第5話 お爺ちゃんの話
マリアは朝早く起きて、観湖庵の古井戸で軽く体を清めると、昨日着ていた服を洗って、替えの真っ白いゆったりした服に着替えた。
朝食に老婆の昔話をかきこんで、足早に外に飛び出すと、湖に沿って走る道の途中にある家を見て回った。
あまり人はいない。住宅の3件にひとつは湖に伸びる橋桁を持っていて、小さな手漕ぎの船を所有していた。誰しもが湖に出かけて行って糧を得ているみたいだ。辺りの野生動物がいそうな山岳地帯に入って行くには少々遠そうで、この湖に寄り添った生活は理にかなっているようだった。
しばらく歩くと、柵の側で地面に線を描いて遊んでいる子供達を見つけた。6人の子供は年の頃もバラバラだったが、その活気はこの辺境の寂しい集落にあって心を和ませるものがあった。
子供達の方もマリアを見つけると、一目散に走り寄って来た。
「誰?どこから来たの?」子供達はマリアを取り囲んで目を輝かせる。住民皆顔馴染みで、外から人が来るなど滅多にないのだろう。
マリアもかつてはそうだった。父親の仕事の取引先の人間が島に会いに来て、一緒に付いて来たその子供と遊んだ記憶がある。いつも外の事はそういう人や狐から聞いた。
「遠い島から来たのよ。遊んでるの?」
「そうだよ。今は湖に出て遊べないからね」みんなが我先にと答えたり頷いたり。
「あなた達だけで湖に出て遊ぶの?」
「そうだよ。大体大人の人の船が浮かんでるから大丈夫なんだよ」
小さい頃から遊ぶ場所まで水の上なんだ、とマリアは思った。私は海は危険だと教えられた。
「それに溺れても水神様が助けてくれるんだよ。溺れ死んだ人はいないんだって」全員で頷く。
「へえ。水神様を見た人はいるの?」
「いないけど、確かにいるんだよ。最近の地震は水神様が怒っているんだって」
「へえ」マリアと子供達は何気なしに、一緒に湖を眺めながら歩き出した。
「なぜ怒っているんだと思う?」マリアは少し朽ちた柵を揺らしながら言った。見た目は頼りないが触ってみると、意外としっかりしていて、それが見渡す限り湖を囲んでいる。マリアはよくもまあこれ程長い柵を作ったものだと感心した。
「なんでだろう」
「お爺ちゃんは水が汚れたからだと言っていたよ」1番小さな子供が言った。
「誰がが汚したのかしら。住んでる人?」
「お母さんがそう言ったらそうじゃないって言ってた」
「ふーん。お爺ちゃんは何をしているの?」
「昔都会で学者をしてたんだ。偉いんだよ。最近ボケてきてるけど。僕といとこを間違えるんだ」子供の中の1人が強く頷いた。
「お爺ちゃんに会える?お話を聞きたいんだけど」
「いいけど、すぐ怒るよ」
「大丈夫」
ダンという少年の家はすぐ近くにあり、今は3人暮らしだという。彼の家の軒先には様々な花をつけた植物が植えられていた。ダンがしっかりした木造の家を開けて中へ入ると、中から話し声がして、彼の母親が出て来た。
「どちら様でしょうか」ダンの母親は前掛けで手を拭いながら、マリアを伺うように見た。玄関は綺麗に整理されている。
「湖について調べているのですが、ダンのお爺さんのお話が聞きたくって来ました。いいでしょうか」
「またこの子ったら余計な事をペラペラと」お母さんはかなり早口だった。「父もかなり年で、ボケて喋っているものですから。私も誰も話を信じて聞いていないのですよ」
「あはは。まあお話だけでもいいので」マリアは水の話に何か興味が湧くものがあったのだ。理由は分からない。
「構わないですけど、意味がわからない事を言って、お気分を害してしまうかも知れませんよ?」
「大丈夫です」マリアは笑顔で答えた。
ダンのお爺さんの部屋は2階にあり、絨毯が引かれた階段を上がると、立派な木の戸があった。ダンが前を案内してくれた。
「お爺ちゃん」ダンが部屋に入り、話をしてくれた。そしてダンが出てきた。「お姉ちゃん、入って」
マリアが入ると、右手には壁一面が本で埋め尽くされていた。こんなに一個人が本を所有するなど、貴族か王族、はたまた高名な学者くらいだろうか。島には3冊くらいしか本が無かった。狐は字は分かるが本が読めない。
左手には立派な手作りの机があり、そこには筆記用具に向かう老人がいた。白髪で髪が短く、整えられていないのは伸びた髭も同じだった。襟付きのシャツにズボンと、都会で仕事をしていた時の習慣だろうか。
老人はおぼつかない目でマリアをじっと見つめて何も言わなかった。
「お姉ちゃんは水神様の事について聞きたいんだよ」ダンが言った。
「あんた、王都でお会いした事があるかね」老人は訪ねた。
「いえ、初めてお会いします。マリアですわ」
「そうかね。本当かね」
「はい。湖の異変についてお聞きしたいと思いまして参りました」
「湖?ああ、そうそう。水神様がご乱心になられた話だな」
「ご乱心?正気ではないと?」マリアは話を続けて質問した方がいいと思った。多分お爺さんは忘れてしまうだろうと考えたのだ。
「わしらの先祖は代々湖に生かされておった。先祖は昔の戦争でこの地方に移り住んできた」
「昔の戦争。伝承にある" 大戦 "ですね」マリアは本で読んだことがある。神様の存在に継ぐ太古の伝承だ。
「そう。しかしそれは実際にあったのだ。何千年も前にな。その事については学者の間でも意見が分かれておる。ただの御伽話ではないんじゃ」
「なぜ水が汚れていると?」マリアは少し話を戻そうとした。
「じゃから今から喋るわい。ぼけとらん!」老人がそうがなり立てると、ダンとマリアは顔を合わせて少しはにかんだ。
「" 大戦 " で傷ついた生きとし生ける者と地上にはそれを再生しようという力が働いた。それが様々な力や仕組みを、まるで人間の社会が生まれるように、自然にも産んだ。その1つが水神様であり、湖で生命を育み、生命を人間に分け与えたのじゃ」
マリアは少し頭が痛くなってきた。
「それが破壊の後の必然なのじゃ」
ダンは窓から、外で遊ぶ友達を見ていた。
「そんな水神様がなぜ人間を守らなくなったのでしょうか」マリアが訊いた。
「それはわからん」
「は?」ダンとマリアは目が点になった。
「わしが思うに、神の代行者の聖獣たる水神様が今みたいになったのは、よっぽどの理由があると思うからじゃ。人間に仇なすようになったか、正気ではなくなったか。わしには術を使ったり、目に見えん物を感じ取る力はないが、理論や知識で言うとだな。何か悪い影響が湖に及び、悪に汚染されておるのではないかと考える。過去の事例などから鑑みた結果じゃ」
「なるほど」マリアは話を聞いて良かったと思った。
「ジエン。葡萄酒を貰ってきておくれ」
「お爺ちゃん。僕、ダンだよ」
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