第2話 涙の旅立ち
いつも顔を合わせる父親に会うのに胸がドキドキする。話したいようで聞きたくない話。いつも彼は娘に対してナイーブだ。
木造の古びた事務所に入り机の狐が会釈した。彼らは丸っこい前足でお金や木の手形の勘定をしていた。部屋の隅には山積みの書類。小さな時はここで過ごした。
マリアはそこを横切り、社長室をノックした。ベイクもノックの音で誰が来たか分かる。人のノックと狐の肉球で叩くのは音が明らかに違うからだ。
「入れ」中からくぐもった低い声がした。マリアは木の戸を開けて中へ入った。
中には大木を切り出した一枚板の立派な机があり、そこには頭を剃り上げた三角眉毛の中年男性が座っていた。社長室は簡素で、無駄な物は何も無い。調度品も書類を仕舞い込んでおく棚くらいしか置いて無かった。
いつもそうだが、背の窓から差し込む日光に反射して頭がキラキラ光っている。白い布の服に身を包んだベイクはマリアを見て、眉をへの字に曲げている。
頭をひとなでするとマリアに「座れ」と呟いた。あれをする時は心乱れた際にに考えをまとめようとする時なのだ。
「お父様、なぁに?」マリアは社長椅子に対面する椅子に座る。
「単刀直入に言うと、お前は外の世界に、島から移住した方がいいと思っている」ベイクはつまりながらぼそぼそ喋った。
「なぜ今それを言うの?」マリアは冷静に切り返した。
「ずっと考えていた事なのだ。お前が小さな時から。何がお前にとって1番の幸せなのかを」
「どこに住んで、どう生きるかは自分で決めるわ」
「お前は知らないだけなのだ。外の世界の、人生の種類を。私のせいでもあるが」
「お父様はこの島でずっと過ごすんでしょう?」
「私は若い頃から散々沢山の人に出会い、たくさんの経験をしてきた。だから今の選択がある」
「その内出て行きたくなったら出て行くわ」
「若いくて早い方がいい」
「そんなに急に」
「お前には最高の人生を送ってもらいたい。それだけなんだ」
「違う理由でしょう?」
マリアにそう言われたベイクは硬直し、何も言い返せなくなってしまった。
マリアはそれ以上訊く事はせず、黙って立ち上がり、社長室を出て行った。
ベイクはまた頭をひとなでして、湧き上がる不安をいなそうと努めた。唯一の家族が側からいなくなる不安と対峙する、マリアの手を引いて連れて来た時の罪悪感。
かつて小さなマリアと暮らしていた地方領主メーケルは、彼女は娘ではないと言い放った。この時代にはよくある事だ。彼は姑息で悪い奴だったので、ベイクは彼も取り巻きもみんな切り捨てた。
彼女がメーケルを信頼して好いていたかは知らない。訊いた事もない。
マリアは事務所や工場の立ち並ぶ、島の1番大きな往路を歩きながら、父親が何かの後悔や罪悪感に苛まれているのを確信した。そしてそれが人それぞれで、理解出来にくい物である事を知った。彼は自分がそれに耐えられなくなったのだ。そう思う。
それって自己都合じゃない?
マリアは小さな頃によく遊んだ旧ギルガン候の宮殿に赴いた。市街を抜けると道の左には見晴らしのいい草原があり、昔の人の朽ち果てそうな墓地が並んでいた。
小さな森を抜けると綺麗な装飾がされた本のお話に出てきそうな宮殿があり、自分がお姫様になったような空想をさせてくれた。よく狐達を召使役にしていたものだ。
重い扉はいつも開け放たれている。宮殿の一階は広間になっているが、絨毯が破れていたり焼け焦げた痕が残る。窓ガラスが割れていたり、床や壁にはひび割れや引っ掻いたような傷。かつて父親と仲間達が悪しき敵と対峙した跡らしい。狐達がそう言っていた。
宮殿に入った時は誰もいなかったはずなのに、いつの間にか誰かいる。
立派な玉座の前に、顔から爪先まで隠す白銀の甲冑に身を包んだ騎士が、同じ色の無骨な武装をした馬に乗って、こちらを横見て待ち構えているかのように佇んでいた。
マリアは驚きはしたが、それを怖いとは思わなかった。幻覚みたいだったが、まるでこの世のものではないとすぐに確信した。
マリアは少し近づき、心で何者かと思う。
「私は貴方のお父上に魂を浄化して貰った者だ。家族も大変お世話になった」白銀の騎士は答えた。
「あなた幽霊?」
「もう幽霊ではない。私は家内や子供達の償いを待つ者。もはやほとんど存在せず、家族が地獄から帰れば、共に消え失せる」
「地獄。辛いわね」
「当然の報いなのだ。待つ事は家長として当然の勤めだ」
「そう」マリアにはよく分からなかった。
「ギュスタヴ殿が旅を止められてから、私のように助けを求める者が増えているのではないかと思う」
「助け?」
「彼は当てもなく旅をしながら、あるべきものを然るべき場所に戻されてきた。私は向こうで、また魂を浄化されたホーリードラゴンと話をする機会を得た。彼との対話の結論は、ギュスタヴ殿は神聖騎士の名に恥じぬ正義の人間だという事だった」
「神聖騎士?それは何?初耳だわ」マリアは目を輝かせて言った。
「彼はかつて国を背負って立つ騎士団長であった」
「騎士だったの」
「あの世から見て、現世の魂が乱れているともちきりだ。善と悪、嬉と悲、愛と嫌。ごちゃ混ぜで滅茶苦茶なのだ」
「外はそんななの?」
「見てみるがよろしかろう。感じるがよろしかろう。お父上はそれを貴方に見せるかどうかで苦しんでおられる」
「私、そんなものには負けない」
白銀の騎士は2度頷いた。マリアには顔は見えなかったが、なぜか笑ったように感じられた。そして彼を乗せた馬はゆっくりと音も立てず、大広間の脇にある階段から2階へ上がり始めた。
マリアはそれを追いはせず、踵を返して事務所に向かった。
丁度いなり総合商社の社用船が荷物を運ぶのに出るので、マリアはそれに乗って出発する事にした。小さな船だ。
肩には古びたバックパックを背負い、腰には昨夜ベイクから手渡された、妖精石で作られた刀剣を身につけた。衣服は簡素で白い布の服に革の胸当てや小手、ブーツだけだった。その上に腿までの赤紫の上っ張りを着た。金属製の装備は背も小さくサイズが合わない。
船長狐は船の漕ぎ手を確認し、一声掛けると、マリアに言った。
「参りますよ」
「ええ。お父様、ありがとう。私、誰と暮らすよりもお父様と暮らせて幸せだったわ」
船はゆっくりと滑りだした。岸に立つベイクは涙で、旅立つ船を見られはしなかったが、その背後に見送りに来た1000匹の狐達は、船が見えなくなるまで心配そうにマリアを見送った。
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