第10話 信じる事の大変さ

 マリアが湖から両肘をついて這い上がった時、辺りは真っ暗で何も見えなかった。しかしここはあの家の前。マリアが湖に飛び込んだ場所に帰って来れた。


 ナマズの不思議な力で一度は水面から飛び上がったのだが、そのまま垂直に2メートル飛び出して、空中に放り出された後、また水の中に落ちた。なので2回目の着水のせいで服がびしょ濡れになった。


 辺りは人の気配もしない。あの家は襲われていないかが心配だった。マリアが斬りつけたあの人間の手当てをしにアジトに帰っていればいいが。


 マリアは嗅覚を研ぎ澄ました。暗がりで何も見えなかったからだ。微かに残る人の匂い。興奮状態の人が放つ匂いと、血の匂いもした。


 それは向こうに続いている。藪の中だ。奴らは自分達の家の方へ向かったらしい。


 マリアは髪を絞ると、団子みたいに結えて藪の中へ入って行った。出来る限り静かに歩くが、垂れ下がる草木が肩に当たり、枯れ葉や小枝を踏まずには進めない。


 もし相手が逃げていたら?そしてまた帰って来て悪さをしたら?自分もここにはずっといられない。集落で住民を守るために住むなんてできない。だからといってあの非道な奴らを斬り殺す事ができるだろうか。


 マリアは剣の練習はしたが、生命を殺めた事がなかった。


 汗が額に薄っすら浮かび、左手に掴む刀剣の鞘がやけに冷たい。


 前と山に入った道は違っていたが、大体の方向は分かっていた。斜面を横切るように真っ直ぐ進んだ。



 明かりが見え始める。いくつかのランタンの明かりだ。馬屋の両開きの扉が開け放たれていて、中から声がした。あの3人が話し合っているようだ。


 「痛え痛え」


「待て待て。今止血してやるから」


「動くな。全くなんて人間は怪我に弱いのだろう」


「早く馬を出せ。痛くてかなわん。治療してもらわないと」


「分かったよ。おい、いくぞ」


 「ん」


「どうした」


「お前」


後頭部の出っ張った男の1人が手綱を握って馬を出そうとすると、ランタンの光に小さな人影が浮かび上がった。


 「お前はさっきの」後ろの人でない男が言った。その後ろの髪を剃り上げた人間は痛みが気になってそれどころではないらしかった。


 後頭部の男達はまた術を放たんと、灰色の目を赤く染める。馬舎内の空気が変わり始め、馬がそれを感じとって嘶いた。


 マリアは仁王立ちで、結え上げて露出した額を曝け出し、上目遣いで3人を睨め付けた。妖精石の剣は鞘から引き抜かれ、右手に硬く握り締められている。


 「あなた達、悪い事をしていると思わないの」マリアは静かに言った。


 「悪い事?」


「何言ってんだ、お嬢ちゃん」


 人ならざる者達が聴き手をかざし、集めた酸素を燃焼させて、2人同時に火の玉を発射した。それは凄い勢いでマリアに向かって行く。


 しかしマリアはそれよりも速い。と言うより、彼らのなそうとする事を察知し、すでに動き出していた。それが彼女が父から体得した、術破りの基本なのだ。


 向かって行くマリアは火の玉を地面スレスレに身を屈めて回避し、馬と馬車の死角に入り込んだ。手綱を持つ前の者が覗き込んだ方向とは逆に回り込み、跳ね上がってその者の背中を一閃する。馬車に乗り込んだマリアは返す刀で、また目を赤く染める2人目を一瞬で3回斬りつけた。マリアは肉が引き裂かれ、骨が砕ける感覚を生々しく感じ取った。思ったより血は出なかった。3人目の人間は肩から胴を切り落とした。


 静寂。暴れていた馬も落ち着きを取り戻し、やがて静かになった。


 暗い山の中には、屍と自分しかいないみたいだ。マリアはそう思った。




 「あら、心配したのよ。お帰り」観湖庵の主人は起きていた。真夜中にマリアがいなくなって起きていて、寝静まった集落に聞いて回ろうか、探しに行こうか迷っていたらしい。


 「あら服が濡れてるじゃない。まさか湖に落ちたんじゃないだろうね。脱ぎなさいよ。着替え乾いているよ」


 マリアは何も言わずに着替えて、ランタン一つ灯った食堂に腰掛けた。


 「どうしたんだい。そんな顔して。なんか怖い目にあったかい?」


 「悪い奴をやっつけた」マリアは下を向いていて、影になって老婆からはよく表情が見えない。


 「悪い奴ら?」


「湖を汚していた奴らよ。罪のない人間や動物を殺めていた」


「へえ!そうかい。それはお手柄だね」老婆はカラカラ笑った。


 「罪のないものを殺めるからといって、私がそいつらを殺めてもいいと思う?」マリアの質問は、老婆からすると意外だった。彼女が腰に剣を携えてやって来た時から、そんな素振りが見えなかったからだ。


 2人とも黙り込んだ。


 「分からないけど」老婆が言った。「私は感謝してるよ。してくれた事にも、助けてくれた心意気にも。集落のみんなだってね。そらそいつらも改心して、罪を償えばいいだろうけど、それができる奴なんてあんまりいないと思うよ。1人じゃ無理。させる側も、する側も。しかも一生出来ないかも知れない」


女将が見ると、マリアの膝には涙が落ちていた。正しかったと思う気持ちを強く持とうと思った。


 


 マリアの言葉通りにあの忌々しい鍛治小屋と悪党を調べた集落の者達は歓喜に沸き、皆が我先にと、また湖に舟を浮かべ始めた。


 何日間か滞在したマリアの見送りにほとんどの住民が集まった。人だかりは観湖庵の前に出来ていた。


 「アリアさん。感謝してますよ。信じて下さって」ダンのお爺さんも来ていた。


 「お爺ちゃん、マリアさんだよ」ダンは怒って言った。


 「あれ以来地震も起きなくなったし。お礼ができないよ」観湖庵の主人は名残惜しかった。「また立ち寄ってよ」


 「うん。ありがとう」マリアは足早に立ち去った。あと1日いようかなって思ってしまいそうだ。それが自分の性格だ。


 人だかりを背に、また湖の柵沿いに歩いて行く。湖の中は見えないが、どことなしに手を振ってみる。すると今一度、地震が起きた。きっと湖の底にいる水神様がありがとうを言っているのだろう。




 


 

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