第2話 爬虫類 (小編)

第2話 爬虫類 (小編)

遅番を終えた夕刻の時間帯でも、春の沖縄の空はまた十分に日が高い。私はそんな空の下を歩いて家路につく日常を送っている。

 自宅のアパートに戻り玄関の鍵をかけると、湿気を帯びたじっとりとした熱気が私の全身を包み込んだ。


「暑い」


 まだ春だというのにここまで暑いのはさすが沖縄というべきか。まあ、最近は関東だってこの時期は暑い日が多くなったので春がなくなってしまったと言われ続けているのだけれども。天気予報では、今日はこの時期には珍しいほど気温が高い日になるということだったので、一過性の暑さなのだろう。

 だが、湿気のほうはどうにもならないだろう。私の住むアパートは歩いて海に行けてしまうくらいのところに建っているので、外に出ても海風のせいで湿度は常に高いのだ。

 バッグをリビングの床に置き、冷蔵庫のミネラルウォーターを一口飲んだところで、この住まいに引っ越しをして以来、持ってきた洋服の整理をろくにしていないことを思い出す。


「夏が来る前に、少しクローゼットを整理しなきゃな……」


 これから仕事が忙しくなれば、季節の変わり目を迎えた時に服を探すのがおっくうになってくる。今のうちに服を片付けておこうとクローゼットを開ける。

 すると、その床で小さな何かが動いて服の置の壁に隠れた。


「ゴキブリ……かな?」


 私は思い切って服がかかったハンガーを横にスライドさせて壁をあらわにした。そこには、ゴキブリより一回り細長い何かがぬるりと壁を登って行った。私は目でそれを追う。

 長い尻尾に指先がはっきりと飛び出た手足。

 ――トカゲ?


「ひいっ!」


 全くの想定外だった生物が部屋の中に現れたことで思わず後ろに飛びのいて、強く尻餅をついてしまった。ゴキブリが出てきていればまだ心の準備ができていたというのに。

「――へー、爬虫類ときたか。どこから入ってきたんだ? こんなの。ってか、これ本当にトカゲ? なんか違うような……」


「イモリ……それともヤモリ、でしょうか? 依吹も知らないようですが」


 私の前で、二人の少女が壁にへばりついて静止したトカゲらしきものを身を乗り出してまじまじと見つめている。

 彼女達は私の頭の中にだけ存在する『友達』だ。

 幼いころに私が薬剤師を目指すきっかけとなった『あの人』にもらった子ども向けの『生薬図鑑』――それに載っていたキャラクターが彼女達だ。現代の言葉で表すのなら、この少女達は生薬の『擬人化』だ。

 夢見がちだった小さな私がその図鑑を開いた時から、この子達はずっと私の中に生きたイマジナリーフレンドとして居座り続けている。

 やや口の悪い方は『桂皮』。明るいピンクの髪にシックな色調のヒラヒラな衣装を纏っている。

 もう一人は『釣藤鈎』。すらっとした出で立ちに、艶のあるロングヘアが落ち着いた雰囲気を醸し出している大人女子だ。

 この子達が現れるということは、今の私にはこの状況を俯瞰できる冷静さがまだ少しは残っているようだ。


「で、あんた、これ、どうすんの?」


 大して興味がなさそうに桂皮が言った。


「うちの外に出すに決まってるでしょ! 寝てるときあれが顔に這ってきたら怖すぎて寝られない!」


 桂皮は悪戯じみた笑みを浮かべ、


「そんなことをするより叩き潰せばいいんじゃない?」


「嫌ぁ! ゴキブリよりヤバい絵面になるでしょ!」


「では、どうやって外まで誘導しましょうか? どうやら動きは相当速いようでしたが……」


「とりあえず、紙!」


 釣藤鈎の言葉を聞き終わる前に、私は郵便受けに入っていたチラシを貯めこんでいた袋の中から適当に紙の束を掴み、トカゲを掃いて追い出そうとしたが、トカゲはすぐさま紙を避けて、クローゼットの壁に張り付いたままぴたりと止まった。


「は、速い……」


「元気がいいですねー。そのトカゲさん」


 露出の少ないネグリジェを着こんだ別の少女がフローリングに正座をしながらのんきに傍観している。彼女は『芍薬』。立てば芍薬座れば牡丹云々、という諺がある。これは美人を花に例えた言葉という意味の他に、それぞれの植物の生薬としての利用方法を示したという説もある。芍薬の場合は、立ちあがるほどカッカしている人への鎮静の効果があるために漢方へ用いられている。芍薬を擬人化したものとしては、大体的を射ているキャラ付けだ。


「依吹ちゃん。ここは先人の知恵に頼りましょう」


 さらにもう一人、子供のような小柄な『麦門冬』が私の服を軽く引っ張って声をかけた。麦門冬の元々の植物であるジャノヒゲの濃紺の種子や小ぶりの花を模したファッションが目を引くのだが、麦門冬が生薬として利用されるのはジャノヒゲの根が肥大した部分なので、種子や花は麦門冬の薬効とは全く関係がない。あの図鑑は子供にも理解しやすくするために花や実などの目立つ要素を抜き出してこの子をデザインしたのだろう。


「回りくどいこと言ってないで、それって何? 教えて!」


 私の脳内にしか存在しない彼女達を相手にそんなことを言っている私も十分回りくどい変な女だ。傍から見ればただの独り言で喚いているだけなのだから。


「スマホで調べるのです。この場をどうにかするには近くの徒歩数分の海よりネットの海のほうが頼りになります」


「あ、そうか」


 冷静さを取り戻した私はスマホに駆け寄りディスプレイを点けた。ターゲットの正体を知らなければ有効な対策は立てられないと考え、まず私が検索したのはトカゲの種類。仕事終わりで疲れている今、なぜ爬虫類の画像をいくつも見比べなければならないのか、という状況にげんなりとしていたが、ようやくクローゼットに陣取る爬虫類の名前が見つかった。


「――ヤモリ、か」


「ヤモリさんですかー、手が丸っこいのが可愛いですねー」


 芍薬が私のスマホを覗いて言う。彼女達の言葉は当然私の思考でもある。つまり、この爬虫類の手だけは可愛いと思ってしまった、ということ――それに気づいた私は脱力し溜息をついた。

 次は追い出す方法である。ヤモリは縁起のいい生き物と書いてあるサイトが山ほど出てきたが、今はそんな情報はどうだっていい。私は一刻も早くヤモリを追い出せればいいのだ。


「上から箱などを被せる……よし、これでいこう。確かまだ引っ越しの時の段ボールが残っていたはず……」


 物置と化していた別のクローゼットに畳んで入れていた段ボールを急いで引っ張り出すが、


「うえぇ……なんか湿ってるし、カビが生えてる……」


 箱の形に整えた段ボールには、高い湿気のせいであろう変色と、カビらしき斑点がところどころに同居していた。


「依吹、これを触るのは気が進まないでしょうが、これを使うしかありません」


「ファイトです、依吹ちゃん」


 釣藤鈎と麦門冬が私の傍で声をかける。

 私はまだ同じところに留まっているヤモリの下へ戻り、ゆっくりと段ボールを近づけ、最後は壁に叩きつけるように被せた。

 ヤモリが這い出たような様子はない――囲いこむことに成功したようだ。


「よし、ここからベランダまでゆっくり動かそう」


 まずは箱を壁に沿ってずり降ろし、床に付けることを目指す。壁と床の直角な部分を通る時には一瞬だけ箱の角度を変えなければならずヤモリの逃げる隙間ができてしまう。一か八かの賭けになる動作だったが、どうにかヤモリは逃げずにいてくれた。

 そのままフローリングに箱を押し付けながら、カーペットを片手で投げるように捲り、ヤモリが逃げ出していないかを凝視しながらじりじりと進む。

 雑に捲られたカーペットの上には桂皮が寝っ転がっている。


「依吹ー、がんばれー」


「あんたは黙ってて」


 ベランダに到達した私は窓を全開にして、段ボールをベランダへ投げるように押し出した。吹っ飛ばされたヤモリは、今までの大捕り物のことなど何ともなかったかのようにベランダを素早く這って、壁の合間からどこかに行ってしまった。


「……疲れた」


 その場にへたり込む。帰宅してから冷房も扇風機も使っていなかったので汗だくだった。眼前の窓から吹き込む外気は夜が近づくにつれてしだいに涼しさが強くなっているものの、相変わらずじめじめとしている。


「晩御飯はスーパーで何か買ってくるか……でも、その前にシャワーかぁ」


 自炊くらいはしたいというのがいつもの私のこだわりなのだが、今日は疲労困憊でもはや余計なことを考えたくはなかった。だから、さっきから私の一挙手一投足に口をはさんでいた『彼女達』はいつの間にか部屋から姿を消していたのだった。

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