第8話 後輩は鍛える。下心がないと分かるから訴えられない

「おーい、せんぱーい。こっちでーす!」


 相も変わらず元気よく手を振ってくる後輩は随分と可愛い。小さくて、元気で、子犬みたいで。視界にその姿を捉えるだけで自然と笑みが溢れてしまう。


「悪い。待ったか?」

「時間ぴったりですので大丈夫ですよ!」


 ただ一つ。残念なことがあるとすれば。初めて学校の外で約束をして会うことになったのにちゃんとした私服姿を見れないことくらいだ。


 今日の森下が着ているのは制服でも体操着でもない、ジャージ。細い体をいっぱい動かせるように選んだのだろうか?


 そんな彼女をチラッと見て気づかれないようにため息をついた。


 絶対、何でも似合いそうだよな。ファッションに詳しくないけど色々と着せてみたい。俺みたいなちょっと残念センスが選んだコーデも着こなせるはずだから。

 だって、ジャージでさえ着こなしてるし!


「久しぶりですね、せんぱい」

「そうだな。元気だったか?」


 今日、彼女と会うのは五日ぶりだった。

 学校はGWに突入したのだ。初日、もしかすると後輩から連絡がくるかもと思っていたけどなかった。二日目、三日目と。何もない日が続いた。

 別に会う約束をしていた訳でもないし、俺達の関係がいまいちなんなのか分からないのでこれが当然だろう。ただの先輩と後輩なのだから気にすることはない。むしろ、そんな関係で毎日一緒にいた方がどうかしてたというものだ。

 だというのに、毎日会っていたことが急になくなって少し不安だったのも事実。


「はい、とっても元気です。せんぱいは?」

「今日が一番かな」

「宿題に追われていたんですか?」

「あー……課題多かったからな。初日に終わらせたけど」

「早すぎません? 暇人じゃないですか」

「うるせ」


 楽しそうに笑う森下の額を軽く小突く。

 誰のせいだと思ってるんだ、まったく。それに、おまえがいなくても俺は課題を早く終わらせておくタイプなんだよ。


「そういうおまえはちゃんと終わらせてるんだろうな?」

「安心してください」

「不安だなー……」


 でも、まあ、あれだけ毎日うるさく誘ってきてたのに急に音沙汰がなくなったんだ。ちゃんと終わらせているんだろう。休みももう終わることだし。


「で、今日はどういったご用件で?」


 ずっと、連絡もなかったのに昨日の夜、いきなり電話がかかってきた。動きやすい格好で河川敷に集合してください、とのことだった。


「もう少しすればスポーツテストがあるじゃないですか」

「そうだな」

「だから、トレーニングして備えようかと」

「偉いな。でも、一日だけやってもあんまり意味はないんじゃないか?」


 俺みたいに何もせずに迎えて惨めな結果を残すよりはましだろうけど。


「ちゃんと毎日走ってますよ?」

「え、でも、何も聞かされてないけど」

「言ってないですもん」


 じゃあ、休みの間一人で河川敷を走って鍛えてたってことか?

 その姿を想像するとなんとも言えない気持ちになる。


「言ってくれよ。付き合うから」

「だって、休みの日くらいゆっくりしたいんじゃないかと思って」


 確かに、休みの日に呼び出されたことは今までに一度もなかった。連絡先を交換していなかったから、ってこともあるけど気遣ってくれてたのか。


「じゃあ、今日はどうして」

「……会いたくなったので」


 もう、なんだよ、その可愛い理由。俺だって会いたかったよ!


「いいんだよ、気軽に誘ってくれたら。この前も言ったけど、嫌なら逃げるし用事があればちゃんと断るから」

「そうは言いますけどね、誘う方は断られたらどうしようって不安なんですよ」


 その理由は一理ある。

 だから、学校のある日しか誘われてなかったのか。


「頑張ってくれたんだな。ありがと」


 誘われるだけを待っていた俺より誘ってくれた彼女の方がよっぽど先輩らしい。今度は自分から何か誘ってみよう。


「せんぱいがどうでもいい人だったら気にしないで済むんですけどね」


 思わず、頬が熱くなるのを感じて森下を見れなくなった。


「どうかしました?」

「……ほんと、そういうとこだぞ、おまえ」


 首を傾げて考える森下。

 まるで、特別だと言われてるみたいだから俺もおまえのことで頭がいっぱいなんだよ。


「へんてこなせんぱいですね」

「なんとでも言ってくれ……」

「せんぱいには体より頭のトレーニングが必要でしたね」

「それ、そっくりそのままお返しするわ」


 さて、折角家を出てきたんだし今日は後輩に付き合ってしっかり体を動かそう。どうせなら、少しでも良い結果を残したい。

 軽く準備運動を済ませ、河川敷に設置されてあるランニングコースを彼女のペースに合わせてゆっくりと走る。


 犬の散歩をしている人や本格的なトレーニングをしている人達に混じって爽やかな風を受けるのが気持ちいい。


「長年、住んでるけど河川敷なんて初めて来たよ」

「私も引っ越してきたばかりで初めてです」

「へー、引っ越してきたんだ」

「親の都合で。だから、この前せんぱいが転校とか言い出して悲しくなったんですよ」

「リアルにありそうなことだもんな。悪い」

「まったくです。離れちゃ嫌ですからね」

「速度、合わせてるだろ」


 引き離そうと思えば簡単に出来る。

 けど、嫌らしいのでゆっくりとその後も彼女のペースに合わせた。


 しばらく走り込み、時刻は昼時になった。

 ここで、問題が一つ。

 昼ご飯、どうしよう?


 今日は平日じゃないのでお弁当はもちろんない。財布は持ってきてるしどっかに食べに行くか。この近くだと――。


 近所の風景を思い返していると隣で後輩がバサッと音を立てて、レジャーシートを敷いた。


「せんぱい、お隣どうぞ」


 この前とは逆で自分の隣をぽんぽんと叩いてきたので静かにお邪魔する。


「あ、でも。ご飯ないから買ってこないと」


 立ち上がろうとするときゅっと袖を掴まれる。見ると森下はどこか不安そうにしながらもじもじと体を揺らしていた。


「ちゃんと戻ってくるから」

「そ、そうではなくてですね……これ」


 持ってきていたリュックサックから包み箱が出される。

 中身はいくつかのおにぎりが入っていた。


「作ってきたのか?」


 首を小さく縦に振る後輩。


「み、みつ……」

「みつ?」

「み、みつ……三つ以上は食べていいのでせんぱいもどうですか?」


 なんだ、その優しいのか優しくないのかよく分からないセリフは。いや、作ってくれたんだから優しいんだけど。


「良いのか?」


 もう一度、首をコクコクと振る森下。

 俺はその隣に腰を下ろすと後輩は僅かに体を強張らせた。


「ど、どうぞ」


 不安そうに手渡されたおにぎりをじっと見つめる。

 初めての女の子の手作り。緊張する。


「い、いただきます」


 じっと見つめられながら、丸められた白米を口に含む。


「ど、どうですか?」

「おいしい」

「本当ですか?」


 自信がないのか、まだ不安そうだったのでパクパクと食べ進め、次に手を伸ばした。

 俺はどうにも口下手だ。今だって、もっと上手な褒め言葉があったかもしれないけど、おいしいとしか出てこない。なら、せめて行動で示すべきだ。本当においしいんだから。


 声にならない小さな声が聞こえ、目を向けると森下は指を組ながら口元を隠していた。頬はうっすらと赤くなっていて喜んでいることが窺える。


 思わず食べるのを止めて見つめてしまっていると気づいたのか後輩と目が合った。

 その瞬間、何故か目を逸らした。

 ゆっくりと視線を向けると後輩も同じように反対側を向いていてくすぐったい。


「こ、これだけの量を作るの大変だったんじゃないか?」

「し、塩と海苔だけですから」


 おにぎりは全部塩味で海苔が巻かれている質素なもの。具材入りは一つも見受けられない。


「でも、時間はかかっただろ。ありがとう」

「おかずも作れたら良かったんですけどね」

「これだけで十分だよ。満足してる」


 料理が得意なのかは知らないけど恐らくはあまり得意ではないのだろう。不器用だとも言っていたし。指が傷だらけになってる姿を見ずに済んで良かった。


「……あの、せんぱい。毎日、食べたくなりましたか?」

「流石におにぎりだけを毎日はな……他の物も食べたい」

「ですよね。やっぱり、せんぱいのお母様に早く会いたいです」

「なんで!?」

「いずれ、征服しに行くので早く会わせてくださいね」

「俺は身内を簡単に売ったりしないんだ」


 それでなくとも、可愛いものが大好きな母さんにこいつを会わせたらどうなることか不安なんだから。出来るだけ、遠ざけておかないと。


「時間の問題ですので諦めて楽になりましょうよ」

「ギリギリまで耐える」

「頑固者~」


 結局、初めての女子の手作りイベントというのもいつもみたいにギャーギャー言い合いながら終了した。

 まあ、変にギクシャクするよりは俺達らしくて良かったと思う。


「ご馳走さま」

「これで、これまでせんぱいのおかずを食べたのチャラにしてくださいね」

「そういう企みもあったのか」

「へへ。今度からも楽しみです」

「そしたら、また作ってくれよ。おにぎりだけでも良いから」

「その時は一品くらいおかずも作れるよう頑張ります!」

「ん、期待してる」


 さて、これからどうするんだろう?

 もう一回、走ったりするのか? それとも、何か違う方法で鍛えるのか?


「この後は何をするんだ?」

「作戦会議です」

「なんの?」

「スポーツテストについてです。どの種目だと一位になれると思いますか?」


 答えられなかった。この前のことを思い出すとお世辞にもどの種目でも一位に輝くビジョンが見えない。


「こ、今年は難しいんじゃないか?」

「うーん、やっぱり、そうですかね」

「てか、一位目指してるんだ」

「はい、そろそろ本格的に征服し始めようかと思いまして」


 初めて出会った日、彼女は言っていた。

 世界を征服するためにも先ずはこの学校から征服してやると。


「いまいちよく分からないんだけど……どうすれば征服したことになるんだ?」

「では、改めて説明しましょう。この前、コンビニで地獄のような体験をしたじゃないですか」

「ほとんど俺がな」

「ああいう場合はコンビニに行ってやったとお菓子を食べてやった、という二つの征服をしたことになります」


 ふむ。こんな可愛い子からはあまり聞きたくない命令形を耳にしてしまったが大体は把握できた。


「つまり、相手より上に立つってことか」

「そうです。正解です」


 相手がどれだけ強くても、弱かった主人公が仲間と一緒に勝利し、夢を叶える展開は漫画で何度も見てきたことがある。

 確かに、あれも違う視点から見れば征服したことになるのか。

 思ってた以上には簡単な話だった。


「てっきり、もっと難しいことをするんだと思ってた」

「実際、難しいですよ。相手より上に立つのって」


 そうだろう。特に、自分で不器用だと言い張る彼女だ。何によるかだけど、征服するのは一筋縄ではいかない。


「方法はなんでもいいのか?」

「はい。だからこそ、スポーツテストでクラスか学年一位になって一年生を征服しようかなと思ったんです」

「そのためのトレーニングか」


 真面目なんだけどちょっとずれてるんだよな。だいたい、可愛い選手権でも行えば余裕で全員を征服できるであろうに。


「じゃあ、どの種目かを選んで取り組んだ方がいいな。ボール投げと長座体前屈なら可能性は高いと思う」


 足を使う種目よりは確実に。


「ボール投げですか……せんぱい、この筋力でもいけると思いますか?」


 力こぶを作りたいのだろう。

 でも、袖を捲ってから腕を曲げてもそこは少しも変わらず真っ平らなままだった。


「失礼なことを考えられてる気がします」

「気のせいだ。どこも見てない」


 無罪をきちんと主張しておく。

 しかし、あの細い腕ではボールを投げてもあんまり遠くへ飛ばせそうにないな。


「私だって少しはあるんですから。ほら」


 手をとられ自分の二の腕へと誘導される。

 突然のことで思わず弱めに揉んでしまった。手のひらが柔らかくてつるつるな感触を堪能しそうになる。


「どうですか? 少しはあるでしょう?」

「あ、あーちょっとだけな。ちょっとだけ」


 ほんと、何も感じないんだろうか? 二の腕って確か胸と同じ柔らかさって聞いたことがあるけど……。

 混乱している俺なんて知らんぷりなのか、後輩はぶつぶつ何かを呟いている。

 きっと、ボール投げは難しいと判断したんだろう。


 次に長座体前屈を確認してみても結果は微妙だった。


「ふんぬぐぐぐ……」


 一生懸命腕を伸ばそうとするが爪先に手が届くことはなかった。


「腕立てでもして、ボール投げに備えた方が良さそうだな」

「腕立て……苦手なんですよね」


 試しにレジャーシートの上で格好をとる森下。か細い腕が既にぷるぷると震えていて、女の子だということを実感させられる。

 苦しそうにしたまま、その体勢を続けている。

 苦手って言うより出来ない、だな。


「せ、せんぱい!? 急に何を!?」

「支えてるから曲げてみ。落ちたりしないから」


 彼女を跨ぐように立ち、腰を曲げて腹部の下に両手を潜り込ませ、支えるようにそっと添える。


「ゆっくり下げれる所まで頑張れ」

「うう……下心がないと分かるから訴えられない」


 聞こえないような声で何か言いながら体をゆっくりと動かしていく森下。彼女の動きに合わせて腕に力を入れて可愛い顔が傷つかないように勤める。

 三回繰り返し、森下は限界を迎えた。


「偉い。よく頑張ったな」

「せんぱい、セクハラで訴えられないように気をつけてください」

「はあ!?」


 仰向けで見上げながら、言われようのないことを口にされる。

 彼女は息を切らしながらちょっと拗ねたように口を尖らせていた。

 え、怒ってる? 何かやらかしたっけ?


 いや、考えてみてもやらかしてないはず。傷が出来ないように支えたし、褒めたし対応は完璧。

 つまり、俺の気のせいか。


「ほら、水でも飲んで回復しな」


 起きるのが辛そうだったので背中に腕を回して優しく支えると森下は頬を真っ赤に染めてきっと睨んできた。


「ほんと、そういうとこですよ!」

「え、これがセクハラなのか!?」


 ただ、優しくしてるだけなのに?

 そう思った。けど、よくよく考えたら俺が間違っていた。彼女でもない女の子に許可もなく度々触れていたんだから。


「ご、ごめん。でも、そんな気はないから」

「……分かってますよ。せんぱいがそんな人じゃないってことくらい」


 信じてほしかったことを信じてくれて、全身から力が抜けていくように安心した。強張っていた腕が軽い。


「だから、不安なんですよ。私以外にも、誰彼構わずにやりそうで」

「そんなのするはずないだろ。俺にとって特別なのはおまえだけだ」


 世界を征服する、なんてこの世で言っている女の子は彼女だけなんだから。


「ん、どうした? 顔、真っ赤だぞ?」


 気が付いたら後輩の顔が真っ赤に染まっていた。

 心配になって覗き込むとビクッとさせて目を閉じられる。


「本格的な暑さはまだまだだけど気温は高そうだからな」


 空を見上げれば太陽がギラギラと輝いていてこれ以上の運動のしすぎは支障をきたすかもしれない。


「今日はもうゆっくりして過ごすか」

「……ほんと、そういうとこですよ……」


 森下の隣に座れば拗ねたように小さく呟かれた声が聞こえた。

 この時の彼女は普段よりも一層小さく見えた。

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