今日は月が綺麗だ。

「作品展の締め切りまでは二週間くらいだね」


 佐野先生がいなくなるや、部長が爽やかスマイルを浮かべながらそう言った。


「進と近藤はテーマは決まってるの?」


 そう問われると、凛子は胸を張った。わりかし大きな胸が強調される。


「内緒です!」


「近藤は今年もそのパターンかぁ。進は?」


「じゃあ俺も内緒で」


「じゃあってなんだよ」二人からそんなツッコミを受けながら俺は思案した。


「これはまだ決まってないパターンだな?」


 凛子には既に読まれていた。と、その時。


「ほああああ……!」


 突如美術室に気の抜ける絶叫が響いた。声のした方を見ると、馬渕が涙目で鉛筆を固く握り締め固まっていた。俺たちはすぐさま馬渕のもとへ駆け寄った。


「まこりんどうしたの?」


 凛子がそう声をかけると、馬渕は涙目のまま、


「全然ダメです」


 と肩を落とした。全然ダメとは恐らくデッサンのことなんだろう。そう思って俺は馬渕のデッサンを覗き込んでみたが、もう完成と言っていいほど描き込みが進んでいて、形に少々崩れはあるものの勢一杯表現しようという意思が伝わってくるし、別段おかしなところは見当たらなかった。いや、これはむしろ……


「初めての割に妥協がなくてすごく丁寧だと思うけどな」


 そんな言葉が口をついて出た。馬渕が目を丸くする。


「せ、世辞はいらねぇです! わ、私は……!」


 なんだか納得いっていないようだ。しかし俺はそんな馬渕に納得がいかない。


「俺は絵の事に関して世辞を言うような奴じゃないよ。そういう自分を卑下する為に他人の正当な評価まで無碍にするのは自分の成長を止めるだけだからやめた方がいい」


「えっあの、あの……」


 しまった、つい熱くなってしまった。涙目のまま戸惑い始める馬渕を見て我に返る。


「と、とにかくこの絵はいい絵だよ。なんなら、俺の初めてのデッサンを見せて比較してもらってもいい」


「そ、そんな、比べるなんてとんでもないです! 誰の方がいいとか、そういう議論をするのはなんだか少し違う気がするので……」


 なるほど。なんだか馬渕の気が弱くて優しい人柄が見えた気がした。


「まぁ形の崩れこそあるものの概ね進の言うとおりだよ。馬渕さんだっけ? 君はもっと自信を持ってこの絵を褒めてあげなよ」


 部長がそう言いながら爽やかスマイルを馬渕に向けた。正直俺が女ならちょっとくらっと来てるかもしれない。ところが俺の浅はかな考えは露知らず、馬渕はそんな素振りも見せずに自分のデッサンと向き合った。


「私にもできることがあるんでしょうか」


 そしてそんなことを呟いた。俺に『何も無い』と言ったその時と同じ表情で。


「現にこうして一枚のデッサンを完成させたじゃんか。一歩前進だよ」


 凛子が馬渕の頭を撫でた。その凛子の言葉に馬渕は目をうるうるさせていた。子犬みたいだな……そうか馬渕は子犬に似ているのか。この父性に似た気持ちは保護欲だったのかも知れない。それは今はどうでもいいか。


「そうだ」


 部長が突然手を叩きながら思い出したように声を上げた。


「馬渕さんが一枚完成させた記念……といってはちょっとアレだけど、例のアレをしようか」


 例のアレか、果物デッサン恒例のアレだ。


「やったー! 私ずっと美味しそうだと思って見てたんですよね」


 凛子が小躍りし始めた。この変な踊りもある意味恒例だ。


「荻野目先輩、例のアレとは……」


「ああ、簡単なことだよ。馬渕、準備するから一緒に準備室来て」


「は、はい」


 馬渕と美術準備室に入ると、俺は棚から果物ナイフを取り出した。


「荻野目先輩! な、何を」


「だってこれがないと切れないだろ?」


「切る?」


 馬渕がいきなり果物ナイフを手に取った俺に怯え始めたので、少しからかってみることにした。


「ほら、小分けにしないと後々面倒だし」


「小分け!」


「それに、皮ごといっちゃうより剥きたいだろ?」


「剥く!」


 馬渕が唇を震わせながら「お母さん……」と言い始めたので思わず吹き出してしまった。


「なんですか!」


「いやさ、食べるんだよ」


「私を!?」


「じゃなくて、今デッサンした果物」


 馬渕の目が点になった。そしてよろけながら壁に手をついた。


「……はぁぁ~とんでもないところに来てしまったと恐れて損しました」


「損させたか? それは悪かった」


「い、いえ……荻野目先輩って結構怖いんだなってわかりました……」


「馬渕、そこのちっさい冷蔵庫からお茶出して」


「あっはい……って美術部に冷蔵庫があるんですか?」


 俺の指差した先を視線で追って冷蔵庫を見つけた馬渕は、心底不思議そうな顔をした。


「ああ、果物を描くとき、大抵一日じゃ終わらないから保存用にあるんだ。佐野先生が自腹で買ってきたやつだから若干私物が混じってるけど気にしないでな」


 気の抜けた返事を聞きながら、俺は先程の熱くなってしまった自分を思い出した。


「馬渕、さっきはごめんな」


「何がですか?」


「ちょっとキツいことを言ったかなと思って」


「あっいや、気にしないでください! 荻野目先輩はとても正しいことを言っていたと思いますし、私が自分を卑下し過ぎなのはよく言われることでもあるので」


「まだなかなか直らないのですが……」と続けながら浮かんだ苦笑いを見て、俺は先程から感じていた疑問を投げかけてみることにした。


「なあ、馬渕はどうしてそんなに」


「遅い!」


 凛子、襲来。まあ、この話はまた後で気になったら聞いてみればいいかな。




 林檎を切り分け、「私のが少ないぞ」と文句を言い始めた凛子と揉めながら葡萄の房を小分けにし、各々に配ると小さな果物茶会が始まった。


「それじゃ、いただきます」


 部長の一声で皆果物に手を伸ばした。


「むぉ、この葡萄種が無いんだ。うまー」


 凛子が食べたかったと豪語していた葡萄を頬張って至福の笑みを浮かべている。俺も葡萄を口にしてみる。確かに種が無くて口いっぱいに葡萄の旨味が広がる。ジュージーだ。


「もう春だっていうのに林檎も蜜が入ってて美味しいね」


 部長も林檎に舌鼓を打ち顔を綻ばせた。美味しいものは人を笑顔にする。

 それにしても毎度疑問に思うのだが。


「毎回ここで食べる果物ってめちゃくちゃ美味いですけど、佐野先生ってどこでこんな美味いもの仕入れて来るんですかね?」


 沈黙。馬渕はともかく、部員の誰一人佐野先生の行動は読めないようだった。

 沈黙を作ってしまったからというわけでもないが、気分を変えて馬渕に話を振ってみた。


「馬渕は一枚描いてみてどうだった?」


 馬渕は林檎を口に入れたばかりだったようで、「ひょっほわっへふわはう」と言い(多分ちょっと待ってください)、飲み込んでお茶を口にしてから話し始めた。


「久しぶりに、何年ぶりだろうってくらい真剣になりました!」


「ああ、真剣だなっていうのはすごい伝わってきた」


「まこりん下校のチャイムにも気付かないもんね」


「お恥ずかしい限りです」


「恥ずかしいことない。集中力があるのは絶対強みだよ。それに……」


「前々から思ってたんだけどさ」


 部長が突然口を挟んできた。


「進と佐野先生って似てるよね?」


 それを聞くと凛子が吹き出した。


「それ私も思ってました! 正確には似てる気がするなぁって感じだったんですけど、まこりんが来てから確信に変わりました」


「は!? どこがだよ」


 部長と凛子は顔を合わせてにやにやしている。


「いや、そりゃ、ねぇ?」


「勿論ね?」


「こんなこと言うとひねくれた進は怒るけど」と部長が前置きすると、二人は口を揃えて、


「美術バカなところ?」


と言い放った。俺は複雑な羞恥心に包まれ言葉に詰まる。


「照れてる進も可愛いよ」


「部長にそれ言われると非常に背筋に寒気が走るんですけど」


「じゃあ近藤なら良いの?」


「もっと駄目ですね……」


「おいコラどういうことだコラ」


「察してくれよ凛子、やめて笑顔でつねらないで」


 手の甲が地味に痛い。


 そんなやり取りをしていると、馬渕が「ふふふ」と笑みをこぼした。


「仲良いんですねとか月並みなこと言うなよ馬渕」


「荻野目先輩に読まれてる!」


「まぁ私達が仲良しなのは今に始まったことじゃないしね!」


 凛子は不敵な笑みを浮かべて続けた。


「これからまこりんも加わるし?」


「えっ」


 馬渕が手に持っていた葡萄をぽろりと皿に落とした。


「私加わっていいんですかとか月並みなこと言うなよ馬渕」


「あぁ荻野目先輩喋りづらいです!」


「だって加わって駄目なわけないだろ? 空気を読め」


 馬渕が拾った葡萄を再び皿に落とした。わかりやすい。


「と、格好つけながらも耳まで真っ赤な純情進君なのであった」


「部長変な解説入れないでくださいよ!」


「部長今日フルスロットルですね! いいぞーもっとやれー」


 と、凛子が両手を挙げて部長を応援し始めた。するとそれに便乗して馬渕が、


「荻野目先輩はいじられキャラなんですね!」


 とか抜かしたもんだから、俺は努めてにこやかな表情で怖がらせないように、


「馬渕後で屋上な」


 少々灸を据えてやった。つもりだったが。


「進さ、後輩に手出すの早すぎじゃない? 屋上で告白とかベタすぎだし」


「あぁもう部長! 今のでなんでそっちに転がるんですか!」


 やっぱり部長には敵わない。


「やだー男子ったら不潔ぅ。まこりんはあんな風になっちゃ駄目だよ?」


「は、はい! 近藤先輩みたいな立派なレディを目指します!」


「いい子いい子」


 そうして久しぶりの果物茶会は下校時刻まで続いた。なんだかんだ馬渕も馴染めたような感じがするし良かったかな?


 例によって部長は鍵を教務室に返却に行き、俺達は三人で昇降口を目指す……が。


「あ、ごめん体操着忘れて来た、先行ってて!」


 凛子がそう言って踵を返し走り出してしまったので、馬渕と一緒に昇降口へ。


 俺と凛子が上り、馬渕が下りで違いはあれど馬渕も俺と凛子と同じ電車通学のようで、駅までの道のりも一緒だ。


 少し待ってみたが凛子は一向に姿を見せないので、電車に間に合うように俺達は春の夜空の下歩き出した。


 昨日の今日なので月は少し欠けた程度だ。相変わらず美しい反射光を俺たちの元まで届けていた。そんな月を見上げ、俺は昨日の馬渕を思い出した。


「馬渕」


「ほぁい」とも「ふぁい」とも取れる気の抜けた返事を聞き、俺は続けた。


「美術部、やっていけそうか?」


「んんー、大丈夫だと思います。絵を真剣に描いて、それが形になって……下手くそですけど、とても楽しいなって思えたので」


「そりゃ良かった」


「それに、仲間になりたいって思えたので」


 馬渕は昨日からで一番の笑顔を見せた。それは俺の知らない馬渕だった。そういえば俺はこの女の子と知り合ってまだ二日しか経っていないのか。凛子の後押しがあってか、今日の茶会があったお陰か、なんだか馬渕の存在は既に俺の中で吃驚するほど馴染んでいた。


「馬渕って、いっつもそうなのか?」


「そうとは?」


「話しやすいって言われない?」


 顎に指先を当てて「んー」と考えるポーズ。


「かしこまりすぎってよく言われます。それだったら、荻野目先輩も話しやすいって言われませんか?」


「いやまったく」


 佐々木、凛子、その他時々話す数人……友人の少なさがそれを物語っている。それは『友人は数』だとは思わないからというのもあるかも知れないが、しかし話しやすいと言われた記憶は馬渕に言った通りまったく無い。


「そうですか、私は荻野目先輩って話しやすいなって最初から思っていました」


「美術部で最初に話したのが俺だからじゃないか?」


「そうなんですかね? んー」


 馬渕は少し考える仕草をしたが、すぐに「まぁいっか」と言い天を指差した。


「昨日が満月だったんですね、でも今日も月が綺麗です」


「そうだな」


 俺達は月を見上げた。

 馬渕は面白い。この後輩と成長していけたら、そう思った。

 やがてダッシュで来た凛子と合流し帰路についた。


 今日は月が綺麗だ。

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