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昨晩こってり絞られて、さすがに反省している――かと思いきや、チセは翌朝、満面の笑みを浮かべて、「おはよう!」とジークに挨拶してきた。ここまで来ると、もはやこの切り替えの早さは長所と呼ぶべきだろう、と一周回って感心する。
「どうしたの、ジーク? ねえ、早くユーディスさんたちのところに行こうよ」
「あいつらはこの時間は店が忙しいから、また後でな。まずは朝飯」
「お店? 何のお店をしてるの?」
「お前も昨日、見たんじゃないのか? 花屋だよ」
雛鳥のように後を追いかけてくるチセに返答しつつ、外套を羽織る。――言いつけを必要とあらば破ることが判明した以上、置いて行ってさらなる騒動を引き起こすのは得策ではあるまい。
「ほら、
「え、一緒に行っていいの? やったあ!」
きらりと目を輝かせたチセが、いそいそと身支度を整えるのを待ってから、ジークは連れ立って表へと向かった。
「ねえジーク、甘い匂いがするよ……あのお店、何を作ってるの?」
「ああ、花形焼きだろ」
予想通りというべきか、宿を一歩出た瞬間に、チセから質問が飛んでくる。想像と違わぬ展開に苦笑を浮かべながら、えもいわれぬ甘い香りを漂わせる露店の棚を視線で示す。
「はながた? 何か、お花と関係あるの?」
「ほら、咲いた花の形をしてるだろ? だから花形焼き。甘い生地の中に果実の蜜漬けを入れて焼いた菓子で、この街の名物だ」
「へぇー……美味しそう」
チセは欲しい、とは言わなかったが、今にもよだれを垂らしそうなその表情は、言葉よりも遥かに雄弁だった。
(……甘い物も、食ったことがないんだろうな)
ジーク自身にも覚えがあるが、その日の食事にも事欠く生活をしている者の口に、贅沢品たる甘味が入ることはまずない。
買ってやろうか、とふと口に出しそうになるが、チセの好奇心の強さを鑑みて、ぐっと堪える。
(ひとつ買ったら、絶対他の物も欲しがるに違いない。そうなったら朝飯を食べる前に、他の物で腹いっぱいに――って違う、そもそも何で俺は、こいつの親みたいなことを考えてるんだ?)
こいつといるとどうにも調子が狂う、とさえずるように話しかけてくるチセをちらりと見遣り、ジークは小さな手を引いた。
「ほら、先に飯だ飯。――後で一つだけ好きなもん買っていいから、どれにするかよく考えとけよ」
新たなものを目にするたびに立ち止まられたのではかなわない、とばかりに小さな手を引いて歩き出すと、えへへ、とチセが嬉しそうに笑った。
「……何だよ」
「べつにー。何でもない」
「あっそ」
黙っていてくれるなら都合がいい、とそれ以上は訊かず、ジークはチセとあちこち店先を覗きながら、ちらほらと人が行き交う通りを進んで行った。
チセが選んだ花形焼きを頬張りながら帰路についていると、「あれ、ジーク?」と背後から呼び掛けられた。顔だけで振り返ると相手はユーディスで、ちょうど花の配達を終えたところだったのか、押している荷車の中身は空だった。
「ユーディスさん! おはようございます!」
「チセさん、おはようございます。今日もいい天気ですね」
昨日の一件で懐いたのか、ジークが返答するより先に、元気よくチセが挨拶をした。そのまま二人が二言三言交わすのを見守ってから、おもむろに口を開く。
「はよ。今帰りか?」
「ええ。お蔭様で、今日の配達は完了です。よかったら、一緒にお昼でもどう、」
「行きます! 絶対行きます!」
ユーディスがみなまで言うのも待たず、チセは身を乗り出すようにして賛成した。思わず頭を抱えたくなるが、片手を撫子色の髪の上に置き、今にも走り出さんばかりのチセを押し留める。
「まだ俺は行くとも行かないとも言ってないぞ! あと、昨日の一件を絶対に反省してないだろお前! まずはユーディスに謝る!」
「あ、そうだった! ――勝手にお家に入ろうとしてごめんなさい、ユーディスさん。……そういえば、昨日もずっと言ってたけど、〝はんせい〟ってなあに、ジーク?」
ジークは今度こそ、頭を抱えた。――こいつ、昨日あれだけ説教したのに、そもそも反省するという概念すら持ってなかったのか!
「いいえ、お構いなく。……まあまあジーク、昨日は昨日、今日は今日でしょう。お礼もしたいし、二人で食べにおいでよ」
「やったあ! 嬉しいです!」
全身から脱力しそうになるのをどうにか堪え、ジークは無言で天を仰いだ。
――まあ、いいか。どっちにしても、昼から片付けたい用があったし。
ありがたくユーディスの家で昼食のご相伴に預かった後、ジークはいつになく上機嫌なチセに、出かけてくるからここで待っていろ、と申し渡した。チセは自分以外の者がいれば気が紛れるのか、意外なことに二つ返事で了承した。
(……エレオノールがいるから、万一のことがあっても大丈夫か)
気が変わったチセが追いかけてきやしないだろうか、という若干の懸念はあったものの、ジークは花屋を出た瞬間、意識をかちりと切り替えた。
(さて――仕事だ)
慎重な足取りで、人目をそれとなく避けながら、目的地へと向かう。
花屋から二十分ほど歩いた、うらぶれた通りの中に、ひっそりとその店は立っていた。
「いらっしゃい、一回三百リラだよ。明日の天気に失せ物探し、恋の行方も何でもござれ――……」
「失せ物探しだ」
黒い紗をめくり、易者に扮した相手に硬貨を六枚押し付ける。毎度あり、とにやりと口角を吊り上げた相手は、低い声で囁いた。
「久し振りじゃねえか、ジーク。……で、何を探してる?」
伸び放題の黒髪を垂らしたこの男の正体は、易者ではなく情報屋だ。黒く底光りする瞳を真っ向から見据えつつ、ジークは慎重に口を開いた。
「赤い髪の女と、くそじじいだ。タルマ、何か知ってるか?」
「赤い髪、赤い髪、ねえ……。残念だけど、そっちは聞いたこともねえな」
「つまり、じじいのことは、何か知ってるんだな?」
「それが最近歳のせいか、めっきり忘れっぽくなってなあ」
ジークは黙って懐から三枚硬貨を取り出し、わざとらしく瞬きを繰り返すタルマの目の前の机に叩きつけるようにして置いた。
「これで、思い出したか?」
「あと一枚」
舌打ちをして、指で硬貨を一枚弾く。さっと電光石火の勢いで硬貨をどこかにしまい込んだタルマは、息を潜めるようにして語り出した。
「お前さんの師匠は、ちっとばかしやばいことに巻き込まれてるみたいだな。――どうも、国中で修繕師の連中が行方不明になってるらしいぜ。俺が知ってる中で無事なのは、お前さんと、スヴェルクの街のロウニだけさ。精々気をつけろよ、ジーク」
「ご忠告をどうも。――行き先は知ってるか?」
「まさか。探ろうとも思わねえよ、殺されるのが落ちだ」
大仰に肩を竦めたタルマは、どうやら本当にそれ以上は知らないらしい、と判断したジークは、ありがとな、と言い置いて席を立った。そのまま店を後にしようとするジークの背を、しわがれた声が追ってくる。
「金払いがいい上得意様に、一つだけおまけだ。――お前さん、えらく可愛らしい弟子を連れてるらしいな。ずいぶん噂になってるぜ、色男」
弾かれたように振り返ったジークに、くれぐれも用心するんだな、と呟いて身を翻したタルマのまなざしが、否が応にも胸をざわつかせた。
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