第5話 中央塔でのお仕事
僕が目覚めたのがいつかは分からない。周囲が静かなので、おそらく鐘がなる前だろうと目星を付ける。窓がない部屋なので、明るさは寝る前と変わらない。昨日、部屋の窓から見た綺麗な空と白い壁の美しさが不意に心に蘇った。
昨日、導師様に呼ばれた後、急な進級があったため、未だに状況は把握できていない。身支度をして待つように指示があったが、個人部屋で世話役の姿も見えないため、何からすれば良いのか少し戸惑う。
ベッドから起き上がり、部屋の中を見渡すと扉の下から小さな紙が覗いていることに気がついた。拾い上げると細い綺麗な字で
ーまずは、水瓶で顔を洗い、手足を清め、テーブルにある衣を纏いなさい。
と書かれている。小さい部屋だが、隅に水瓶が置かれ、水場になっている。個人部屋なので、僕専用と考えて良いだろう。以前は共用の水場まで世話役に連れて行かれていたので、少し偉くなった気がする。
左で柄杓を持ち、少しだけ水をすくって右手にかけた。水瓶の水は冷たく、指先に震えが走る。覚悟を決め、両手と顔を洗い、置いてあった布で足を拭う。
昨日の夜は気づかなかったが、小さなテーブルの上に、フードがついた黒いローブが畳まれることなく置かれていた。腕をだす部分がない頭からすっぽりかぶるような大きめのローブだ。指示通り、服の上からローブを被り、髪を整える。
身支度が整ったので、扉を開け、廊下に出るが人影はない。世話役の姿もないし、昨日の黒線の世話役もいないようだ。
確か、身支度を整えたら廊下で待つように言われていた。ドアの横に立つと、昨日の夜の出来事を頭の中で振り返る。
導師様に褒められたことは覚えているが、言葉があやふやだ。昨日のことなのに、思い出せないことに軽く驚く。黒線の世話役との会話もはっきりしない。彼は誰で、これからどうなるのだろうと不安になった僕は、すぐ隣に人が来たことに全く気づかなかった。
「おはよう。礼の姿勢はどうした?」
昨日の夜、部屋まで案内してくれた黒線の世話役が渋い顔で立っていた。鐘の音は聞こえなかった。慌てて姿勢を正し、腰を落とす。
「おはようございます。申し訳ありません、考え事を。」
別に怒っていたわけではないのだろう。気をつけるように、と小さく言うと、ついて来るように促された。飾り気のない黒い壁の廊下を進むと、何度か曲がった先に、ひときわ大きなアーチ状の壁飾りが見えた。導師様の部屋と同じようにそこだけ金色の細工がされている。アーチは世話役の身長の約2倍の高さがあり、幅は僕の身長くらいだった。飾りの上部には女神のような美しい女性の像があり、上に向かって手を伸ばしている。
黒線の世話役がアーチに手をかざすと、アーチの内側の壁が溶けるように消えた。驚く僕を置いて、すっと部屋の中に進んでいく。置いて行かれる恐怖がよぎり、慌てて後を追った。同じような廊下を進んだ先、曲がり角の向こうには大きな空間が広がっていた。入り口で思わず立ち尽くす。こんな広い空間に出たのはこれが初めてだった。
太いものから細いものまで、様々な透明な管が天井に這っている。壁は一面黒く塗られ、全く光を反射しない。管の先端は天井の中央に空いた穴からまとめて部屋の外に突き抜けているようだ。もう一方の反対側は、部屋の壁に開けられた窪みの上部にある溝と繋がっている。部屋の両側の壁には同じような窪みが複数あり、それぞれに自分と同じような黒い服を着た者がうずくまっているのが見えた。ローブのフードに隠れて、それぞれの表情は見えないが、時々身体全体がピクッと動く。意識がないのかもしれない。
入り口で立ち止まって、部屋の様子を眺めていた僕を黒線の世話役が呼んだ。
「98番。仕事だ。」
ここで仕事をするのか。なんだか不思議な気分だった。16歳になったら仕事をすると幼い時に世話役から聞かされていたが、どんな仕事なのかは知らなかった。ぼんやりと世話役たちのように年少の子供達を世話すると考えていたのだが、違ったようだ。
導師様が、僕は年齢が足りないと仰ったのはこの仕事のことだろうか。窪みにうずくまる者たちはいずれも僕より少し大きく見えた。
返事が返ってこないことに苛立ったのか、黒線の世話役が壁を指で叩く。思ったより高い音が部屋に響いた。
「本当は16歳になってからの仕事だが、適性があると導師様が判断した。だから、ここで働かなくてはならない。以上だ。」
確かに導師様が昨夜そう言った。僕は無意識に礼の姿勢をとる。
「かしこまりました。」
先程までの不安や疑問は、いつの間にか小さくなり、導師様のご命令なのだからと納得する。ふと鼻の奥に導師様の部屋で焚かれる香の甘い匂いを感じた。
黒線の世話役が頷きながら、空いている1つの窪みを指した。
「ここに立ちなさい。壁に背をつけて。」
言われるがまま、窪みに立ち、姿勢を正した瞬間、ふっと意識が遠のいた。四隅から黒い靄が立ち込めるかのように、視界が急速に狭まる。
「体の力を抜いて楽にするように。」
黒線の世話役は、くるりと踵を返して去っていた。僕はもはや動けない。周りを見回すこともできないまま、どさっと床にうずくまり、壁の窪みに埋もれるようになる。
僕はそこで意識を完全に手放した。
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