第1話 薬剤師・南依吹

第1話-1 薬剤師・南依吹

 五月の朝、この薬局に来てから一ヶ月ちょっとの間で初歩的な仕事であれば十分にこなせるようになった私は先輩から「次は投薬*1をやってみよう。ファイトだ」と言われて、今日は窓口での患者対応を行うことになった。

 だが、机を挟んで私の目の前に座っている老齢の女性――池上万智子さんがバッグから取り出したモノに、私は薬剤師人生の開始早々、度肝を抜かれることとなる。


 しっかりとした足取りで窓口まで来た池上さんは「あなた、見たことがない人ね。あら、新人の人だったの? どうりで初々しい感じがすると思ったのよ。二ヶ月も間が空くとこんなことがあるのね」などと話をしながらこちらの質問に答え、その途中でふいに、


「そうそう、また薬が余っちゃっててね、これを先に飲もうと思ってるのだけど」


 池上さんがバッグから取り出そうとしたものを、机から身を乗り出して受け取る。

 それは透明なフィルムでできた九包の分包紙で、中には多数の錠剤が入っていた

――このような状態にすることは『一包化』というのだが、問題はその中身の状態だった。


(何……これ? 水が入ってる!)


 わずかな量ではあるものの全ての分包紙に水が貯まって、いくつかの錠剤の形が崩れているのがはっきりとわかった。分包紙そのものに目立った破損は見当たらないので、微細な穴がどこかに空いたものをしばらく放っておいたのかもしれない。


「……中身がびしょびしょになっちゃってますね。これはもったいないですけど、捨てちゃいましょうね」


 とんでもない代物を前にして、動揺を抑えながら言った。


「そう? まだ飲めると思ったのに。もったいない」


「お薬が少しでも濡れちゃうと、薬の成分がダメになって効かなくなっちゃうかもしれないですからね」


「そうなの? じゃあしょうがないねぇ」


「お薬はこっちで捨てておきましょうか?」


「うちでゴミにするのでいいですよ」


 有効成分の効き目がなくなる、というだけではない。薬は、体内で長時間をかけて成分をゆっくりと放出し続けるようにコーティングを施した錠剤など、多種多様な設計がされているものも多い。池上さんの薬にはまさにそういった長時間の効き目を狙った錠剤が含まれていて、錠剤が濡れることで錠剤のつくりが壊れて成分の放出が速まり、効き目が強すぎてしまう、ということもあるのだ。


 今しがた準備をした二ヶ月分の薬を渡すと、池上さんはガマ口の財布から折りたたんだお札を釣銭トレイの上に落とした。手早くお釣りを返すと、


「また来ます。頑張ってね」


「はい、お大事になさって下さい」


 池上さんの言葉に少しだけほっとした。こんな風に激励の言葉をかけてもられる機会が、一体この先どのくらいあるのだろうか――あまり多くはないだろうということは薄々感じている。仕事というのはおそらくそういうものだ。池上さんのさっきの言葉だって、私が大学を卒業したての新人だから、とわかったからこそだろう。さっきは焦ってしまうようなことがあったけどどうにか対処ができた。落ち着いてやっていこう、私。



*1患者の体調変化などの確認、服薬指導を行った上で処方薬を渡す一連の業務を示す語句。

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