俺は今とても動揺している。
佐野先生が何を思って馬渕にこんな試練を与えているのかはよくわからない。だがあの様子だと相当馬渕に期待しているような気がする。それにしても言うことがいちいち突飛過ぎるんだよなぁあの先生は。
そう思いつつ美術準備室を出て美術室に入ると、昨日一昨日と寸分違わぬ真剣な表情でデッサンをする馬渕の姿があった。今日描いて貰っている対象はコーラの瓶だ。濃い色の中での表現やボトルのくびれのフォルムを左右対称に仕上げるのが意外と難しい。
馬渕に作品展の話を切り出すのはデッサンが終わってからにしようと思うのだが、そうなると話していた分時間が中途半端で、今度は俺が手持ち無沙汰だ。仕方ないのでスケッチブックを取り出し馬渕の真剣な表情をスケッチしてみることにした。人物スケッチはあまりやらないので良い勉強になりそうだ。
時間もそんなに無いしバストアップで描こう。適当にこんなもんかとアタリを取り、ざざっと描いては消し、描いては消し、徐々にスケブの中の横顔を馬渕に近付けていく。描く量と消す量は同じくらい、もしくは消す量の方が多いくらい、デッサンやスケッチは修正が大事になってくる。そういえばそんな話は馬渕にしていないけれど大丈夫だろうか。先日のデッサンの出来を見る限り大丈夫な感じがするが。
俺は馬渕に何も教えていない気がする。任されたからにはちゃんと教えて馬渕が絵を描くことを好きになってもらいたいと思うのだが。今度改めて色々教える機会を作ったほうが良いだろうか。
そんなことを考えながら馬渕の横顔を観察し、スケブに落とし込んでいく。低い鼻、小さい口、ぱっちりと形の整った二つの丸い瞳。馬渕って何気なく見ていると小ささが勝って中学生みたいな印象しか受けないが、顔をまじまじ見ると普通に可愛い年相応の女の子なんだな。って俺は何を考えているんだ。
顔の造形をだいたい決め、ぼんやりとしている頭髪に移る。こめかみのあたりにある髪飾りに目が行く。花にリボンがついていて、リボンがゆらゆらしている様はまさに女の子という感じだ。こういう可愛らしいアクセサリーは一体どこで仕入れるんだろう。女の子は謎だらけだ。俺とは無縁そうな、キラキラした感じの店にあるのだろう。
大体の配置が済んだら、全体的に描き込みを進めていく。肌の質感、瞳の光彩……うん、誰がどう見ても馬渕とわかるレベルになってきた。
デッサン中、馬渕の表情は真剣そのもの故なのか案外動くことがわかった。
閃いたようにぱっと目を見開いたり、何かに躓いたのか口をへの字にして悩み始めたり。スケッチの対象としては少し動きすぎなのは否めないが、概ね多い真顔を描いてみている。
下校時刻が近付いてきた六時二十分、馬渕のスケッチが完成した俺は話もあるし早めに中断するよう馬渕に声を掛けることにした。
近付いてもまったく気付かない馬渕の肩をちょんちょんとつつくと、「はひっ」っと間の抜けた声が上がった。
「荻野目先輩、いたんですか!?」
「相変わらず集中レベル高いな」
すぐに俺の腕の中にあるスケブに気付いた馬渕。
「荻野目先輩もコーラ描いてたんですか?」
「違うよ」
出来上がった馬渕のスケッチをほいっと開いて見せると、馬渕の頬が紅潮していった。
「ななな、な」
「人物スケッチの勉強になったよ、ありがとな」
「ひゃー、ひゃー。うまいー恥ずかしい、ひゃーうまいー」
「照れるぜ」
「照れるのはこっちですよ……」
雑談はこの辺にして片付けを促し、俺達は片付けて美術室を出た。今日は部長がいないから俺が教務室に鍵を返しに行かなければいけない。馬渕に話がある旨を伝えて、一緒に教務室へ向かった。
鍵を返し、例によって駅までの道のりを一緒に帰ることに。
「先輩、話ってなんですか?」
「単刀直入に言うと、馬渕も作品展に出品することになった」
馬渕は目を見開いて口をぱくぱくさせていた。俺は続ける。
「そもそも俺ごときにあの先生の決定を退けることなんて出来る筈無かったんだ……」
「私はどうすれば……」
「俺は油彩しか教えられない。幸い今は日本画が部長、立体が凛子、油彩が俺ってそれぞれ分野が違うメンツが揃ってるから馬渕は自分の興味ある分野を選んでその人にいろはを教わってみればいいと思う」
「油彩って油絵ですよね? どんな風に作品を描くのか見てみたいんですけど」
「うーん、作品の写真は無いんだよな。家に来れば実物見せられるけど、今度写真……」
「行ってもいいですか?」
馬渕がまっすぐな瞳を向けて俺にそんなことを言い放った。
「は?」
「今日金曜ですよね? 家門限緩いんでお邪魔じゃなかったら行ってもいいですか?」
「どこに?」
「荻野目先輩の家です」
表情ひとつ変えずまっすぐな瞳。
馬渕が……一気にわからなくなってきたぞ……。
いや、あまりうろたえていると俺の方が妙なのではないか? そう思い始めてしまうととても馬渕の純粋な向上心(?)を無碍にできない気もする。写真じゃその作品の真の魅力というか、リアルな臨場感も伝わらないかも知れないし。俺の作品にそういったものがあれば、の話だけれど。
しかし今日これからというのは少々急すぎる。俺だって心の準備も部屋の片付けもできていない。どういった心の準備が必要なのかは定かではないが。馬渕は気分が盛り上がると猪突猛進するタイプなのかも。俺がブレーキをかけなければ。
「んー、悪いが今日突然というのは少し急すぎるかな。明日は休日だし明日で大丈夫だったら明日にしてもらえないか?」
馬渕は嬉しそうに「はいっ!」と何度も頷いて「よろしくお願いします!」と握手を求めてきた。何の握手かイマイチわからないが握手に応じると、馬渕の手が小さくてぷにぷにということはわかった。
俺の家の最寄り駅を教え、明日の午後駅で待ち合わせて家まで案内する運びになった。
駅で馬渕と別れ電車に揺られて地元に着いた。家に着くまで十分弱、歩きながらスマホをいじり佐々木に電話をかけてみた。
「どうした荻野目、珍しいじゃないか」
「佐々木、聞いてくれないか。俺は今とても動揺している」
そう切り出し、先程あった馬渕との話の流れを説明した。佐々木は一通り「ほう」「ふむ」と相槌を打ちながら聞いてくれた。
「……というわけなんだ。凛子ですら男である俺の部屋は中学以降出入りしないんだ。いい後輩だとは思うんだが俺は正直馬渕が何を考えているのかわからなくなってしまって」
「荻野目はそれで期待と不安が入り混じっている、というわけか」
期待と不安……そうかも知れない。
「ああ、そうだな。ひょっとして俺に気があるんじゃないかとか、ありえない事も考えたりするし、そういう風に馬渕のことを邪に考える自分も嫌だし、ただ作品を見せるだけだと自分に言い聞かせてる自分もいたりして、今頭の中が大変なことになってる。佐々木はどうしたらいいと思う?」
「残念ながら俺にはそういった経験は皆無だからな、なんと言ったら良いものか……結局は荻野目がその馬渕という女子とどうなりたいかじゃないか? 二人きりで会うのが気まずいなら俺なり近藤なり召集するのもありだし、二人でゆっくり話したいならそれでも構わない。荻野目は自由なんだ。俺なんかより自分の胸に聞くのが適しているんじゃないか?」
「なるほどな。もう少し考えてみるよ。なんだか超個人的な話題で相談してしまってすまなかった。少し落ち着いたよ」
「いいんだ。荻野目はもう少し俺に頼ってもいいんだぜ」
「ありがとう佐々木」
俺達は「おやすみ」と言い合って電話を切った。
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