六
「――この先も学び続け、思考を深め、様々な実りで彩られたより良い未来を生きていくことを祈念して、式辞と致します」
折角なので卒業式に参加して長い言葉をじっと聞いてみたけど、当事者が学生時代を思い返しながら、卒業する我々に激励を送るといった内容だった。式が終わっても印象に残っており、この先も唯一内容を思い出せる卒業式になるかもしれない。
学長が贈る言葉として選んだ論語の一節は、中学のときに暗記させられたものだった。しかし、勉学と思考はどちらが欠けてもよろしくないということを、初めて実感を伴って理解したように思う。言葉の印象は経験や知識が増えるにしたがって日々変わっていくのである。
式典会場のホテルから大学に戻って、卒業証書などを受け取ったらやることは終わった。夜に謝恩会に出席しないサークルの同期とごはんに行くまで時間がある。スーツなので着替えに帰らなくてもいい。
お手洗いで身だしなみを整えながら、鏡に近づいて瞬きしてみる。いいことありますようにと、おまじないがキラキラする。
四時過ぎ、去年の私がベンチに座っている時間だった。待ち合わせ場所に行くのは今日が最後だ。心の中ですべすべの石をなでる。
フリースペースでは卒業式の格好をした人がうろうろしている。窓際に並んだベンチのうち、真ん中の辺りには人が座っていた。うすいベージュのコートを羽織ったその人が佐折せんぱいに見えて、幻を追いかけるのはもうやめないと、と思った。
近くに座ろうと思って近づくと、その人は細い花束を持っていた。淡いピンクや白、黄色の花が蝶のように止まっていてきれいだ。
「綾目ちゃん」と花束の人が言った。幻聴かと思ったが、立ち上がって私を見てもう一度、「綾目ちゃん」と申し訳なさそうなせんぱいの声がした。
佐折せんぱい、と確認のため声に出す。
「ごめんなさい。卒業おめでとう」
花束を差し出されて、恐る恐る受け取った。しめった植物のにおい。たぶん、スイートピー。
「なんで、来てくれなかったんですか」
「ごめんね、ごめんなさい」とせんぱいは幽霊みたいな顔で言う。「合わせる顔が、なかった」
消えてしまわないように手を伸ばしたかったけど、かわりに花束をぎゅっと握った。
「合わせる顔ってなんですか。来るのが遅いですよ、一年経ってしまいました」
待ち合わせ場所で顔を合わせたら、一緒に駅まで行って、名残惜しく駅の中やお店を歩き回ったり、どこかのカフェでお話ししたりする。春休み、どこに行きましょうか、と本屋さんで情報誌をひらくけど、私はどこでもよかった。せんぱいはいつもやさしく明るくて、いろんなところを指さしては、見て、と言う。だから、せんぱいがいてくれたら、私は顔を上げてのびのび息をすることができる。
「せんぱい、どこかでお茶して行きませんか」
「それは、ちょっと」
せんぱいは消えそうな声とともに視線を影に落とした。
「じゃあ、次は」
「次は、わからないの」
「いつ頃になったら会えますか。会いたいんです、どうしても。せんぱい、佐折せんぱい、こっちを見てください……」
思わず手を伸ばしかけて、ぐっと堪えた。
「なんで」
ちらっと目に入った反射光みたいに、せんぱいはまたいなくなってしまいそうだった。ここは、一年前の続きではない。
「なんで、来てくれたんですか」
「今日会いに行かなかったら、もう二度と、会えないと思ったの」
「もっと早く来てくれたらよかったのに」
「合わせる顔が」
「どんな顔ですか」
ぽっかり間が空いて、せんぱいはぽつりと話した。
「大学院に行くわけでもなく、就職したわけでもなく、何も決めないまま卒業して、大学生でも正社員でもなく、何者でもなくなってしまったら、顔を合わせるのも、怖くなってしまって……」
「佐折せんぱいが何者でもなくなることはないです。せんぱいは佐折陽菜という人で、私の、せんぱい」
「大学を出たら、わたし、先輩でもなんでもない」
「出会ったときにせんぱいだったから、これからもずっとせんぱいです。どうか、次に会える日の約束をください。遠い記憶の幻になってもいい、さみしくても悲しくても、大事にしますから」
もう会いたくないとせんぱいが思うなら、引き止めてはいけない。もともと私は、終わりのためにここに寄ったのだから。空になった手を組み合わせているせんぱいと私の間には一年分の空白があって、これからの時間も今までの時間も、その中でひらひらと散っていく。
「もう会えないなら、ちゃんとさようならします」
私は震える片手を差し出した。
「最後に、握手してもいいですか」
せんぱいは泣きそうな顔をした。でも、私が差し出した挨拶を見つめて動かない。
「触れるのはやっぱり、だめですか」と落胆しかけたとき、せんぱいの両手につかまれた。
「触れたら、離したくなくなってしまう」
「離さないでください」
手をつないでくれない理由もそれですか、と聞けば小さくうなずいた。
「手をつないだら、離れる日が怖い」
「それまでの間が長いか短いかという差こそあれど、いつか必ず離れる日が来るんですよ。その日が来たら、その時に考えます」
実際はその日なんてわからなくて、一年間ずっと考えていた。だから、今日がその時だとはっきりわかるなら、まだいいほうだ。
「さようならと言ったほうがいいですか?」
せんぱいは頭を振って否定した。
「それなら」
声がかすれる。すべすべのやわらかい手を握った。
「またデートしてください」
せんぱいの両手は離れなかった。
思別 冬 @mzrtk_
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