第93話 その刹那
ホーリードラゴンの背中は大人が1人乗るのにちょうどよかった。羽ばたく翼の邪魔にならないからだ。
一同は巻き起こる土埃も気にせずにまばゆい聖なる竜に見惚れた。神の使い。幸福の使者はベキャベリを乗せて舞い上がる。高く。高く。
それを追うようにギルガンは愛馬を走らせた。やがて地面を蹴っていた蹄がゆっくりと音をしなくなり始め、空気を蹴り始めた。
ザンもリリーも、それにジャンも、目の前の神秘的な光景を見ているでしかなかった。
2つの影が宵闇の様な竜に向かって行く。その夜は満月だったか。それらが空を進むのが見えた。
「あれ?」
「マリアお嬢様はどこだ?」狐達がざわつき始めた。
「お姉ちゃんなら行ったよ」ザンは2本足で立つ不思議な狐を眺めながら言った。
「娘よ。待つことは出来なかったか」ギルガンは背のマリアに問うた。地面がどんどん離れて行く。馬は人2人乗せていてもまだ余裕がありそうだ。自身も甲冑を身につけているにも関わらず。
「何もしないなんて出来ないわ。おとりは多い方がいいでしょう」
「前に会った時より随分成長した様だ。随分前に感じるな」ギルガンはそう言いながら自分の娘に想いを馳せる。過ちを犯して地獄で責め苦を受ける娘。いや息子も妻も。彼らの魂が浄化された時、彼は地上に彷徨う霊魂ではなくなり、家族皆で天に召されるのだ。
「早く!お父様に追いついて」後ろのマリアに急かされてギルガンは我に帰った。
「ホーリードラゴンと同じ速さは無理だ。だがじき追いつくさ。目的地は一緒だ」
ベキャベリ達はもう宵闇の竜の所に到達しようとしていた。果たして宵闇の竜はホーリードラゴンの2倍の大きさがある。何という威圧感だろうか。全長20メートル程で頭なぞ人の背丈くらいはある。
「本物の悪魔に私の神聖術が効くと思うかね」ギュスタヴはホーリードラゴンに訊いた。
(分かりませぬ。しかし思い切りやる事です。原理的には効くと思います)
「原理的にはな。しかし燃え盛る火に一滴の水ではどうにもならぬ」元々呪術がどこから、誰からやって来たか。彼ら悪魔の方がそれに近しいのではないか。
(私も力を貸します。本来なら神から禁止されたこの力。人間に力を貸す事は主の意に反します。しかし事情が事情故に主も目を瞑って下さるでしょう)
「一度きりだ。私もギルガンもそれにかける。ん?マリア。どうして一緒に……」ベキャベリが背後を見ると、ギルガンの後ろにマリアが同行しているのが見えた。
(参ります)
宵闇の竜は曇った目でホーリードラゴンを見た。それは全てを憎む者。全てを飲み込みそうな闇は空を覆うようだった。それはまんじりとして押し黙ったまま、生命感を発さず、まるで生き物ではない様だった。
ベキャベリは目を瞑った。強い風が服をたなびかせる。もう地上より雲の方が近い。
宵闇の竜が黒い炎を吐き出すのは恐ろしく早い。口に炎がほど走ったかと思うとあっという間に帯地の黒い柱が上がった。
その匂いは空気を焼き、鼻をつく有害なものだとすぐにわかる。
ホーリードラゴンはすんでで回避したがタイミングが掴めない。
ベキャベリはちらちらギルガンの方を見た。マリアが気になって仕方がない。
「ベキャベリ。集中しろ」微かに聞こえる声でギルガンが叫んだ。声が風に流される。ホーリードラゴンよりもギルガンの馬の方が接近して、気を引こうと右往左往し始めた。
なんて目だろう、とマリアは思った。まるで石像か剥製のそれの様で、虚で生命力のかけらもない目。
底知れぬ虚無が恐ろしかった。
その時宵闇の竜が初めて身体を傾かせて動いた。尾でマリア達を振り払おうとしたのだ。ギルガンは手綱を操り馬を駆け上がらせる。空中のあらゆる角度を走る事が出来た。
恐ろしく太い尻尾から巻き起こる突風はそれだけで厄介で、ギルガン達の馬はバランスを崩し、ホーリードラゴンも一時的に翼をふるえなくなりかけた。
「マリア」ギルガンは手綱にしがみつき後ろを向いた。見ると背後が無人で、既にマリアが真っ逆さまに落下していた。
無表情で落ちるマリア。しかしホーリードラゴンは既に全速力で降下しており、ギルガンが尾撃の2発目をかわした時には何とかマリアを背に乗せていた。大人2人が乗るには少し手狭だったが、親子が身体を寄せ合って小さく収まっていた。
「大丈夫か」ベキャベリはホーリードラゴンに訊いた。
(大丈夫です。さあ、集中して下さい)
ホーリードラゴンは竜の前で引きつけようと行ったり来たりするギルガンとは違う風に転回し、死角に入り込もうとした。大回りで竜の背後、首の辺りに接近するつもりだった。
ギルガンもそれを感じ取る。一撃に賭ける。
ホーリードラゴンは今までにないほど翼を大きく振って加速した。振り落とされそうなスピードだった。
ベキャベリは身体全体を輝かせ、かつて出した事のないほどの神聖術を絞り出そうとした。
それに負けないくらいのホーリードラゴンの輝き。地上に居る皆には白い光が帯みたいに見えた。
ギルガンと馬が宵闇の竜をギュスタヴ達の逆に向かせようと全速力で駆けた。黒い火柱が立つ。
ホーリードラゴンがもう少しで竜の延髄に急接近しようとした時、炎を吐き切った竜は突如として無言で振り向いた。
ホーリードラゴンは死を覚悟したし、ベキャベリも同じだったが、マリアを振り落とそうとした。刺し違えようと思ったのだ。
しかしその一瞬、ベキャベリはホーリードラゴンに1人しか乗っていない事に気づく。
マリアはホーリードラゴンの背を蹴り、宵闇の竜の頭上の空中にいた。ギルガンはそれに気付き慌てて急接近した。マリアは持って来たバルバロの槍を真っ逆さまに竜に突き立てた。マリアにとっては長い槍だったが、大きな竜の頭にはちょうど良い。マリアは竜の眉間から顎にかけて槍を突き立て、力一杯かき回した。
痛みを感じているのか、宵闇の竜は声にならない咆哮を上げた。口を開き、マリアを振り解こうとする。
ベキャベリは構わず神聖なる気を竜の頭部辺りに放った。ホーリードラゴンも口から光を放った。
滅びよ。滅んでくれ。
白い粘着質の光が宵闇の竜にまとわりつき、マリアの身体にも飛び火した。しかしそんなことも構わずマリアは槍を引き抜き、竜に突き立てた。何度も何度も。
竜はその振り向き様の体制のまま動かなくなり、小刻みに震え出した。最初は微かだったが、それが大きくなり始め、やがて黒い血を吐いた。大変な量だった。まるで黒い油が垂れ流される様で、真下の森がどす黒く染まっていく。
竜は自身を吐き出し始めた。口を残して身体が小さくなっていく様は、身体が液化して口から吐き出されていっているみたいだった。
やがて漆黒の胴体が無くなっていき、吐き出すものがなくなると、最後に黒い顎が捲れて地面に落ちた。
黒い粘着質の液体でずぶ濡れになったマリアはギルガンとその馬の白銀の甲冑が汚れるのを申し訳ないと思った。
ホーリードラゴンはギルガンの近くまで飛んではみたが、父親のギュスタヴは何も言わなかった。ホーリードラゴンもギルガンも、きっとギュスタヴは肝が冷え過ぎて何もリアクション出来ないんだろうと思った。
その実、マリアは申し訳なさそうにギュスタヴを見たが、彼は呆気に取られて見たこともない様な間抜けな顔をしていた。そして剃り上げた頭をひと撫でし、ホーリードラゴンの背を叩いて合図した。
降りよう。
ホーリードラゴンは静かに降下し始めた。ギルガンも馬を地上に向かって走らせた。
マリアは心の中で父親にごめんねと謝ったが、降りてから狐やザン達の前で、リリーにこっぴどく叱られた。
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