第三章 嘘と真実
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スヴェルク北部近郊、ノーデル森林地帯。
ノーデル山の雪解け水が流れ込むため、年間を通して水温が極めて低く、鏡のように澄んだ湖面が特徴的な、その湖の畔で。
水面を覗き込むようにして膝を抱えたチセは、人気のない針葉樹林の只中にいるにもかかわらず、ひっそりとした声でジークに問うてきた。
「ねえジーク、ロウニさんってどんな人なの?」
「俺も二、三回しか会ったことはないけど、気のいい人だったと思う。あと、チセに負けず劣らず好奇心旺盛だな」
からかうように返して視線をやると、ジークの予想に反して、チセは「そうなんだ」とぎこちない笑みを浮かべたきり、口を噤んでしまった。
(……こりゃ、エレオノールたちの一件が相当堪えてるな)
チセが塞ぎ込むのも無理はない、と内心嘆息する。
ジークとて、二人の身を案じていない訳ではない。確かにエレオノールは強いが、彼女は病に侵されている身だ。敵を迎え撃つ過程で能力を使えば、体調が悪化する可能性は極めて高い。
ゆえに、彼女が口にしていた通り、街の下に隠された地下空間で、嵐が通り過ぎるまで潜伏していてくれればよいと思っていたのだが。
(てっきり、すぐにこっちを追ってくると踏んでたけど――予想が外れたな)
エレオノールの能力の特性上、あの街にジークたちが残っていても、戦力にはならなかったはずだ。せめて敵をこちらに引き付けることができれば、と思ってすぐさま街を出たものの、現実はそう上手くは運ばなかった。
(そりゃ、敵襲の可能性が高い場所に、友達を置き去りにするのは辛いわな……)
ジークとて、忸怩たる思いを感じていないといえば嘘になる。ましてチセは、エレオノールと友人になったばかりだった。姉のこともあり、ただでさえ自責の念を抱きがちな彼女に、あまり落ち込むなという方が無理な話ではあるが。
(――こういう時こそ、いつもの切り替えの早さの出番だろ、チセ)
いつもあっけらかんと明るいチセが、黙って塞ぎ込んでいるのは、どうにも調子が狂う。新たな襲撃に備え、ジーク一人でスヴェルクの街で情報収集をしてくると言った時も、チセは仕方がない、と力なく頷いただけだった。
(……ロウニに会うついでに、チセの姉貴と、エレオノールたちの情報をできるだけ集めてみるか)
友人たちの無事が分かれば、チセの気分もきっと上向くはずだ、とジークはばさりと外套を羽織り、「出かけてくるぞ」とチセに一声掛けてから、スヴェルクの街を目指した。
周囲に細心の注意を払いつつ、ジークはスヴェルクの街に足を踏み入れた。気配を探りがてらそれとなく視線を巡らせれば、かつて師と訪れた時と、ほとんど変わらぬ風景が目に映る。
道に敷かれた古い石畳と、街を貫く運河を行き交う渡し舟。漕ぎ手の朗々とした掛け声と、鼻先に運ばれてくる、かすかな潮の香り。
石造りの家の軒先に植えられた、鮮やかな秋桜の色彩を見るともなしに眺めていると、チセが来ていれば大喜びしただろうな、とはしゃぐ彼女の顔が思い浮かんだ。――土産は食べ物が一番喜びそうだが、案外花でもいいかもしれない。
(……そういえば、じじいと前にこの街に来た時は、ロウニと二人でしばらく何か話し込んでたよな)
通りを歩きながら取り留めもないことを考えていると、不意に、数年前の光景が、わずかな引っかかりとともに脳裡を過ぎった。
(もしかしたら、あの時にはもう、じじいは自分が狙われているってわかってたのか?)
――国中で、修繕師の連中が行方不明になってるらしいぜ。
否が応でも、タルマが語っていた情報が思い起こされる。もしも修繕師が何者かに狙われているならば、ロウニと自分も、まず標的になっていると見て間違いないだろう。
しかし危険に身を晒すことになろうと、ロウニには会って話を聞く必要がある。耳が早い彼ならば、修繕師の失踪についても、何らかの情報を掴んでいる可能性があるからだ。
(チセの姉貴の件も、情報を持っていてくれたら最高なんだけどな……)
旅の道中、でき得る範囲で情報を集めてみたものの、赤い髪の少女の目撃談は一つたりとも存在しなかった。そちらも何か進展があれば、いくらかチセの気も晴れるだろうに――と考えているうちに、いつの間にか目的地に辿り着いていたらしい。
「マルセ桟橋経由で、〝銀の飛魚〟まで」
「……あいよ」
今にも沈みそうな木造りのおんぼろ舟の漕ぎ手は、およそ愛想とは無縁のぶっきらぼうな表情と声で、顎でしゃくって後方を示した。
ジークが黙って舟に乗り込むと、漕ぎ手は擦り減った長靴の底で川岸を蹴り、するりと運河に滑り出た。そのまま先の欠けた櫂を大儀そうな動作で回し、ゆっくりと、舟は細い水路を進んでゆく。
「――で? 何の用だ」
やがて広い運河の中央に辿り着き、周囲から他の舟の気配が絶えた頃合いで、漕ぎ手は低い声で尋ねてきた。
「聞きたいことがある」
「話によるが、先払いだ」
黙って硬貨を差し出すと、受け取った漕ぎ手はちらと一瞥をくれてから黙した。質問は何だ、と無言で訴える気配を察し、ジークはつとめてゆっくりと口を開いた。
「――〝銀の飛魚〟は、今日は開いてるのか」
〝銀の飛魚〟とは、ロウニが表向きの商売として営んでいる雑貨屋の名だった。
しかるべき場所からしかるべき舟に乗り、符牒を口にした者が訪れた時だけ、ロウニは雑貨屋の長ではなく、修繕師としての顔を見せる。
「いいや、数日前から閉まってるぜ。――多分、もう開かないだろうな」
どくん、と心臓が脈打つ。漕ぎ手の不吉な宣告に、背筋に冷たいものが走ったが、理由を質さずにはいられなかった。
「……どうして閉まったんだ?」
問えば漕ぎ手に無言で右手を差し出され、やむなく追加で硬貨を握らせる。それからやや間を置いてから、漕ぎ手は水音に紛れるような声で呟いた。
「詳しいことは知らんが、どうも店主が急に姿をくらましたらしい。行き先は誰も知らん。だが、おそらく帰っては来ないだろうな」
タルマの話と同じだ、と感じつつ、ジークは内心臍を噛む。
一歩遅かった、という後悔と、手掛かりが途切れてしまったことへの苛立ち。そして何より、行方不明になった修繕師たちの安否が、ことさら気がかりだった。
おそらくロウニも、自分で身を隠したわけではない。何者かが、明確な目的を持って、修繕師を狙っているに違いなかった。
(――くそっ、せめてロウニに会えていれば、何かわかったかもしれないのに)
ぎり、とジークが唇を噛み締めていると、目を眇めた漕ぎ手が、不意に拳を突き出してきた。その意図は読みかねたが、視線に促されて手を伸ばすと、薄汚れた茶色い小袋を渡された。
「ロウニから伝言だ。――『扉の鍵を託す。猫に気をつけろ』とさ」
「……どうも」
「次に自分を訪ねてくる奴がいたら渡せ、とよ。俺は何も知らんから、後はお前さんがどうにかするんだな」
それきり口を噤んだ漕ぎ手は、心なしか櫂を回す速度を上げて、水面をざぷりざぷりと切っていく。ジークもそれ以上何かを問うでもなく、手の中の色褪せた小袋を、じっと見つめていた。
(――まだ、糸は切れていなかった)
見つけたわずかな光明とともに忍び寄る、不穏な影。
ロウニの残した扉を自分が開くのが先か、はたまた猫どもに見つかるのが先か。
(……命懸けの、鬼ごっこの始まりだな)
不敵な笑みを浮かべたジークは、航路も終盤に差し掛かった折に、ようやく他に尋ねるべきことを思い出した。
「そうだ、赤い髪の女を知ってるか?」
「いや、知らないな」
けんもほろろな口調で淡々と切って捨てられたが、それでは、とめげることなくジークは質問を重ねた。
「じゃあ、オルディスの隠れ郷に関して、最近何か変わった話は聞いてないか?」
泉の畔で膝を抱えて一人待つチセに、少しでもいい知らせを持って帰りたい、という一心で、発した問いだった。
ちら、と視線を上げた漕ぎ手が、一瞬だけ間を置き、おもむろに語り始める。
聞いた話だがな、と、前置きをして。
「あの街は、――――――――――――――――――――――――――」
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