中学時代の友人から声を掛けられたので連れ立って改札を目指した。そして電車に乗り込み他愛のない話をしながらも、凛子の言葉の意味をなんとか噛み砕こうとしてみた。そう簡単に答えが出るものでも無さそうだ。


 学校前の駅に着いて友人と別れて電車を降りた。すると逆方向の電車もほぼ同時に到着し、降りてきた佐々木と合流し歩き出した。逆方向の電車には馬渕も乗っている筈だ。降りてくる生徒の波の中で視線をあちこちにやってみたものの、見つけることは叶わなかった。この人混みの中であの小さい馬渕を見つけられないのは当たり前だ。なんとなく馬渕と話せば凛子の言葉の意味がわかるのではないかと思った。それが何故なのかは自分でも説明が出来ない。




 俺もいよいよ迷走が止まらなくなって来た。そう思うのは制作がゼロから進まないこと、最近少々仲良くなれたことが嬉しいせいなのか、心のウェイトを馬渕に置き過ぎている気がすることからだ。俺、今きっとすごい渋い顔で昼食のあんぱん食べてる。


「そんな渋い顔であんぱん食べるなよ、あんぱんが可哀想だろう」


「佐々木……」


 的中してしまった。


「最近の荻野目は悩みすぎだ。制作と後輩から一度目を逸らしてみたらどうだ?」


「やっぱり考えすぎかな? 煮詰まりすぎ?」


「俺の目から見ると、結構な。どうだ、近々息抜きに西納魚で遊んで都会の喧騒に身を任せないか?」


「遊び……いいね……でも制作終わるまで遊べないかなぁ」


 佐々木から頭に軽くチョップされた。


「コラ、その思考をやめろって言ってるんだ。それじゃ意味がないだろ」


 俺も中々とんちんかんな事を言ってしまったな……と、ここで放送がかかった。


『えー、二年三組、荻野目進。走って美術準備室に来い』


 佐野先生の無機質な声が流れ、ブチッとすごい音を立てて放送が切れた。あー佐野先生の顔、今は見たくないなぁ。


「悪いな佐々木、走って行って来るわ」


「遊びの件、考えとけよ」


「おう」


 あんぱんの最後の一口を口に押し込み走り出した。




 言われたとおり走って美術準備室に行き、ノックして入室すると椅子で脚を組んだ佐野先生が不敵な笑みで俺を見た。


「馬渕の油彩、途中だが素晴らしい出来だ。荻野目はこれを自分の実力と見る? 馬渕の実力と見る?」


「えっ」


 そういえば昨日進捗をよく確認しなかったな。佐野先生の傍らに置かれた馬渕の描きかけのカンバスに目をやる。


 俺は息を飲んだ。


 描きかけで、色が置かれただけのカンバス。だが、そこには既に馬渕の世界観が伝わってくる、そんな配色が施されていた。


 昨日、背景は描き込まずに全体の調和を取れる色を考えようと言った。そんな背景は美しい青味がかった若緑。緑と喧嘩しがちな赤い林檎は鮮やかに主張をする唐紅だ。その緑と赤のコントラストを調和するかのように、円筒形の石膏は教えたわけでもないのに淡紅色の影が置かれている。木の枝も、ただこげ茶で描かれた訳ではなくしっかり林檎や石膏の照り返しまで計算に入れた配色がされている。


 初めてとはとても思えない出来に、俺は鳥肌が立つのを感じた。


 ぱっと見ただけで本人が描きたいと言った林檎を主役にしているのが伝わる。奇を衒った構図でもない。置かれたままのシンプルな構図であるにも関わらずだ。


 馬渕は俺に無いものを持っている。直感が告げた。


 俺はここまでやれなんて教えていない。これが俺の実力? まさか。


「これは、馬渕の実力です」


 佐野先生はそう言った俺の顔を見て、真剣な表情になった。


「悔しいか?」


「悔しいです」


「それは、指導者として、一人の画家として」


 だらんと垂らしていた両手をぐっと握り締めた。


「画家として」


「最近の荻野目は、大きな見落としと勘違いをしていたんじゃないか? 荻野目自身は今気付いた筈だ。言ってみろ」


「俺は、馬渕が本気で絵を描き始めた時点で馬渕も画家なのだということを見落としていました。比べるまでもなく俺の実力の方が上だと、勘違いしていました。だから俺は馬渕の指導に胡坐をかいていました。反省します」


 佐野先生は真剣な表情のまま、美術室を指差した。


「描け、荻野目進。描かなければ何も生まれない。描かなければ何も進歩しない。描かなければ何も見えない。下手だろうが、悩もうが、描け。それが凡人が生き残る、シンプルで究極の道だ」


 凡人、という言葉に俺は少し眉をひそめたが、納得するしかなかった。


 俺の感性は平凡だ。だから奇を衒った構図を取ってみたり、試行錯誤をした。違う、俺はもっと描くべきだ。それが天才に並び、天才を追い抜くための究極の方法。そうしないと、自分の伝えたいことも自分の描きたいものも見えてこないだろう。俺は今回の作品展で何を伝えたい? いや、今はとにかく頭の中のイメージを描き殴るんだ。俺には誰にも負けないところがある筈だ。そうだ、俺だって美術馬鹿だろう。


 俺の表情がみるみる変わっていたようで、佐野先生は吹き出した。


「今すぐにでも描きたそうな顔をしているな。残念だが午後の授業をサボることは認めてはいけない立場でな。放課後にまた来てくれ」


「俺どんな顔してました?」


「描きたいって顔に書いてあったぞ」


「す、すみません」


 佐野先生はリラックスした顔に戻った。


「いいんだ。情熱を燃やせ。それは必ず無駄にならない。どんな形になろうとも、な」


「はい!」




 俺が出て行った後、佐野先生はクスリと微笑を浮かべた。

「本当に、悔しいよ。荻野目進」

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