幕間 虜囚


「――おい、起きろじじいども! 作業の時間だ!」


 しゃがれた怒鳴り声とともに、横たわった一人の老人の脇腹に、黒い長靴ブーツの爪先が突き刺さる。老人が痛みに思わず身体を折ると、残忍な忍び笑いと罵声が上から浴びせかけられた。


「寝ぼけてる場合じゃねえぞ! とっとと支度しろ!」

「老体に鞭打つ真似をするとは、教育がなっとらんな……まったく嘆かわしい限りじゃ」


 恫喝に屈することなく鼻で笑い飛ばした老人に、青筋を立てた恰幅のいい男は、拳を振り上げる。一方余裕の表情で寝ころんだままの小柄な老人は、鷹のような鋭いまなざしで、いいのか、と続けた。


「あまりわしらを痛めつければ、動くことができなくなるぞ。そうなれば作業は捗らず、本末転倒じゃ。お主らは今、愚かにも自分で自分の首を絞めておる。いいのかのう、雇い主の不興を買うことになっても?」

「……口の減らない、くそじじいがっ!」


 老人の言が正論であると認めるのが癪だったのか、舌打ちをした男は唾を飛ばしてきた。それをひょいと避けた老人を忌々しげに睨みつけ、五分で支度しろ! と捨て台詞を残し、男は牢から出て行った。


「……まったく、見てるこっちがひやひやするから止しとくれよ、ムジカさん」

「む? 何か肝を冷やすようなことがあったかの、ヤコブ?」


 まったく無礼千万な奴らじゃ、とムジカがぶつぶつ呟きながら作業着に着替えていると、先程まで影のごとく気配を潜めていたヤコブは、苦笑しながら告げてきた。


「いつか殺されるんじゃないかって、毎朝、心臓に悪い思いをしてるさ。せめてもう少し、大人しくしてみたらどうだい?」

「これでも十分、控えめにしとるんじゃがのう……。家ではもっと好き勝手しとったぞ」


 道具が所定の位置にすべて収まっているかを確かめつつ返すと、ヤコブが一瞬支度の手を止めた気配を感じた。


「それはさぞかし、苦労が偲ばれる……」

「ん? どういう意味じゃ?」

「……何でもないよ。それじゃ、お先に」


 問い詰めようとした矢先に、手早く準備を終えたヤコブはそそくさと牢を出て行った。あれは逃げたな、と後で追及する意志を固めたムジカは、ゆっくりと立ち上がる。硬い石床の上に寝転がっていたせいか、身体の至る所が鈍い痛みを訴えてきた。


「まったく、年は食うもんじゃないのう……寒さが堪えること堪えること」


 凝り固まった肩と首をぐるりと回し、ぼき、と音を立ててから、ムジカは牢の出入り口へと向かう。


(……まったく、ヤコブの奴めが余計なことを言うから、思い出しちまった)


 歩き出したムジカの脳裡に浮かんだのは、不肖の弟子の顔だった。

 憎たらしいほど可愛げのない奴ではあるが、自分が失踪して、行方を探さないほど情のない弟子ではない。むしろ逆だろう、とムジカは踏んでいた。

 ――だが、今回ばかりはそれが仇となる。

 ぼりぼりと灰銀色の髪を掻きつつ、黒い金属環を首に巻かれたムジカは願う。


(ジーク、頼むから――お前だけは、捕まってくれるなよ)


 ……


 廊下を進み、長い階段を下ってゆけば、極寒の空気が足元を漂い始める。さながら真冬の山中のごとき寒気に身を震わせるうちに、次第に弟子の面影は遠ざかり、ムジカの意識は修繕師としてのそれへと切り替わってゆく。


 白い吐息を纏いつつ、滑りやすい段差を一歩、一歩と慎重に踏み締めていくと、やがて、不意に視界が開けた。


 およそ人間が存在するには適していない、殺風景な、だだっ広い無機質な空間。

 冷え切った鈍色の金属板の上を歩き、ムジカは、部屋の最奥へと向かう。

 何度目にしても慣れることのない、あまりに痛ましい光景が、今日も否応なしに視界に映る。


 無意識に双眸を眇めたムジカが仰ぎ見る、その、視線の先には。



 ――磔のごとく両手足を拘束された、一人の少女の姿があった。



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