第90話 悪魔の涙
向こうの方で微かに悲鳴はしていたが、辺りには既に人気はなかった。家の瓦礫に横たわる村人。
森の火災が昼みたいに辺りを照らす。
灰色の悪魔は身体中を切り刻まれながら、足元に横たわるマリアとリリーを見ていた。家が壊れた衝撃で身体を打ったらしく、意識が朦朧としていた。
「おお」暗がりからブリカッツォが現れ、美しくも右手を失った灰色の悪魔に感嘆の声を上げた。「生まれたのだな。美しい我が娘よ」ブリカッツォも身体中を負傷していた。ロギチーネとの戦闘のせいだ。彼らのぶつかり合うエネルギーが家にぶつかって吹き飛んだ。いや、ロギチーネは集落から離れようとしていたのでブリカッツォの仕業だろうか。
「む……す……め?」花から生まれたばかりの悪魔は、初めて喋った。割と高い声だ。
「そうだ。私は父だよ。私がお前の種を植えて育てたのだよ。さあおいで」ブリカッツォは傷だらけの両手を広げて彼女を迎え入れようとした。
「ちち?」
「この手に抱かせておくれ」
灰色の悪魔はよたよた歩き出し、ブリカッツォに近付いて行く。
ブリカッツォも歩んだ。辺りが見えないほどに感動していた。
何かが飛んできても気付かないほどに。
それは横から跳んできてブリカッツォの灰色の娘の首を掻き切り、瓦礫に着地した。目を真っ赤に充血させて、口から牙を剥き出しにして、涎を垂らしていた。
ブリカッツォの娘は力なくその場に崩れ去った。ブリカッツォは目を見開いてそれを見ているしかなかった。
彼は何が跳んできたかと見やる。顔中を獣みたいに歪ませた憤怒に満ちた表情。それはほんの小さなおかっぱの子供で、肌着を着て両手両足を狼みたいに地面につけていた。
覚醒した吸血鬼。相手を死に至らしめる凶暴な一面を見せたヴァンパイア。
ブリカッツォは唖然とした。そして娘の側に歩いて行き、動かなくなった彼女を抱き寄せた。
マリアは何とか起き上がり、リリーを抱き寄せた。リリーも意識を取り戻しつつある。
「マリア」後方からジャンがやって来るのを感じた。しかし振り返らず、しゃがみ込んで何かをしているブリカッツォを見ていた。状況がよく分からなかったからだ。
「ザン?」ブリカッツォの向こう越しにザンらしき姿が見えた。しかし彼女の知るザンではないらしい。まるで……まるで獣に取り憑かれたみたい。
「来るな。お姉ちゃん」ザンは聞いたこともないようなしわがれた声で話した。「自分でもコントロール出来ないんだ。全てが憎くて憎くて仕方がない」
「ザン駄目よ。こっちに来なさい」マリアはザンに叫んだ。
「うう」ザンは手を地面から離し、身体を酷く震わせながら立ち上がった。冷や汗をかき、体温が下がっていくのを感じた。
ザンは打ちひしがれたブリカッツォを回り込むように瓦礫の上を歩いてマリアの方へ向かった。
「大丈夫か。イマイチ状況が分からないが」ジャンはまだ地面に座り込んだマリアに寄り添うように背後に立ち、ブリカッツォから目を離さなかった。
「あの女の悪魔をやったみたいね」マリアが言った。
「あのブリカッツォはそのせいで怒りに満ちているわ」リリーが言った。
ザンがマリアの横にしゃがみ込んだ。伸びた犬歯を口からはみ出してはいるが、元のあどけない少年に戻っている。
「さっき目が覚めたの?」
「うん」ザンは答えた。「目が覚めると湧き上がるどうしょうもない凶暴な気分で居ても立っても居られなかったんだ。でも頭の片隅にみんなを探さなきゃって」
「あれは……仲間の死を悼んでいるのか?」ジャンは皆に訊いた。
「娘だとか言っていたわね。悪魔はよく分からないけど」マリアは辺りを見回して剣を探したが、先ほどの衝撃でどこかへ吹き飛んだらしい。
一同が居る位置からブリカッツォを挟んだ向こう、瓦礫の山で物音がした。ちょうど焼ける森の方角で、暗がりから現れたのは用心深くこちら、特にブリカッツォを伺うロギチーネだった。彼もまた身体中を生傷で負傷している。
「離れろ」とロギチーネは現れるや否や言った。
マリア達は呆気にとられた。村人達は皆逃げ出していて辺りは無音。微かに森の火災の音が聞こえるだけだった。
「逃げろ。早く」ロギチーネは強い剣幕で、半ば叫ぶように言った。
マリアはその勢いに驚き、身を起こした。膝を負傷したらしく痛んだ。
ブリカッツォは娘の身体を抱き寄せて地面に座り込んでいた。ロギチーネはそれを見たのだ。ブリカッツォが流す涙。それを。
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