馬渕は絵を辞めちゃ駄目だ。

「俺は……この人が天才だとは思わないけどな」


 馬渕はその発言に興味を持ったようで、「どういうことですか?」と身を乗り出してきた。


「この人は目と心が繋がってるんだと思う。なんか、うまく言えないけど。それは天才じゃなくて。彼女だって目と心と手を繋げるのに苦労をしていると思うんだ。絵からそれが伝わってくる。彼女は心から絵が好きで、それを表現するために努力をしているだけなんだろうって、俺は見てて感じるけどね」


 馬渕はそう不器用に言葉を紡ぐ俺を見ながら少し寂しそうな顔をした。


「先輩は、相当この人が好きなんですね」


「変な勘違いをするな。ただ小さい頃から憧れているだけだ」


「なんだか、先輩が憧れるのもわかる気がします。私も一枚一枚鳥肌が立ってしまっていました。どうしたら、こんな風に心に訴える絵が描けるんでしょうね」


「俺の理想はこの画家のように、目と心と手を繋げることだと思ってる。自分の目で見て心で感じたものを手で素直に表現する。それは形が崩れていたって、いや形が無くたっていいんだ。それが出来れば伝わる人には伝わる絵が描けるって、そう思うけどな」


「先輩は、相当絵が好きなんですね」


「それは当たってる」


 自然と二人小さな笑みがこぼれた。


「でも俺はイマイチ素直な絵が描けないんだ。斜に構えているから斜に構えた絵ばかり描いてしまう。人はそれを咎めも褒めもしない。要するにその程度の絵って事なんだろうけど。馬渕はこの間の葡萄と林檎のデッサンは見たっけ?」


「いえ、見ていないです」


「俺はあの時、あえて椅子を高くして対象を俯瞰して見える位置に座って、林檎の端と葡萄を斜めに紙に収める構図を取ったんだ。詳しくは部活の時にでも見せるけど……部長からも凛子からも『奇を衒った構図だ』とは言われたけれどそれが良いとも悪いとも言われなかった。所詮はその程度の感性しか無いんだ。凡人の悪あがきなのはわかってはいるんだけど。理想と現実の違い? みたいなのを感じざるを得ないというか」


 こんなことまで話すつもりは無かったのに、俺の口はするすると馬渕にそんなことを伝えていた。馬渕は反応に困っているのか黙って聞いていたが、俺が言葉に詰まると「あ」と声を漏らした。


「そういえば今日は先輩の絵を見に来たんでした。見せてくださいよ」


「ええ、この流れで見せるのは恥ずかしすぎるだろう」


「いいじゃないですか。先輩の絵、見せてください」


 俺が言ったことを確認でもする気なんだろうか。馬渕の笑顔はあまりいい気はしなかったけれど、新聞紙の上に裏返して積んでいた十何枚のカンバスをひっくり返して一枚一枚広げてやった。馬渕は立ち上がって床に広がった一枚一枚のカンバスをよくよく眺め始めた。


 その中には昨年の高校芸術祭で賞に選ばれる前段階の一次審査にすらカスらなかった因縁の一枚も混ざっていた。渾身の一枚で、部費で下りるからと躊躇せず最高の額縁を使って、でも誰の目にも留まらなくて。今となっては額縁からも外されて雑多に置いた習作の中に埋もれてしまっていた。


 馬渕は一枚の絵を拾い上げて、しばらく黙っていた。後ろから覗き込むと、例の因縁の一枚だった。俺は恥ずかしくて、思わず「ああ、それは」と声を出したが、馬渕はそれを遮った。


「先輩、私は、美術辞めた方がいいかも知れませんね」


「……は?」


 馬渕は振り返った。え、涙?。


「だって私には、こんな絵、描けません。見ただけでわかります。無理です」


「え、いや、それは去年一次審査も通らなかった作品で、俺はその絵が」


「先輩だって描いてるじゃないですか、心に訴える絵」


 馬渕が持っているのは、少年の涙が魚になって水溜りへ落ち、泳ぐという絵だ。俺の因縁の一枚。渾身の一枚。これがダメなら美術を辞めようとすら思った一枚。思い出せば思い出すほど嫌いになってしまいそうな、一枚だ。


「この絵はとても綺麗なのに、とても暖かく悲しい絵です」


 ――え?


「先輩がこの絵を描いた時に何があったかはわかりません。でも先輩がすごく苦しんで描いているような気がするんです」


 ――嘘だろ?


「……なんて、なんだか臭いこと言っちゃいましたかね。全然違うこと言ってたらすみません。なんかすごすぎて泣いちゃいました。今日は失敬してばっかりだ」


「……伝わった……」


「え? どうしたんですか、鳩が豆鉄砲食らったような顔して」


 久々に聞く表現だな。いや、人の口から聞いたのは初めてだと思う。


「あ、いや。なんでもないんだ」


 俺は後ろ頭を掻きながら目を泳がせた。何を言うべきか。何を言えばいいんだろう。


「……馬渕は絵を辞めちゃ駄目だ」


「どうしたんですかいきなり」


「馬渕が言ったんだろ。辞めた方がいいだなんて、そんなの絶対間違ってる」


 気持ちを少しずつ整理する。馬渕が俺の絵に感動してくれたのと同じように、俺は馬渕の感性に感動していた。そして、時間差でとてつもない感謝の念が押し寄せてきた。


「俺は、馬渕の絵が見たい。今、本気でそう思ったんだ」


「先輩」


「だから馬渕、絶対美術を辞めないでくれ」


 馬渕は俺が描いた絵に再び視線を落とし、そしてまた俺を見た。


「弱気になってしまってすみませんでした。私、頑張ります!」


 はにかんだような笑顔。その笑顔を見た瞬間、なんだか胃の辺りを優しく掴まれるような久しく感じていなかったもどかしい感覚を覚えた。でも、見てみぬふりをすることにした。




 それから俺達は気分を変えて学校の教諭の話や、勉強の話など他愛のない会話に花を咲かせた。魔法少女の話になると馬渕があまりにも加熱するから、パソコンを起動して馬渕お勧めの「プリズンウィッチ」の無料公開されている一話を見ることになった。隣で燃え上がった馬渕が少しうるさかったが、言われた通り面白そうな導入で、今度馬渕から録画したディスクを借りる約束をした。


 そして夕方になり、再び最寄り駅の待合室。馬渕は道は覚えたから送らなくてもいいと言ったが、心配だからと押し切って駅まで一緒に行くことにした。


「今日はありがとうございました。とっても楽しかったです!」


「こちらこそ」


「いやーまさか先輩がスポーツ課目の成績二だとは思いませんでしたー」


「なんでそこを会話のネタにチョイスしたんだよ。恥ずかしいからやめろよ」


「先輩は根っからのインドア派なんですね」


「そうだよ悪かったな」


「なんでそんな恥ずかしそうなんですか? 男性ってやっぱり運動できないのを気にするものなんですかね」


「ま、まぁそれはそうだな。男っていうのは基本的に格好つけたがりだからな」


 なんでいきなりこんな話になっているんだろう。スポーツ課目の成績を聞かれた時と同等か、それ以上に恥ずかしいんだが。


「そういうものなんですね。先輩以外の男子とほとんど喋らないので男子の生態には疎くて」


「そっか」


 生態って……俺は野生動物か何かか。


「ていうか馬渕、いつの間にか『荻野目先輩』から『先輩』になってるな」


 実は今日会った時から気になっていたけれど、やっと聞くことができた。話題も逸らさないといけないしな。


 馬渕は俺の言葉を聞いて少し考える素振りを見せた。


「ほんとだ!?」


 そしていきなり叫んだ。


「無意識!?」


 釣られて大きな声が出てしまった。


「すみません、戻した方がいいですか?」


「別にどっちでも構わないよ」


「そうですか……じゃあ次の部活の時まで考えておきます」


「そんなに考えるのかよ、先輩でいいよ先輩で」


「はいっ先輩!」


 花のような笑顔が咲いた。


 明後日から本格的に馬渕に油彩画の描き方を教えることになる。馬渕は特に宣言したわけではないが何故かもう油彩画を描く気満々だ。それと並行して自分の作品のことも考えていかなきゃな。


「私、自分の作品を作るの楽しみです」


「馬渕ならいいものが作れるよ」


 お世辞じゃなく本当にそう思った。

 馬渕なら大丈夫だろう。馬渕はきっと目と心が俺よりも近い。


「……そろそろ時間ですね」


 馬渕は待合室の椅子から立ち上がり、俺に深く頭を下げ「ありがとうございました」と言うと背を向けて歩き出した。


「馬渕」


 俺は咄嗟に馬渕の右手を掴んだ。


「先輩?」


「ありがとう」


「いえ、こちらこそ」


 その微笑を見て俺は手を離した。馬渕は再び頭を下げ、背を向け、歩き出す。改札を通って、ホームの角を曲がって。その小さな背中が見えなくなるまで目が離せなかった。


 馬渕の手は小さくてぷにぷにしていた。




 帰り道、なんだか落ち着かなくて佐々木に電話しようかと思った。だが自分の気持ちがイマイチ整理できていなくて、このまま電話したら余計なことを口走ってしまいそうだったので止めておくことにした。


 と、思ったらスマホが震え始めた。佐々木から着信。少し躊躇したが応答することにした。


 佐々木の少しテンションの高そうな声が耳に響いた。


「よう、昨日荻野目がやたら青春していたから、野次馬根性で電話をかけてしまったぞ。どうしてくれる」


「好きにしてくれ」


「じゃあ俺は明日バイトだから月曜は尋問だな」


「ああ」


「どうした荻野目、俺が珍しくテンションというものを上げてみているのに、お前は井戸の底のような声色じゃないか」


「佐々木、俺頑張るよ」


 何を頑張るかは自分でもよくわからないがとりあえず佐々木に宣言して自分を奮い立たせることにした。佐々木はいつも通りの声に戻り「そうか」と相槌を打ち、続けた。


「俺は、荻野目のそういうところが実は結構気に入っているんだ。俺の心配は杞憂だったな」


「なんだその謎だらけの台詞は」


「いや、いいんだ。独り言だと思ってくれ。安心したし俺は晩飯を食う」


「ああ」


 電話を切った。


 明日は日曜日。久しぶりに佐々木のバイト先にでも顔を出してみようかと思った。

 雪もいよいよ姿を消した四月も後半の週末。確かに俺は青春をしている。

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