水神様の住う湖
第3話 お嬢上陸
もうすぐ港に着こうとするいなり総合商社の社用船では、船内の隅でひそひそ話が行われていた。
「手筈は分かっているな」船長狐が確認した。
「はい。夜通し交代で見張りは立てます」口が鋭利に尖った狐が呟いた。彼は隠密狐。社内でも秘密の書簡を運んだり、情報収集をしたり、社長や重役の護衛をする影の部署の棟梁だ。
「絶対お嬢様に勘付かれてはならぬと社長の御達しだ。お嬢様は鋭い方が故、常に50メートルは離れよとの事」
「ご、50メートル」隠密狐はごくりと唾を飲んだ。「そんな方に護衛や監視が必要なのでしょうか」
「いいか。親心というものは理屈ではない。これは理屈の話ではないのだ。分かるか」船長狐は顔が険しくなる。
「自信がありません。なんせ術破りでは社長を凌駕する程の実力だとか」隠密狐は額を拭った。
「良いか。見失えばどうなるか分かるか。絶対失敗してはならん」
「失敗すれば......」
「そうだ」
「全身丸刈り」
「そうだ。行け」
「船長!」隠密狐が階段を登ろうとすると、階上の船室のドアが開いた。向こうから船員狐が覗き込んだ。
「どうした」その表情に、船長狐は嫌な予感がした。
「マリア様が。お嬢様が消えました」
無言。全国のいなり総社事務所、支店にお触れを出さねばなるまい。
マリアは人が居なさそうな岸辺に這い上がり、手拭いや日光で体を乾かすと、また衣服や鞣革の防具を身につけた。頭の上に乗せて泳いできたので、バックパックや妖精石の剣は濡れていなかった。
辺りには細くてひん曲がった木が生えているが、名前は分からない。海の向こうに会社の船があるが、この背後の藪に入ってしまえばもう狐達は自分を見つけられないだろう、そう思われた。
マリアはさっさと草木の中へ入って行った。
島とはまた違う森林の匂い。野鳥が多く、あちらこちらで嘶いている。自分の知る森よりも広大で、抱き抱えても手が届きそうもない太い木が新鮮だった。進めば進む程様子が変わっていき、見えないだろう距離に野生の動物の息吹を感じる。緑が深い場所は暗くて日の光がまばらに差し込む。
道無き道を行くと道に出た。道と言ってもただの轍。右に行くか、左に行くか迷ったが、海から離れそうなので右に向かった。
来たこともない誰も知らない土地を歩いていて、不安にはならなかった。自分は本当はこれを望んでいたのかも知れないが、分からなかった。
水の音を聞き、そちらに向かった。道から少し逸れていたが、背の低い草の合間を進むとか細い泉が湧き出ていた。綺麗そうなので何か布を探して浸し、体を拭けるところまで拭いた。塩水がベタベタしていたのだ。
泉に移る自分の顔を見つめる。少し奥二重で目も鼻も口も小さな顔。背も低いせいか、いつも歳より幼く見られた。
全然似てない。昔はそう思う事もあった。
金色で長い髪を水で洗いながら、どこかで切らないとと思った。
夕暮れにもなる頃、ずっと歩いたマリアは疲れてはいなかったが、遥々来たものだと感慨に耽った。海からかなり遠くまで来ただろう。
辺りは山々に囲まれた地域で、なだらかに登って来たらしい。振り向くとそう感じた。どこかで野宿でもしようかと、ちょうど良い場所を探していると、薄暗い向こうに明かりが見えた。ここから少し降りた低い地域で、なんだか明かりのつき方が妙だった。
道なりにそちらに進んで行くと、やがて右手に木の柵が現れ始めて納得した。湖だ。
右手に現れた湖を囲むように集落が出来ていて、家々が水辺から近づいたり離れたりして寄り添っている。それにしてもかなり大きな湖だ。真下を覗き込むと切りたって2メートル下に水が見える。かなり深そうだが、暗くなり水はもはや漆黒の闇と化していた。
ここで寝る場所を探せなければ、具合の良さそうな岸で寝よう。そう思って湖と並行に走る道を歩いていると、果たして旅籠を見つけた。
( 観湖庵 )
なんとも古びていて良い雰囲気の木造建築だ、とマリアは思った。
中へ入ろうとした瞬間、凄まじい地響きが轟き、湖の遠くで水しぶきが聞こえた気がした。地震みたいだったがくぐもったような爆発音もして、揺れる地面に手を着いた。
辺りの民家の戸が開いて、また閉じた。別にそれで逃げ惑う人がいたわけでもなかった。
マリアは何事かと思ったが、お腹が減ったので旅籠に入る事にした。
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