二人
「美冬、来たよ」
いつもの窓際のボックス席。テーブルに突っ伏す美冬に声をかけると、美冬は顔を埋めたままぽつりと言った。
「……なぁんだ、夏月か」
「自分で呼んだのにその態度? 尊大だなぁ」
「呼んだ。呼んだね。呼びました」
「なにその謎の三段活用。まぁいいけどさ」
溜息まじりで席に座ろうとすると、「待って」と美冬に制される。美冬は空のマグカップを指差すと、顔をこっちに向けないまま言った。
「ねぇ夏月、ドリンクバーでココア取ってきて。あぁ、夏月の分ももう注文してるからね」
「またいつもの甘いヤツ?」
「うん、お砂糖入れてよね」
「よくあんな甘いの飲めるなぁ。いつか糖尿病になるよ」
「いいの。なってもいいの。今は苦いコーヒーなんて飲みたくない。めちゃくちゃ苦い経験、したばかりなんだから」
苦い経験、と美冬は言った。きっと、さっきスマホに届いたメッセージのことだろう。内容は至ってシンプル。「今すぐ来て。いつものとこ。苦しくて泣きそう」。
このたった三文で人を呼びつけられる美冬は、やっぱり我儘で尊大だ。まぁ、こっちが単に甘いだけかも知れないけど。
言われるがまま、いつものココアとコーヒーを汲みにいく。スティックシュガーを開けて、一本まるまるココアに投入。でも自分が飲むコーヒーの方には何も入れない。これもいつもの組み合わせ。
半年前までは、これらに加えてもうひとつドリンクがあった。甘い甘いミルクティーが、確かにあった。男のくせに、あいつは甘い飲み物が好きだったから。
でも、このテーブルに三つのドリンクが揃うことはもうない。きっと、ない。
両手にドリンクを持って席に戻ると、美冬はやっぱりテーブルに顔を埋めたままだった。さっきから微動だにしていない、気がする。
「美冬、ココアだよ。美冬?」
「……ありがと」
「それ、一杯だけにしときなよ。ただでさえココアは甘いのに、ほんとに病気になるよ」
「夏月こそ、毎回よくそんな泥水みたいなコーヒー飲めるよね。苦いを通り越して、もはや
「
「……聞いてくれる?」
「聞かなくて済むのなら聞かない。でもまぁ残念ながら、聞かなくても大体わかるんだけどなぁ」
ようやく顔を上げて。そしてこくりと喉を鳴らして、ココアを飲む美冬。マグカップを両手で持ちながら、視線をカップに落としている。美冬が息をするたび、白い煙がカップの縁に揺らいだ。
「話っていうのは、あいつのことなんだよ」
だろうね。その相槌の代わりに、コーヒーに口をつけてみた。泥水みたいとまではいかないけれど、コーヒーに近い偽物のような味がする。美冬め、よく人が飲む前にそんなこと言えたな。まぁ飲めないことはないから、別にいいのだけど。
「さっき、私の部屋に来たの。突然ピンポーンって呼び鈴、鳴らして。話があるんだ、って言って」
「ふうん、なるほど」
「部屋に上がって、ってあいつに言ったんだよ。ゆっくり話したかったの、久しぶりに。でも、玄関先でいいって言われて」
「それで?」
「秋人、明日発つんだって。朝一番の列車で、この町から出て行くって」
秋人。もう一人の幼なじみの名前。小学校の頃からの付き合いの、もはや腐れ縁とも呼べる友の名。この「三人」を作ったとも言える人物であり、そして。この「三人」を壊したとも言えるキーパーソン。
「……何年、私たちは一緒だったのかな。小学校、二年の頃からだっけ? 秋人が転校してきて、私たちと仲良くなって。中学も高校も一緒で」
「まぁ、この町に学校は少なかったし、必然だね」
「それに大学も一緒で」
「まともな大学は、近くにここだけだったからね」
「三人とも、実家から通えなくないのに一人暮らししてさ。やっぱり楽しかったな。終わってみれば、本当に楽しかった」
ぱたぱたと、テーブルに水滴が落ちてきた。美冬の涙は、窓の外に降っているベタ雪のよう。触れたそばから融けていく儚い雪に、それは少しだけ似ている気がした。
ずっと三人だった。美冬の言うとおり、小学校のころからずっと。それが永遠に続くとはもちろん、誰も思ってなかっただろうけど。それでも三人の終わりは唐突で、思いもしないシナリオになった。
秋人に、恋人ができたのは大学三回生の冬のこと。そしてその彼女は、この「三人」でいることを酷く嫌がった。「他の女の子と、自分の彼氏が一緒にいるのは嫌なの」と、涙ながらに秋人に訴えたらしい。
彼女──確か名前はさくらと言ったっけ──の気持ちは、わからないでもない。同じ立場になったらそう思うのかも知れない。まぁ、恋人がいたためしはないから、あくまでこれは想像の域を出ないけど。
それから秋人は、徐々に、少しずつ三人でいる時間を減らしていった。
その冬が終わり、大学四回の春が来て。気がつけば夏になって、みんなの就職が決まった。
運良く三人とも、わりとちゃんとしたところに内定をもらったけど、秋人だけ地元を出て東京に行くことになった。もちろん、件のさくらと一緒にだ。
思えばあの時から、この三人はゆっくりと終わりに向かい始めたように思う。そして完全に終わってしまうのが、明日。つまりはそういうことだ。
「それで美冬。結局どんな話をしたのさ、秋人とは」
「……私、バカだからさ。あの時みたいに、あの夏みたいに、また言っちゃったんだ。秋人が好き、って」
「……バカだね、それは」
「わかってるよ。自覚してるよ。言わないでよ、夏月」
ずびび、と鼻を鳴らしながら言う美冬。溢れる涙を、テーブルに備え付けられたペーパーナプキンで拭いている。
一枚、また一枚。涙を吸ったナプキンは、くしゃりと丸められて。テーブルの端っこに、所在なげに佇んでいた。
「秋人の答えは?」
「そんなの決まってる。嬉しいけど、私の気持ちには応えられないって。それに、もうこの町に戻ることはないから、今までありがとうな、って。ばっさり振られたよ。もうばっさりと」
「秋人の実家、引越ししたもんね。まぁ、それは仕方ないことかな」
「仕方ない、で片付けたくない。まだ秋人のことが好きなんだよ、私は」
「でも仕方ない。仕方ないよ。美冬は、自分の気持ちに気がつくのが遅すぎた。秋人に彼女ができてから、自分の恋心に気がつくのはやっぱり、致命的に遅いよ。もっとあったと思うけどな。自分の気持ちに気がつくタイミングは」
美冬は鼻をずびずび鳴らしたまま、押し黙っていた。それをいいことに、ちょっとキツめのセリフを続けてやる。美冬にはわからせないといけないから。
「美冬の気持ちもわかるよ。きっと近すぎたんだよ、美冬と秋人は。近いのが当たり前で、一緒なのが当たり前で。だから秋人に彼女ができて距離が離れて、やっと秋人のことが好きだって自覚したんだと思う。まぁ、やっぱりちょっと遅かったけどね。いや、遅すぎたけどね」
「……去年の夏でも、遅かった?」
「一回目に振られた時? 強引に秋人を攫って花火大会に連れてって、そこで告白したっていうあの時?」
「うん。あの花火の夜」
「それでも充分に遅いよ。ていうか振られたってことが、全てを物語ってるよ。それにそこからだよ、秋人が三人でいるのを完全に止めたのって」
また美冬の鼻が鳴る。そして溜息をひとつ吐く。吐きたいのはどう考えてもこっちなんだけどなぁ。
「……どうして、あの子なのかな。どうして秋人は、あのさくらって子を選んだのかな。どう考えてもさ、似合ってないよ。だってあの子、色んなウワサがあるんだよ? それにさ、」
「美冬。それ以上は言わない方がいい。好きな人の好きな人を、そんな風に蔑むのは絶対に良くない。自分のレベルも落ちてくよ、それ」
「でも……」
「でもじゃない。だってでもない。勝ち負けでモノを語るのは好きじゃないけど、あえて言うよ。勝ったのはさくらって子で、美冬は負けたんだ。勝ったヤツを蔑むなんて、三流以下のすることだよ」
「じゃあ、どうすればいいの? 秋人を好きだっていうこの気持ちに、私はどう決着つければいいの?」
「決着はもうついてるよ。だからただ、美冬は負けたことを誇ればいい。負けた時こそ胸を張って、この経験を次に活かせばいいんだよ。そしてもっといい女になってさ、秋人を後悔させてやればいいよ。あの時、美冬を選んでおけばよかった、ってね」
「……できるかな。この気持ちを、次に活かすなんてできるのかな。忘れられるのかなぁ。秋人を好きだった、この気持ちを」
「その恋心はさ、いつか溶けてなくなるよ。春になったら雪が融けるように。融けない雪なんて、ないんだからさ」
「融けない雪はない、か……」
「だからほら、その小さくて控えめな胸をもっと張りなよ。一応、辛うじてはあるんだからさ」
「……うるさい。小さいとか控えめとか言われたくない!」
美冬はもう一度、鼻を大きく鳴らした。そしていつの間にか空になっていたマグカップを差し出して、お代わりと告げる。
まぁ、今日だけは二杯目を許そうか。苦い経験を癒すには、やっぱり甘いものが必要だろうから。
席を立って、二つのカップを持ってドリンクバーまで行こうとすると。ぽつりと、美冬が小さく呟くように言った。
「……ありがと、夏月。夏月が傍にいてくれて、本当によかった」
「どういたしまして」
そのままドリンクバーまで移動して。前のお客さんの順番待ちをしながら、何の気なしにファミレスの窓の外を眺めてみると。
──雪はいつの間にか、雨へと変わっていた。
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