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「……行ってしまったね」
「ええ」
友人たちの後ろ姿が見えなくなってから、ぽつりと呟いたユーディスの横顔は、憂いを帯びたものに変わっていた。そのことに気付かないふりをしているエレオノールに、一見淡々と、ユーディスは問い掛ける。
「ジークたちが裏街道に出るまで、持ちそうかな?」
「……きっとね。もう、検問所まで来ているわ。結構な人数のお客様よ」
かつて戦場を駆けていたエレオノールにとって、人間の殺気を辿ることは、呼吸に等しい、無意識下にまで刷り込まれた行為だった。
まるで明日の天気の話題であるかのような、落ち着いた口調で敵襲を告げれば、ユーディスは絞り出すような声を出した。
「――エレオノール、駄目だよ」
「まだ、何も言っていないでしょう? ユディ」
「わかるよ、きみのことだから。……お願いだ、行かないでくれ。きみは僕のすべてだ」
こちらに向き直ったユーディスが、懇願するようなまなざしで、声で、全身で、懸命に訴えかけてくる。けれども、他ならぬ彼だけは、すでにエレオノールの答えを、悟っているはずだった。
「わたくしも、そうよ。――愛してるわ、ユディ」
そっと額を触れ合わせ、目を閉じる。
エレオノールよりもあたたかい、彼の体温が伝わってくるこの瞬間が、何よりも大好きだった。
「お願い。……街のみんなを、避難させて」
「――――いやだ」
絶対に離さない、とばかりに強い力で抱き寄せられて、すがるような声を、震える吐息を、耳元に落とされる。そうされると、狂おしいほどの愛おしさが胸の底から込み上げてきて、何もかも忘れたい衝動に駆られてしまう。
(……このまま、ずっと、ユディの腕の中にいられたら)
そうしたら、どんなに幸せだろう――と束の間目を閉じたエレオノールは、微笑を湛えて、栗色の髪を、指先で、掬うように撫でる。
自分は、このやさしい人が、本当に好きだ。
けれどこれから口にするのは、自分の意志を通すための言葉だった。そしてそれを、彼が許してくれるだろうということも、すでにわかっていた。
「わがままばかり言って、ごめんなさい」
「――わがままとは呼ばないでしょう、こういうのは」
困ったことに、きみは他の人のための「お願い」ばかり口にするんだ、といつもの穏やかな微笑みを浮かべたユーディスは、エレオノールの頬をなぞるようにそっと触れてから、ゆっくりと身を離した。
「じゃあ、僕は急いでみんなに避難してもらうよ」
「ありがとう、ユディ。――また後でね」
「うん、また後で。……無理は禁物だよ、エレオノール」
名残惜しくもユーディスに背を向け、エレオノールは目的地に向かって、足早に歩き出す。濃密になる一方の殺気に近付くにつれて、その表情は、ユーディスに見せていたものとはまるで様変わりしていった。
「――さっさと、片付けましょうか」
夫を深く愛する一人の女性としての顔から、殺戮兵器たる、混成種のそれへと。
やがてエレオノールが意識を完全に切り替えたその時、街の入り口の方角から、けたたましい鐘の音が聞こえてきた。――敵襲の、合図である。
「あら、思ったより早かったわね」
音もなく大地を蹴り、砂埃一つ立てずに滑るように疾駆する。みるみるうちに検問所が近付き、敵の姿が視認できるようになった。
(十四、五人かしらね。……裏手に回られると厄介だわ、早く潰さないと)
「おい、とっとと答えろ! 二日ほど前に、砂色の髪の男と、十二、三の小柄な娘の二人連れがこの街に来たはずだ。 今、どこに――」
「そんな方、この街にはいらっしゃいませんわよ?」
武器を持った男たちと、吊るし上げられていた門番が、一斉にこちらに顔を向ける。全身を突き刺すような視線をものともせず、エレオノールは、悠然と笑みを浮かべた。
「どうか、その手を離して差し上げて。この街から出て行ってくださいな」
「――誰だ、お前は?」
「失礼ですが、無礼な方に名乗る道理はございませんわ」
厳しい口調で詰問されるも、一向に動じないエレオノールに痺れを切らしたのか、一番近くに立っていた男が苛立った様子で刀を抜いた。
「妨害するなら、女とて容赦はせんぞ。今すぐ――」
「あら怖い」
滑るような足取りで一瞬で距離を詰め、男の顔に手を触れる。ただ、それだけで。
「――おい、ザイン! どうした?!」
声もなく崩れ落ちた男に、他の取締官たちが驚愕の声を上げる。その隙を見逃さず、影のごとく動いたエレオノールは、さらに二人を大地に沈めた。呆気に取られた様子で腰を抜かしている門番を一瞥すると、ひ、と顔を歪めて小さな悲鳴を上げ、這う這うの体で外へと逃げ出していった。
「そろそろ、ここから大人しく立ち去る気になられたかしら?」
「この女っ……!」
怒号とともに、空気銃の銃口が一斉に突きつけられる。しかしエレオノールはそよとも表情を変えず、淡々と事実を口にした。
「撃ちたいなら、どうぞご自由に。――ただし、貴方たち全員の命と、罪のない街の住民全員の命が、引き換えになるけれど」
「どういう、意味だ……?」
取締官のくせにまだわからないのか、と内心で溜息を吐きながら、エレオノールは最後通牒を突き付けた。
「もう一度だけ言うわ。この街を、立ち去りなさい。この街の存在を二度と思い出さないと誓うなら――」
「構わん、撃て!」
隊長格らしき男が突然号令を発し、即応した男たちがすかさず引き金を引いた――はず、だった。
「残念ね。……それならば、己が身を以て、思い知りなさい」
弾丸を放つ際に、取締官たちが無意識に行ったであろう、一呼吸。……その一息が、命取りだった。
「なっ! どうした、お前たち!?」
銃を握ったままばたばたと倒れ伏していく部下を前に、哀れなほど狼狽する隊長格らしき男に向けて、エレオノールは、冷徹に宣告する。
「これ以上、吸わない方がいいわよ。……ああ、もう遅かったわね」
何が起こっているか理解できないまま、目を大きく見開いた隊長格の男が、ゆっくりと崩れ落ちてゆく。
「わたくしは、
検問所に詰め掛けていた取締官たちを屠った後、休む間もなくエレオノールは街外れに向かって駆け出した。冷たい外気が灼けた喉を刺激して、ごほ、と何度も咳き込む。反射的に口元を覆った手を見れば、べったりと銀色の血に濡れていた。
(……お願い、もう少しだけ、待って)
本来、体内の毒を周囲に放出することを必要とするエレオノールの身体は、とうの昔に限界を迎えていた。五年前、ジークに出逢わなければ、おそらくすでに、この世にはいなかったはずだ。
(恩は、必ず返すから)
ユーディスとのかけがえのない時間を、ジークは五年も与えてくれた。これ以上の恩を、エレオノールは知らない。
だから、一人たりとも、ジークたちの後を追わせるわけにはいかない。その一心で、エレオノールは疾駆した。殺気を辿って街中を駆け巡り、容赦なく、敵を葬っていった。
幸いなことに、検問所以外から侵入していた別動隊も、まずは街の中心部を捜索していたらしく、ジークたちが去った裏道の発見には至っていなかった。一人、また一人と順調に狩りを終え、エレオノールは、最後の一人を探し始めた。
どうやらユーディスの避難誘導が上手くいったらしく、街の住人の姿もどこにも見当たらない。このまま首尾よく全員が地下通路から逃げおおせてくれたらいい、と願うよりも先に、脳裡を過ぎった、感情は。
(……ありがたいわ。これなら、遠慮なく戦える)
さながら殺戮兵器そのものの思考に浸りきっていることに気付き、自嘲する。――チセが綺麗だと言ってくれた自分の本性は、こんなにも醜い。
本当は、チセが羨ましくてたまらなかった。
彼女は、ただ生きているだけで、誰かを傷つけることなどない。
彼女は、ジークと、何の躊躇いもなく、触れ合うことができる。
もしも叶うのならば、あんな、まばゆい笑顔が似合う女の子に、自分も生まれつきたかった。
(……まあ、それは、来世でもいいかしら)
そう想わせてくれた、最愛の夫の姿を、その時ようやく視界の中に見つけて。
同時に、その背に空気銃の照準を合わせた、敵の姿を認めて。
エレオノールは、一瞬の迷いもなく駆け出し。
「――――――――ユディ!!!」
その身を、銃口の前に、投げ出した。
痛みよりも先に感じたのは、焼かれるような熱さだった。しかし身体から噴き出す血潮など気にも留めず、エレオノールは敵に躍りかかった。
「――死になさい」
痛みよりも、激昂が遥かに上回っていた。こいつにだけは、安らかな死を与えてやるつもりなどない。血に塗れた掌を相手の顔に押し付けると、じゅう、という煙とともに、すさまじい絶叫が上がった。赤黒い斑点が、みるみるうちに顔から全身へと広がってゆき、敵はあまりの苦悶に血泡を噴いてのたうち回っていた。
(赦さない、赦さない、赦さない、赦さない――!)
ユーディスを傷つけようとした敵に、容赦などできようはずもない。エレオノールがさらなる苦痛を与えんと、左手を振りかざした、その時。
「――エレオノール!!」
血に塗れた、自分の左手を握る、この手の持ち主は、誰か。
理解するよりも先に、反射的に、そのぬくもりを振り払っていた。
「……ユ、ディ」
血の気の引いた顔で、慌てて焼けただれた彼の手に付着した自分の血液を拭うものを探す。しかしユーディスは、血に塗れたエレオノールの身体を、構うことなく抱き寄せた。
「どうして、――どうして、僕を、庇ったっっ!!!」
びりびりと空気が震えるほどの怒号に、エレオノールは、知らず笑みを零していた。――彼を凶弾から護れたことが、彼が自分のために怒ってくれることが、ただ純粋に、嬉しかった。
「そんなの、決まってるでしょう? ……あなたを、愛しているからよ」
それにあなただって、わたくしと同じ立場だったら、全く同じことをしたでしょう? と告げれば、ユーディスは黙したまま、背中に回した腕に力をこめた。
「ねえ、ユディ。お願いだから、離してくれる? ……あなたにだけは、わたくしの毒で、死んでほしくないのよ」
このままずっと、ユーディスの腕の中にいたい気持ちを堪え、懇願する。きっと彼は、頑として突っぱねるのだろうな、と思っていた。しかしユーディスは、エレオノールの想像に反して、わかった、とすんなり腕の力を緩めた。
その、代わりに。
「――ん、っ!?」
不意打ちで唇を奪われ、あまりの衝撃に全身が硬直する。大気に放つ毒こそ制御できるようになったものの、エレオノールの体液は――血も汗も涙も、そして唾液すらも、すべてが猛毒だ。
だから、触れ合うことは許されない。懸命にユーディスの身体を押しのけようとするも、ユーディスは、決してエレオノールを逃がさなかった。
(……ずる、い)
痺れるような熱に理性を一枚ずつ溶かされ、胸の底に眠らせていた、浅ましい本当の願いが、不意に顔を覗かせる。
――本当は、ずっと、こうしたかった。
だから、振りほどけるはずがない。嬉しくない、はずがない。
とうとう観念して目を閉じたエレオノールは、とろけるようなくちづけに、しばしの間酔いしれる。
「――甘いね。想像していたよりも、ずっと」
やがて名残惜しげに顔を離したユーディスは、わずかに覗かせた舌先で上唇を嘗めてから、独り言のように呟く。夢見心地で陶然と余韻に浸っていたエレオノールは、数秒遅れてその意味を理解して、頬をかあっと火照らせた。
「……想像、してたの?」
「まあ、僕も一応、男ではあるからね。――ねえ、エレオノール。僕は、きみの毒では死なないよ」
未だ熱の冷めやらぬエレオノールの全身を、さらに焦がすような、蠱惑的なまなざしで。
こつりとエレオノールの額に額を合わせ、彼は続けた。
「――僕は、きみという花に恋焦がれて死ぬんだ。言ったでしょう? 僕の心も運命も、魂も、命も――すべて、きみのものだって」
ついに手に入れた気分はどう? と、この上なく幸せそうに笑うユーディスに抱きつき、エレオノールは、薄れゆく意識の中、瞳を滲ませて、己の最愛に告げた。
「最高の気分よ。ありがとう、ユディ。――わたくしのすべても、永遠に、あなただけのものよ」
視界が、霞む。けれども彼がどんな表情をしているかは、見えずともはっきりとわかった。
「僕と出逢ってくれてありがとう、エレオノール。……大丈夫、ずっと、一緒だ」
どちらともなく指先を絡め、固く、手を、繋ぎ。
この世のすべてを手に入れたかのような、幸福な表情を浮かべた二人は。
最期の瞬間まで、瞳で、吐息で、鼓動で、互いの存在のすべてで、想いを伝え合っていた。
きみを。
あなたを。
――――愛している、と。
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