来年春からの行先が決まっていく中、景色は鮮やかに移り変わって肌寒くなっていく。甘い香りがどこからともなく漂ってきて、心行くままに歩いた。

 思った通り、オレンジの絨毯が陽だまりのように広がっているところを見つける。あった、と笑顔で指さして教えてくれるせんぱいが木の下の陽だまりに立っている。私も近づいて、まだだれにも踏まれていない絨毯にちょっと入る。他のにおいがわからなくなりそう。

 小さな花がちらちら落ちてくる。せんぱいの髪についていても、かわいいから教えてあげない。 

 天然の香水ですよ。私たち、金木犀を浴びておんなじにおいになって、そのままもうちょっとお散歩しましょうよ。

 ぐるぐる歩き回って、どこに行こうとしていたんだっけ、そうそう大学の図書館だった、と立ち止まり現在地を確認する。

 図書館で資料をあさるときは別行動だ。いつも時間を決めて、フリースペースのベンチに待ち合わせにしていた。

 本棚の隙間を泳ぎ、文献を渡り歩いて欲しい資料を集めていく。やっと解答のための材料が集まったと思えば、さらに問題が提示されて、私の認識があっているのか心配になり、また文献の森へ足を踏み入れる。調べたいことはどこまでも増えていくし、溝にはまってしまうこともあるから、切りをつけるようにしている。

 黙々と埋もれていたら覚えのない時間になっていることも多々ある。外はすっかり暗くなってしまった。もう夜ごはんを食べ始める頃だ。でも外に出る前に、いつものベンチにいそいそと向かう。

 そこにせんぱいはいない。いつだっていない。でも今日は、「あーや?」と座っている人が私を見た。

 優しい低い声は、もう懐かしい気がするあだ名をもう一度呼んだ。上品な深緑色のコートが似合うその人に、「すみれこ先輩」と私は応えた。

「やっぱり、あーやだ」

 すらりと立ち上がった先輩は相変わらず背が高くて、その上かっこいいブーツを履いていた。

「会えて嬉しいよ」

「びっくりしました、お久しぶりです」

 卒業して一年も経ってないけど、と私たちは笑う。なんだか遠い昔みたいだ。懐かしく鮮やかにすみれこ先輩がいる風景を思い出した。そこには佐折せんぱいもいる。

「どうしてここにいらっしゃるんです?」

「人と会う約束をしているんだ」

 私のまわりの人はなぜか会う人を最初に明かさない。

「サークルの人とはよく会いますか」

「同期とはよく会うよ。生存を確認すると称して同期や先輩と集まったこともあったかな」

「そうなんですね」とつぶやいたきり、静かになった。ベンチに座ると、すみれこ先輩もとなりに腰を下ろした。このままもう少し待っていたら、先輩方がにぎやかに集まって来て、まっちゃんが来て、教授も来るかもしれなくて、それから、佐折せんぱいだって来るんじゃないかという気がした。

「だれかと待ち合わせをしているの?」

「いいえ」と答えながら、三月からずっと待ち合わせをしているのに、即座に否定してしまった自分にうろたえた。

「佐折せんぱいとはお会いしましたか」

「さおりんとは会っていないな。あーやのほうが会っているんじゃないの?」

「いえ、会っていないんです」

「僕らが四年生のときが最後だったりする?」

「はい。なんなら卒業したことすら確認できていません」

「へえ」

 視線を感じて横を向くことができない。

「だれか、佐折せんぱいのこと知っている人はいないかなと思う一方で、だれかが知っていたら、私はきっとショックを受けるのだろうと、思います」

「そうだろうね。あーやには何も知らせてくれなかったことになってしまうんだものね」

 いやみのつもりがないとわかっていても、少し、胸が冷えるような心地がした。

「機会があったら、またみんなでご飯でも行こう」

 ちらと見たら、自身の長い髪を梳きながら「ね」とすみれこ先輩は言う。瞬きする先輩のまぶたがきらめいた。

 ほのかな約束が毒にも薬にもなることを、先輩はわかって言っているのだろうか。約束は、明日を迎えるための目印。見失わないように、消してしまわないように、目を凝らして息を潜めてずっと見ている。

「すみれこせんぱーい」

 ふわふわの声が飛んできて、やってきたのはまっちゃんだった。その後ろから、見慣れない風景におどおどする猫のような御尾くんがするするとついてくる。

「まつきちー」

 二人は両手を振りながら駆け寄った。高校生かな。

 私に気がついた御尾くんが吸い込まれるようにやって来た。

「今日はお二人でごはんなんだそうです」

「そうなんかー」

 なんだか名残惜しそうにまっちゃんをながめる御尾くんにつられて、彼らを見る。美しい先輩。佐折せんぱいと一緒にいる姿を見て胸がざわざわしたこともある。そういう私だって、すみれこ先輩と一緒にいることがあったのに。今だって。

「そうそう、このグリッターアイシャドウ、試供品なんだけどあげるね」

 ベンチに戻ってきたすみれこ先輩が、唐突に何かをくれた。透明な小さい容器に白いキラキラが入っているようだ。

「いいことありますようにって、まぶたにちょっとのせるのがおすすめ。持ち合わせが二個しかないからまつきちにあげたけど、みゃおはとくに似合いそう。よかったらつけてみてね」

 すみれこ先輩に真っ直ぐ見つめられた御尾くんは訝しげな顔をした。「たしかに、みおに似合うかもしれない」とまっちゃんはにこにこした。

「今はつけませんよ」

「うん。もしつけたら、瞬いてみせてね」

「いや何言ってるんですか、そんなこと」

 ほかの人の前で言わないでくださいよ、と御尾くんの声は消えていった。ふむ、とすみれこ先輩を見る。ふうむ、とすみれこ先輩はうなずいた。

「それでは申し訳ないが、もう行くね。あーやとみゃおにもまた会えたら嬉しいな」

 ばいばーい、と去っていくすみれこ先輩たちに手を振って見送った。私も帰るので方向は同じなのだが。御尾くんはため息をついた。

「久しぶりでも調子が狂うんだね」

「ええ、やはりすみれこ先輩に認知されると自分が矮小な存在のように感じます……ちょっと喉が渇きました」

「あー私も」

「自販機あっちでしたよね」

 思いもよらない人がやってきて、颯爽と立ち去った。それだけなのに疲れてしまった我々は、自販機の前でぼんやりした。缶のレモンソーダは一人だと飲み切れない、とか考える。御尾くんはブラックコーヒーを買ってごくごく飲んだ。私は、微糖の紅茶を選んだ。

「あんまり甘くない」

「そりゃ微糖ですから当たり前ですよ」

 話しながらベンチに座る。さみしいなあと思ったら、「そうですね」と返事があった。

「声に出ていたか」

「だいぶはっきり言っていましたけど。人と一緒にいるのに無意識にさみしいってどんだけさみしいんですか先輩」

「でも今、そうですねって言わなかった?」

「言いましたけど?」

 帰ったら甘いミルクティーを飲もう。眉をひそめる御尾くんもたぶん、甘いカフェオレとか飲みたくなっているんじゃないだろうか。

「どうしたら、さみしくなくなりますかね」

「うーん、次に会う日の約束をするとか、次の発表に向けて資料を読み込むとか」

「資料読み込みするかあ」

「私は卒論だあ」

 身体が潤った私たちはようやく帰路についた。

 駅で別れて一人になると、さみしさはいよいよとなりにやってくる。鞄の中で石を触った。季節が冷たくなるにつれて、石は氷みたいになっていく。

 涼しくなってきましたね、と無言のせんぱいに送信する。さみしい間はずっと佐折せんぱいが見えるので、さみしいままでいいと私は思っている。

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