夏は海に行かない。館内のベンチに座って、陰の中からまぶしい外を見る。机で作業するには眠いときや気分転換したいときは、二人してここに座って各々資料を読んでいた。終わったらアイス食べに行きましょうよ、と誘えば「いいね。よし、がんばろ」とせんぱいは目を輝かせた。今日はクリームソーダを食べに行きましょう。今日はかき氷の気分です。今日はソフトクリームがいいな。でも、せんぱいが来てくれないから、今日もアルバイトの時間まで学内にいるしかないんですけど。

 気が散ってしょうがない、資料と石を鞄に詰めて外に飛び出した。影そのものになってしまいそうな暑さだ。私はせんぱいみたいにお気に入りの陰なんて持ち歩いていないから、なるべく日陰を歩くしかない。

 喫茶店の前を通りかかって、看板に目が吸い寄せられる。レモンティーサイダー。あれ飲んでみたい、日陰の夏をぎゅっと閉じ込めたみたいですてきじゃないですか。炭酸の紅茶は飲んだことがないしおいしいのかわからないけど、入ってみましょうよ、ね、いいでしょせんぱい。ほら、席も空きがありますよ。いいんじゃない、行っておいで。せんぱいもいっしょに行くんですよ。

 返事はなく、窓ガラスに映っているのは私ひとり。よくよく見てもひとり。だれか手を振っているような気がしたんだけどな。

 ひらひら、ひらひらと揺れている何かにだんだん焦点が合って、それは窓ガラスの向こうでひらめいているとわかった。手を振っている人は同期のまっちゃんだった。

 会釈して離れようとしたら、手のひらはどうやら店内においでと示している。汗が目に入って、急に身体が重力を思い出す。正面に回って取っ手を引いた。

 つやりと飴色の店内はほどよくうす暗い。冷気のおかげで呼吸しやすくなってくる。まっちゃんのいる窓際に行くと「何か飲んで行ったら?」とメニューを差し出された。店員さんをつかまえてアイスコーヒーをひとつ注文し、席に着く。

「具合悪そうだったよ」

「ちょっと幻覚見てた」

「それは相当だね」

 まっちゃんの飲み物は気泡立ちのぼる明るい茶色。ふちにレモンがかかっている。

「まっちゃんは何してた?」

「人と待ち合わせ」

「あ、それなら早めにおいとまするよ」

「大丈夫だからゆっくりしていって」

 にっこり笑う彼の言い方に強制力はないけど、お言葉に甘えたくなる。私はすぐ切羽詰まってしまうから、まっちゃんに助けられることが多かった。初めての研究発表で思うように話せなくなったときも、とんとんと背中をたたくように語りかけてくれたのは彼だ。

 先輩方の輪にもするりと入っては静かに楽しそうに語っているところをよく見た。

「卒業した先輩方とは会った?」

「そのうち会う予定があるよ」

 なかなか予定が会わなくてね、とまっちゃんは言う。

「じゃあ、佐折せんぱいの話はないか」

「相変わらずです」

 まっちゃんがちょっと背筋をのばすと、アイスコーヒーが来た。冷たくて、苦い。

「綾さんは、待っているの?」と聞かれて、「何を」と聞き返した。

「佐折先輩のこと」

 一人でベンチに座っていたときの肌触りがよみがえる。

「待っている、というより諦められない、と言ったほうがいいだろう」

「そっか」

「諦めたほうがいいと思っているけど」

 目をそらして外を見る。陰の中にいると、光はよりまぶしい。ここはこんなに暗かったかな。せんぱいと一緒に来たときはもっと明るかったような気がするけど、夏じゃなかったのかもしれない。よく一緒に歩き回ったし、一緒に座っていた。たまには水族館でも行ってみませんか、と聞いてみたら「いいかもしれない」と言われて、お出かけしたのは夏だった。

 これってデートじゃないですか?

 いつものはデートじゃないの?

 デートと呼んでいいならデートです。

 デートと呼びたいならデートでいいと思う。

 デートを連呼し過ぎてよくわからなくなったことを思い出す。たくさんの魚がきらめいている大水槽の前だった。

「諦められなくてもいいと思う」とまっちゃんが言って、魚たちは光の中に散った。「待っていたらまた会えるかもしれないし、こうして待っている時間が」

 言葉が途切れる。まっちゃんの迷いを一瞬、感じた。

「お別れと、和解していく時間かもしれない」

 違う、お別れじゃない、と抵抗感を覚えて、私は自分が怒っていることに気がつく。悲しいと思っていたのだけど、怒っている。何で怒っているのだろう、何に怒っているのだろう。別れの挨拶をしてもらえなかったこと?

「和解なんて無理だ」

「うん、難しいよね」

 まっちゃんはゆっくりと瞬きをした。

「ごめんね、つい、助けになれないだろうかと言葉を探してしまう……何もできないけど、ぜんぶよくなるように、祈ってる」

「ありがとう」

 少しでも自分を思ってくれる人がいることは救いだ。三年分のまっちゃんしか知らないけど、本当に、真面目でやさしい人だと思った。

「まっちゃんに幸あれ」

「や~ありがとうございます」

 軽やかなベルの音がした。熱気を連れている気配が近づいてきて、ほのかに風が吹く。顔を上げると後輩が仁王立ちしていた。

「わお、御尾みおくんだったのか」

「遅くなってすみません。綾目先輩はこんなところで何してるんですか?」

 今日も口調がとげとげしている。

「悩み相談室を開いてもらってただけだよ。待ち人も来たみたいだし、私は帰るね」

 御尾くんはまっちゃんを見て、それから私をじっとにらんで、「座ってください」と言った。なんだか説教でもされるような雰囲気である。座れと言うので座り直してストローを吸った。

 御尾くんは私のとなりに座ってメニューをひらく。いや、まっちゃんのほうに座らんのかい。

松木まつきせんぱいは何にします? やっぱりこの洋風抹茶パフェですか?」

「さすが、わかってる」

 御尾くんは私のほうを見てものすごく得意げな顔をした。

「綾目先輩はどうしますか」

「どうって何」

「何を食いますかと聞いているのです」

 まっちゃんはうんうんとうなずいている。べつに食べなくていいんだけど、とメニューを見たらおなかが大声で空きを主張してきた。見なくても御尾くんが思い通りにいった猫みたいな顔をしているのがわかる。私はレアチーズケーキを頼んだ。

「脳に糖分やって元気出してください」と御尾くんは言う。

「ありがとう、相変わらず優しいね」

「べつに俺は綾目先輩がずっと真顔だと佐折先輩のこと考えているんだろうなって思って悲しくなるからいやなだけですし優しくするつもりは毛頭ありません」

「かわいい後輩だな~」

「でしょ~」

 何がでしょ~だ、とぶつぶつ言う御尾くんをやわらかくなだめるまっちゃんは、どんな時より穏やかな顔をしている。私と一緒にいた佐折せんぱいは、どんな顔をしていたのだろう。鞄の中にあるすべすべの石を頭の中で取り出して、なでる。

 あとでこっそり、毎日暑いですね、とメッセージを送った。この夏のどこかに、せんぱいはいるのだろうか。ねえ、せんぱい。返事をしてほしい。

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