第91話 宵闇の竜
血も涙もない悪魔の目から流れ落ちたのは果たして涙であったかどうかは定かではない。
しかし確かに悲しみに打ちひしがれて目から出た液体であったには違いない。
ブリカッツォは怒りを忘れて悲しんだ。感情を持たぬ悪魔が初めての痛みを覚えた時の苦痛は想像に絶した。
彼は地獄階層の大公。天地をひっくり返す力を持っていてもおかしくないだろう。死者に罰を与え、生前の罪を償わせて魂を浄化する者。
その娘を失った悲しみが彼を無にした。涙を流した悪魔は悪魔でなくなり、彼は硬い石になった。それは数秒でばらばらと崩れ落ち始め、まるで灰色みたいに砂煙を立てて地面に散らばった。
その時既にマリア、リリー、ジャンとザン、それにロギチーネは連れだってその場を後にしていた。ロギチーネは彼らを急かした。
「涙?悪魔が涙を流したらどうなるの?」マリアはロギチーネに訊いた。
「絶対にあり得ない事なのだ。悪魔には血も涙もない。自然の摂理に反する。悪魔が人の生死に関わったり、地上で悪魔が生まれたり、悪魔が泣くというのはあってはならないのだ。月と太陽が入れ替わったり、この世から海がなくなったりするくらいにおかしな事なのだ」ロギチーネは焦っていた。
「それが起きたらどうなる?」ジャンが訊いた。
「この世の摂理が乱れる。何が起きるかは分からない」
「メグ」マリアはまだ村の入り口で待っていたメグを見つけて駆け寄った。彼女はひどく不安そうに見えた。ジャンは回り込んでメグと馬車を繋ぎ止める馬具を外した。
「さあどうするの」リリーが訊いた。
「うむ。変異を見るしかないが、もう少し離れた方がいいと思う」ロギチーネは村の方を見やりながら言った。
「ライムブルクに行ってみるのは?」ザンが言った。牙が邪魔で喋りにくそうだ。
「そうだな」ロギチーネはなおも村から目を離さない。
その時だった。黒い閃光が村の中心部から起こり、辺りを包み込んだ。音はなかった。それは眩しいというよりはどちらかと言うとその逆に近く、光ではなく闇だった。闇が瞬き、また消えた。
そこから赤い空に浮上して浮かび上がる影。それはこちらに来るわけでもなく、巨大な翼をはためかせながら空の上を飛んでいた。
「出たな」ロギチーネは小さな声で独り言を言った。「やはりか」
「何?どうしたの」マリアはロギチーネの横に立ち、同じように目を凝らした。
「あの姿にはなれないはずなのだが。ここは地上。地上のルールにのっとらなければならない。だが摂理が破られた今、それも無駄なようだな」
「どういう意味?」リリーが訊いた。
「地獄から地上に来るには制約があるんだ。我々は地獄では肉体ではなく無限の思念体なのだから。それが肉体を持つという事はエネルギーを物理法則に制御される。地上のルールに従うのだ。ブリカッツォは地獄の自分になった。その象徴としてあの姿になったのだ」
「あれは思念体なの?」リリーが訊いた。
「いや、肉体として可視化された本当のブリカッツォだ」
「黒い竜?」ザンも目を凝らした。
「そう見えるからそうなのだ。我々の実態はあってないような者。形なき物なのだから。我輩の今の姿でさえ、奇異に見えるかもしれないが生態系というルールに従っている。彼にはその制約がなくなり、無限になった」
「どうすればいいの?」マリアが訊いた。
「簡単さ。滅ぼせば滅びる。しかしあれは厄介だ。我輩では太刀打ち出来ない。この地上ではな」
黒い竜に意識はなかった。鋭利で禍々しい角、瞳孔がない目、深く裂けた口から見える二重に生えた牙。4本の太い足に一枚一枚が胴体程もある翼。それに太くて長い尾。その全てが真っ黒で艶ひとつない。漆黒の闇みたいな、真っ暗な身体をしたドラゴン。
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