四人の新人 3
糸数さんは会議室の白い壁にスライドが映し出されたことを確認して、
「改めまして、私は銘里記念病院薬剤部の薬剤師、糸数岬といいます。普段は銘里記念病院に週五日で勤務してますが、週に一日は市内の薬局でパートとして働いています」
簡単な自己紹介の後に、銘里記念病院の立地や病床数といった情報が次々と画面に映し出されていく。まだ導入の段階であるせいか、ペースは速い。
週一の薬局でのパート勤務――この一言でようやく疑問が氷解した。病院と薬局の両方で勤務経験があるのならば、この人が講師なのも納得がいく。しかし、週六日も仕事をしているとは、かなりのハードワークだ。
「皆さんもすでに知っているとは思いますが、沖縄県内には薬学部を設置している大学がなく、県の全域で薬剤師の十分な確保ができていない状況が続いています。皆さんも県外での長い大学生活を終えて資格を取り、今ここにいることかと思います」
研修が始まる前に恵ちゃんの「どこから戻ってきた?」という言葉は、こういった県内の事情があってのことだ。
「銘里市もその例外ではなく、多くの医療機関が人員確保に苦労しています。皆さんは五年ぶりに銘里市に赴任する新人の薬剤師ということで、地域からの期待は皆さんが思っている以上に高いと思います。今日、薬局の垣根を超えた合同研修会が開かれたのもその期待のあらわれ、ということです。プレッシャーがあるとは思いますが、ぜひとも地域の医療に貢献できる薬剤師に成長して下さい」
その後の研修内容はある程度は予想できていたものだったが、法律を根拠にした薬剤師の業務内容で最低限は知っておかなければならない事柄や、現代の薬剤師に求められる能力といったトピックを中心に進められた。学生時代にすでに学んだ事も含まれていたので、まだ知らなかった話を資料にメモしていく。私の周囲からも時折、ペンを走らせる音がした。
銘里市内にある病院や薬局などの医療機関を紹介したところでスライドは終わった。糸数さんは会議室の照明をつけ、
「以上ですが、ここまでで何か質問はありますか?」
「糸数さんが薬局でも勤務されているのは、市内の薬剤師が少ないから、でしょうか?」
手を上げて訊ねたのは上原さんだ。
「その通りです。病院で働いていても、あちこちの薬局で人手が足りていないという話は耳に入ってきていたので、地域の人達の役に立てればと思い、今はそうしています」
嬉しかったのか、糸数さんはうっすらと笑みを浮かべた。積極的に地域医療のために献身をしているなんて、とても意識が高い人だ。あと、そういった質問ができる上原さんもだ。
「では、私からの説明はこれで終わりですが、今日最後のプログラムとして、皆さんにスモールグループディスカッションを用意してあります」
私達の手持ちの資料の表紙には、『本日の研修内容』の一番下に『SGD(スモールグループディスカッション)』の文字が書かれているのだ。だが、肝心の内容については資料に一切書かれていない。SGDは就活をしていた一年前に、大学の就職課が主導して行った模擬のものに参加した時以来だ。きちんとした形にまとめることができるだろうか――不安が募っていた。
「これが課題です、始めてください」
糸数さんは一枚の紙を手渡した。机を寄せて集まった私達はその紙を覗き込む。
『薬局の投薬業務の際に、あなたは患者さんから、現在の自分の知識では答えられないものの、何らかの方法で調査をすれば回答できるような質問をされました。この時にあなたが取るべきと考えている行動について、グループの皆さんと意見交換をして下さい』
「……何? これ」
と、私はつい口走ってしまった。シチュエーションがふわっとしていて具体性に乏しい。はっきりと言葉で表すことはできなかったが、この課題は白か黒かという結論付けができるようなものではなく、薬剤師――いや、社会人たるもの、唯一無二の正解がない課題に挑むべし、というメッセージでもあるのかもしれないと直感した。
「取るべき行動……?」
恵ちゃんが呟くと、
「うーん、何かモヤっとしてるけど、とりあえず考えてみなきゃ始まんないっしょ。とりあえずこのシチュエーションでやることはまず『患者さんからの質問の答え』を調べなきゃだよね。質問の答えが『わからない』んだからさ」
シロが文章のその箇所を指さして言った。
そう、面食らっている場合ではない。課題の中で要求されていることを一つずつ考えていかなければ。
私は、
「使わなきゃいけないモノは辞書とか、インターネットとか……あとは先輩や上司に相談する、かな?」
「それだけじゃない。何を使って調べるかということだけじゃなくて、『とるべき行動』だから、患者さんへの対応をどうするか、ということも考えなきゃいけない」
そう言ったのは上原さんだ。
「ん? 調べる仕事のどのあたりに、患者さん対応を気にしなきゃいけないポイントがあるのさ?」
恵ちゃんの発言に、上原さんはさらに続けて、
「瑞慶覧さん、その調べ物はどこでやることを考えてる?」
「私らがいる調剤室にパソコンとか、薬の辞典とか置いてあるでしょ? ほとんどの薬局は常備してるだろうし、うちの薬局にもある。それを使えばいい」
「――ちょっと待って。私、大学五年の時の薬局実習で『調べ物をするときは患者さんの見えないところでしなさい』って言われてた。今私が働いてる薬局もそう」
「へ?」
恵ちゃんは虚を突かれたようだった。
「薬剤師が座る席には薬歴のパソコンはあるけど、辞書類を置くのは薬局のルールとして禁止されてる。目の前でそういうものを使って調べることで、この薬剤師は知識が足りてないんじゃないか? と患者さんを不安がらせてしまう、って理由でね」
「そうかな? わからないことは患者さんの目の前できちんと調べた上で答えなきゃむしろ不安にさせるんじゃない?」
「『本を見て答えるなら、そんなことは俺でも私でもできる。だから薬剤師なんていらない。薬の袋詰めで高いカネ取りやがって!』ってやつね。摩耶っちのやつはそういう薬剤師のバッシング避けっていうのもあるかもね」
二人の議論にシロが入る。
「そうか」
恵ちゃんは小さくうなずく。シロはさらに、
「出来るなら逆にその患者さんに訊いてみたいよ。あなたは国語辞典くらい分厚い薬の本を一字一句完璧に覚えてられるんですか? ってさぁ。それに丸暗記したとしても、同じ薬が出ても患者さんごとに状況は違うから、話すことは患者さんごとに変えていかなきゃならないし。本だけで薬の飲み方が全部わかると思ったら大間違いだっつーの!」
「――でも」
と私。今まで議論の蚊帳の外だったが、ようやく入ることができた。
「でも、そういう風なとらえ方をしている患者さんばかりじゃない。そこまでわかってもらえる患者さんはほとんどいないんじゃないかな?」
「なるほど。言われてみると、私、そういうことにまで意識が向いてなかったかもしれないなー」
シロが言うと、
「――そこまで」
糸数さんが止めに入った。
「色々と意見は出せたと思いますが、私が見る限りは良い議論の時間になっていたと思います。自分でわからないことを調べるのに、患者さんの目の前でするか、見えないところに移動してするか、という問題ですが、結局のところ、職場しだいで『こうすべきだ』という方針は違ってきますので、職場のルールに従って仕事をしてもらうしかありません。ですが、今回意見を交換することで、こういう考え方もあるのか、ということがわかってもらえたと思います。仕事での問題を解決するときに自分ができる行動は、自分がすでに知っているやり方の他にも色々と存在する――それを頭に入れて、今後も頑張ってください」
「糸数さんはこの課題の『取るべき行動』については、どうお考えですか」
上原さんが訊くと、
「私は裏手で調べることにしています。これは私だけでなく、後輩にも徹底させています。理由は今のディスカッションで出たようなこととほぼ同じですね。では、今日はこれで終了です。長時間の研修、お疲れさまでした」
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