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「チセさん、焼き上がったわよ。どうぞ、こちらにいらして」

「はーい! うわあ、いい匂いですね!」


 卵とたっぷりの蜜を混ぜて焼き上げた生地が、甘く香ばしい香りとともに運ばれてきた瞬間、チセは思わず歓声を上げていた。

 表面につややかな黄金の輝きを纏った生地はぷくりとふくらみ、鼻がとろけてしまいそうな匂いをほわりと漂わせている。まだ湯気を立てている生地に誘われるように手を伸ばし、「いただきます!」とチセは一口かぶりついた。


「――……~っ、おいしい!! です!」

「そう? よかった。喜んでいただけたなら何よりだわ」


 夢中で菓子を頬張り、二個、三個と呑み込んでいくチセをにこにこと見つめながら、エレオノールはお茶の支度に取りかかっていた。チセははっと我に返り、食べる手を止めて立ち上がる。


「あの、わたしも手伝います! ごめんなさい、夢中で食べちゃって」

「いいのよ、チセさんは大事なお客様ですもの。どうかわたくしに任せて、座ってらして。それに、すごく美味しそうに召し上がってくださるから、見てるだけで楽しいわ」


 エレオノールの可憐な笑みに押されるように、チセは再び椅子に腰を下ろした。数時間をともにして多少は耐性がついてきたものの、正直なところ、まだふとした瞬間に、彼女のまばゆいばかりの美しさにどぎまぎしてしまう。


(……ユーディスさんは、ずっと一緒に暮らしてるから、慣れてるのかなあ)


 次の一つに手を伸ばしつつ考えていると、こつこつと扉を叩く音とともに、ユーディスその人が姿を現した。


「やあ、いい匂いだね。ちょうど焼き上がったのかい?」


 扉を押さえ木で留めたユーディスは、慣れた所作で、次々に水の入った桶を部屋に運び入れつつ、笑顔で尋ねた。


「ええ、今まさにね。ユディ、あなたもお一ついかが?」

「僕も食べていいの? ありがとう」

「もちろんよ。――はい、どうぞ」


 両手に桶を提げたユーディスに歩み寄ったエレオノールは、白い手袋を嵌めた手で菓子を一口分ちぎって、当然のように彼の唇まで運んだ。躊躇なく口を開けたユーディスは、差し出された菓子を噛み締め、目を細めて「美味しいね」とエレオノールに微笑みかける。


 その一部始終をばっちりと目撃したチセは、なぜか勝手に顔が熱くなるのを感じ、頬に両の手を当てた。


 束の間見つめ合っていた二人は、互いの額をそっと触れ合わせてから、何事もなかったかのようにそれぞれの仕事を再開した。やがてユーディスがひらりと手を振って部屋から出て行った後、香草茶の注がれた器をチセの前に置いたエレオノールは、不思議そうに呟いた。


「チセさん、どうかなさったの? お顔が赤いようだけれど……」

「ええと、その……お二人とも、とっても仲が、いいんだなあって」

「ああ、さっきのことね? ふふ、ちょっとお行儀が悪かったかしら。――でも、チセさんとジークも、仲良しに思えるけれど?」

「ふぇ!?」


 思いもつかぬ言葉をかけられ、ちょうど香草茶を飲んでいたチセは、激しくむせた。けほっ、ごほっ、と咳き込むチセに駆け寄り、ごめんなさい、とエレオノールは慌てた様子で背をさすってくれた。


「本当にごめんなさいね。……そんなに驚くなんて、思ってもみなかったわ。だって、見ていればすぐにわかるもの」

「本当、ですか? ……でも、昨日だって、あんなに怒られたし」


 自分たち二人とエレオノールたちとでは、何かが決定的に違う気はしたけれど、他ならぬ彼女から、仲がいいと言われて悪い気はしなかった。

 しかし素直に喜ぶには、昨夜の記憶が邪魔をする。思わず唇を尖らせたチセが愚痴を零すと、エレオノールは包み込むような笑みを浮かべた。


「それは、貴女を大事に想っているからよ。ジークはチセさんに、危ない目に遭ってほしくないんじゃないかしら?」


 咄嗟に反駁しようとして、結局ぐっと口ごもる。エレオノールが告げたとおりだ、とチセも心のどこかでわかっていたからだった。


 ――危ないから、走ってる時にヘルメットを脱ぐな!

 ――俺が帰ってくるまでは、絶対にこの部屋から出るな。


 ジークの言いつけは、いつだって、チセの安全を考えたものばかりで。


 ――後で一つだけ好きなもん買っていいから、どれにするかよく考えとけよ。


 本当は、ちゃんと、わかっている。……ジークが、チセに、やさしくしてくれていることくらい。


「エレオノールさんは、……ユーディスさんと、どうやって、出逢ったんですか?」


 その時ふと、知りたい、と思った。混成種であるエレオノールと、人間のユーディスが、一体どのようにして、絆を育んできたのかを。


「わたくしとユディが? そうね、話せば長くなるけれど……簡単に言うと、ユディがわたくしを助けてくれたのよ。それが、すべての始まり」

「助けて……?」


 自分とジークに重なる状況に、どくり、とチセの心臓がかすかに跳ねる。

 ほんの束の間、どこか遠いまなざしを宙に向けたエレオノールは、香草茶の器を両手で抱えながら、とっておきの秘密を打ち明けるような、いたずら気な瞳で続けた。


「とある場所で行き倒れていたわたくしをね、ユディは連れて帰って、看病してくれたの。……混成種で、しかも体内に猛毒を持つわたくしをよ? 信じられる? でも、わたくしは最初、何かの罠に違いないと思って、頑なに心を開かなかった。出された食事も、毎回ユディの目の前でぶちまけていたわ」

「……お腹は、空かなかったんですか?」


 儚げな麗人たるエレオノールが、そんな真似をするとは想像もつかなかったが、呆気に取られつつもチセはどうにか言葉を押し出した。


「もちろん、ぺこぺこよ。でも、わたくしも途中から絶対食べるもんですかって、意地になってしまっていて。それでもユディは、わたくしを見放さなかった。ユディはわたくしの目の前でご飯を作ってくれて、それを自分で一口食べてから、差し出してくれたの。必死な、目をしていたわ。あのまなざしを見て、ああこの人は信じられる、って思ったの」


 それは、チセにも覚えがある感覚だった。獣の、植物の、あるいは他の生物の遺伝子を持つ自分たちの、本能による絶対的な確信。


「どうして、ユーディスさんは、エレオノールさんを、一生懸命助けてくれたんですか?」

「わたくしも、同じことを尋ねたわ。そうしたらユディは、いったい何て答えたと思う? ――『もうこれ以上、僕の目の前で死ぬ人を見たくないから』って。……優しすぎるのよ、昔から」


 深い、深い、チセのまだ知らない感情を、翠玉の瞳に滲ませて。

 何かに焦がれるような口調で、エレオノールは語る。


「惹かれていくのは、必然だった。居場所も心も、なにもかも失っていたわたくしに、ユディは、すべてをくれた。……まさか、混成種のわたくしを、ユディが想ってくれるなんて、思ってもみなかったけれど。――それからは、ずっと一緒よ」


 咲きほころぶような、うつくしい、微笑。


 ――ああ、やはり、この人は。


 ユーディスのことを語る時が、彼を見つめている時が、いちばん綺麗だ、とチセは思った。


 だから、祈りを捧げるように。

 深く想い合う二人が、いつまでも幸せでいられますようにと、願いを込めて、言葉を紡いだ。


「ユーディスさんも、エレオノールさんの隣にいられて、とっても幸せなんだと思います。……早く、エレオノールさんの治療が、終わったらいいですね。そうしたら、絶対、絶対、ユーディスさんもすごく喜びますよ!」

「――そうね。ありがとう、チセさん」


 穏やかな声で、花弁のような唇を綻ばせたエレオノールは、ほんの一瞬だけ。どきりとするほど透きとおった、儚い、笑みを浮かべた。


「ねえ、チセさん。今度は、チセさんのお話を、聞かせてくださるかしら? ……本当はわたくし、ずっと、秘密のお話ができる、お友達が欲しかったのよ」


 一転して茶目っ気たっぷりな声と瞳で、口元にこっそりと手を添えて囁いたエレオノールに、もちろん、とチセは大きく頷いた。


「わたしも、エレオノールさんと……お友達に、なりたい、です」




 午後のお茶と内緒話を終え、エレオノールとチセが仲良く後片付けをしていると、およそユーディスのゆったりした足音とはかけ離れた、慌ただしい足音が近づいてきた。思わずエレオノールと顔を見合わせていると、間もなくとんでもない勢いで、部屋の扉が開け放たれた。


「チセ、無事か!?」

「……ジーク? どうしたの、そんなに慌てて」


 チセがぽかんとした声で問い返せば、室内に駆け込んできたジークは肩をわずかに上下させながら、エレオノールに視線を向けた。


「エレオノール、何もなかったか? 誰かがここに侵入してきたり、外から視線を感じたりは?」

「……いいえ、変わったことはなかったわ。ジーク、落ち着いて。いったい何があったの?」


 珍しく焦った様子のジークに、これはただ事ではないと判断したのか、エレオノールは緊張の滲む面持ちで、静かに問い掛ける。


「――俺たちが、この街に来ていることを、猫どもに嗅ぎつけられたかもしれない」

「……っ!」


 悲鳴のような声が、堪えきれずにチセの喉から零れ落ちる。恐慌に陥りかけたその時、チセの手を、エレオノールがきゅっと握ってくれた。


「でも、貴方たちがこの街に着いて、まだ二日でしょう? どうしてそう思うの?」

「情報屋から聞いた。俺たちがこの街を訪れていることが広まってるらしい。あまり考えたくはないが、すでに居場所が割れてるなら、早晩にでも奴らに襲撃される可能性がある。――エレオノール、お前たちはどうする? 狙われる可能性は高いが、俺たちと一緒に街を出るか? それともか?」

「そうね、いつも通りかしら」


 嵐が来てもやり過ごすだけよ、と涼しい顔でエレオノールが告げると、ジークは一瞬だけ、痛みをこらえるように眉根を寄せた。


「……巻き込んで悪いな。行くぞ、チセ」

「え、……もう?」


 あまりに事態が急転し、思考も心も追いつかない。思わず立ち尽くしたチセの前に、ジークは膝を追ってしゃがみ込み、憂いを帯びた真剣なまなざしで、静かに宣告した。


「ああ、残念だが出発だ。名残惜しい気持ちはわかるが、猫どもの標的は俺たちだ。エレオノールとユーディスを、街の連中を、これ以上危険に晒すわけにはいかん」


 為す術もなく項垂れ、唇を噛んだチセの手を引き、ジークは出発を促した。何かに追い立てられるように足早に扉に向かうチセの背に、「少しだけ待って」と凛としたエレオノールの声が届く。


「良かったら、うちにある食料を持って行って。……ほら、一人暮らしに見せかけるのに、物がたくさんありすぎると、不自然でしょう? それくらいは待てるわよね、ジーク?」

「――ああ」


 振り返って深々と息を吐き、世話かけるな、と呟くジーク。対するエレオノールは、にっこりと優雅な笑みを湛えて、これくらい当たり前よ、と告げた。


「だって、貴方は――わたくしたちの、恩人ですもの」




 それから三人で慌ただしく出発の準備を整えていると、玄関の扉が、かちゃりと開く音がした。反射的にびくりと肩を跳ねさせたのはチセだけで、残る二人は無言で視線を扉に向けた。


「ただいま。――ジーク、荷物を取って来たよ。自動走行二輪車オートバイも、裏の倉庫に隠してある。準備はどう?」

「おかえりなさい、ユディ。万事順調よ」


 緊迫感の溢れる只中にあっても、平生と何一つ変わらないユーディスの落ち着いた声音に、チセはほっと息をつくような心地になった。


「助かった。ありがとな、ユーディス」

「お安い御用だよ。二人のためならね」

「お前は、相変わらず甘いな……」


 ジークが苦笑を浮かべたのを見て、チセはわずかに目を瞠った。――ずっと黙り込んだままぴりぴりしてたのに、と思わずユーディスの穏やかな横顔を見つめる。


「じゃ、準備も整ったことだし、今度こそ出発するか。行くぞ、チセ」

「……うん」

「待って、チセさん。……一つだけ、いいかしら?」


 はい、と神妙な面持ちで頷いたチセに向き直り、無言で歩み寄ってきたエレオノールに――思いがけないほど強い力で、ぎゅっと、抱き締められる。


「……気をつけてね。離れていても、貴女はずっと、わたくしの大切なお友達よ」


 この上なくやさしい声で、耳元に囁かれて、途端に視界がぶわりと滲んだ。


「――っ、ごめんなさい……わたしのせいで、迷惑、かけて」

「いいえ、チセさんのせいじゃないわ。悪いのは、追ってくるあの人たちの方よ。チセさんは、なんにも悪いことなんて、していないもの」


 それに、迷惑なんて、一つもかけちゃいないわ、と歌うように告げるエレオノールは、澄んだまなざしで、チセをまっすぐに見つめていた。


「だから、泣かないで。……そうだ、これをお持ちになって。お友達のしるしよ。わたくしの代わりだと思って、大切になさってね」


 そう言って胸元を飾っていた小さな翠珠の首飾りを外し、チセの首に掛け直したエレオノールは、晴れやかな笑みを浮かべた。


「よく似合うわ。――そう、笑って。チセさん、貴女には、笑顔がぴったりよ」


 ぽろぽろと涙を零しながらもチセは微笑み返し、エレオノールをぎゅっと抱き締めた。



「また、逢いましょうね!」



 何度も何度も頷いて、チセは、初めての友人に別れを告げた。


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