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 無機質な銀色の台に、死人のように横たわっているその女性に何らかの処置を施すジークは、肌が一切露出しないような、異様な出で立ちをしていた。

 頭部は大きな安全帽ヘルメットのようなものに覆われ、首から下も、遠目にもわかるほどの厚手の生地に隠されている。同じく一部の隙間も存在しないと思しき手袋に包まれた指は、細い針と糸のようなものを握り、機械のように規則正しく動き続けていた。


 その糸に絡み付いた、ぎんいろの、輝きの正体は――の、血液に違いない。


(……ユーディスさんの、奥、さん? ――え、でも、どうして? ジークは、機械を修繕するんじゃないの? それに何で、あんな恰好をしてるの?)


 衝撃と混乱で言葉が出ないチセの中に溢れる疑問を汲み取ったかのように、ユーディスは扉の向こうに視線を送ったまま、そっと囁いた。


「この先には、僕も入れません。……防護服なしでこの中に立ち入れば、まず命はないでしょう」

「――――っ!」


 反射的に扉に手を伸ばしたチセを押し留め、唇に指先を当てたユーディスが、ジークは大丈夫です、と続ける。


「ごめんなさい、僕の説明が悪かったですね。……ジークは、防護服を着た上で、中和剤を打っているから大丈夫なんです。だから、落ち着いて聞いてください。――花の化身である僕の妻は、体内に猛毒を有しています。もちろん、平時は無害そのものですが、毒を周囲に放出しないよう抑えている弊害で、体内に留めている毒が濃縮されて、自らを蝕んでしまうんです。だから、時折こうして処置が必要になる」


 チセは扉の硝子越しに、すがりつくようにジークを見つめる。チセの視線の先で、分厚い手袋に覆われた大きな手は、迷いのない動きで、正確に胸部付近を縫い留めていた。


「言わば、外科手術のようなものですね。ジークは、毒素に侵された部分を体内から取り出して、新しいものと交換してくれているんです。――本当は、僕が処置できれば一番いいんですが」


 口を噤んで両目を細めたユーディスに、チセは思わず小声で問い掛けていた。


「どうして、ユーディスさんじゃ、ダメなんですか?」

「……僕には、技術がないからです。一度ジークに弟子入りしようとしたんですが、練習をしようにも、命の危険を伴うから諦めろ、と断られました。何よりも、僕に万一のことがあれば、妻が哀しむだろう、とこっぴどく怒られまして。――だから、彼の弟子になれたあなたが、羨ましい」


 一心に妻だけを見つめるユーディスのまなざしに、淡々とした口調の中に滲む強い想いに打たれ、チセはそれ以上言葉を返すことができず、黙りこくった。


「……そろそろ、戻りましょうか。このままここにいると、離れがたくなってしまいそうですから」


 ジークの邪魔になってもいけませんからね、と微笑むユーディスの表情に、先程垣間見せた翳りは、欠片も見当たらなくて。


 チセは、ただ頷くことしか、できなかった。




「ユーディス、お待たせ。無事終わったぞ――……?」


 それから一時間ほどが過ぎ、ようやく階下から二階に姿を現したジークは、チセとユーディスが机を囲んでくつろいでいる姿を見て、ぴたりと立ち止まった。


「ジーク、おつかれさま!」

「お疲れ様。ありがとう、ジーク。温かい飲み物でもどうかな」


 ひらひらとチセとユーディスが手を振るも、ジークは何度も瞬きを繰り返すばかりで、反応を返してはくれなかった。数秒の沈黙を経てからようやく、ジークは立て板に水のごとく疑問を口にした。


「は? いや待て、何でここにチセがいるんだ? しかもユーディス、お前とチセは初対面のはずだろ? どうして見ず知らずのこいつを家に入れたんだ?」

「だって、君のお弟子さんなんだろう? だったら丁重におもてなししないと」

「俺が言うのも何だが、少しは疑えよ! もし〝猫〟どもの手先だったらどうするつもりだったんだよ……」


 思わず脱力した様子のジークに、ユーディスはにこりと鷹揚な笑みを浮かべて返答する。


「いや、科学技術取締官だったら、わざわざ二階の窓から侵入を図ろうとはしないでしょう? それに、いい子そうだったし。あ、いつもの銘柄でいいかな?」

「おい待て待て待て、お前、不法侵入者を家に招き入れたのか? そんなさらっと流していい話題じゃないだろ! あと豆はいつものやつで頼む」


 了解、と告げたユーディスは、ジークが椅子に座るのと入れ替わるように席を立ち、暖炉の方へと歩いていった。なぜかこめかみを引き攣らせたジークにうきうきと向き直り、チセは満面の笑みで布袋を差し出した。


「ジーク、晩ご飯持ってきたよ! お茶と一緒に食べてね!」

「チセ、お前は後で説教な」

「えー、何で!?」


 叱られる謂れなどない、とばかりに頬を膨らませると、ジークは見たことがないほど凄まじい形相で、火を噴くような怒声を上げた。


「部屋で大人しくしてろっつったろ! 言いつけをこれでもかと破った上に、他人様の家に堂々と不法侵入する奴があるか!」

「ご、ごめんなさい。……でも、ジークがお腹空いてるんじゃないかと思って」

「言い訳無用!」


 烈火のような剣幕できっぱりと切って捨てられるも、果敢にチセは言い募った。


「だって、ずっと待ってたのに、いつまで経っても帰ってこないんだもん! ……このまま、ジークまで、いなくなっちゃったら、どうしよう、って」


 あの時感じた心細さが蘇り、声が自然と小さくなる。ぽつりと零すように呟けば、何事かを言いかけていたジークが、ぐっと息を呑んだような気配があった。


「――本当に、君たちは師弟なんだねえ。仲がよろしいことで」


 絶妙な間で、二人の応酬にするりと言葉を滑り込ませたユーディスは、ほかほかと湯気を立てる茶器を、ジークの前に差し出した。


「まあまあ、そう怒らずに。チセさんは君のことを、とても心配していたんですよ。さあ、温かいうちにどうぞ」

「お前は色々と、甘過ぎるだろ……」


 ず、と珈琲を啜るジークが一旦矛先を収めたと見るや、ユーディスはジークに気付かれないように、こっそりとチセに目配せをした。


(……ありがとうございます!)


 ひそかに笑みを交わしていると、かすかな足音が階下から近付いてくるのを聞きつけたのか、ユーディスの顔つきがすっと変わった。静かに立ち上がり、足音の主を迎えるべく、階段へと歩み寄っていく。



「――おかえり、エレオノール」



 ユーディスのその声を聞いた瞬間、チセの中で、すとんと全てが腑に落ちた。

 なぜ、見た目の年齢よりも、彼はうんと年上に思えるのか。

 なぜ、大樹の木蔭で憩うているかのような、不思議な安心感を抱かせてくれるのか。


 ――全部、全部、この人のためだったんだ。



「ただいま、ユディ」



 ジークとチセに向ける声とは全く違う、深い響きで名を呼ばれたその女性は、およそこの世の者とは思えないほど、うつくしかった。


 雲のごとくたなびく、やわらかな、細い白金の長髪。

 彼女が一歩を踏み出すごとに、冬の木漏れ日を集めたかのような淡いきらめきを帯びる髪が、さらさらと揺らめくさまに、目を、奪われる。

 髪色と同じ、長い白金の睫に縁取られた、けぶるような翠玉の瞳。

 透きとおるほど真っ白い肌に、うっすらと薔薇の紅を刷いたような頬と唇。

 彼女を構成するすべてが、あまりに繊細で、儚く、麗しい。


 けれどもチセが、最も心を打たれたのは、彼女の類まれなる美貌そのものではなく。


(――なんて、綺麗な顔で、笑うんだろう)


 エレオノールと呼ばれたその女性の、溢れんばかりの喜びを湛えた表情だった。


 軽やかな足取りでユーディスに近付き、そっと抱擁を交わしたエレオノールは、片手で覆えそうなほど小さな顔をこちらに向けて、ぱっと咲きほころぶような笑みを浮かべた。


「まあ、可愛らしいお客さま! はじめまして、わたくしはエレオノールと申します。貴女のお名前は、なんておっしゃるの?」


「…………へっ? あ、わたし、えっと、その……チセ、です!」


 瞬きも、呼吸すら止めて眼前の麗人に見惚れていたチセは、エレオノールが自分に話しかけているのだ、と気付くまでに数秒を要した。


「チセさんね。可愛らしい貴女にぴったりの、素敵なお名前だわ」

「え、あ、その……ありがとう、ございます」


 淡い翠玉の瞳を細め、にこりと口角を上げて微笑みかけられただけで、鼓動が速まるような心地を覚える。美しい人というのは、表情ひとつでこうも心をかき乱すものなのか、と頬を染めながら、チセは両手を握り合わせた。


「おー、流石エレオノール。チセが大人しく口ごもるところなんて、なかなかお目にかかれないぞ」


 感心半分、からかい半分の口調で呟くジークに、抗議の意を込めてチセが視線を送ると、ふふ、と小鳥がさえずるような声を零し、エレオノールが微笑んだ。


「初対面だから、緊張されてるだけよ。ねえチセさん?」

「は、はい。……あの、その、すごく、お綺麗、ですね」


 まだ頭がぼうっとしていて、ジークやユーディスを前にしている時とは違って、上手く言葉が出てこない。それでも懸命に言葉を絞り出すと、エレオノールは、頬に手を当ててはにかんだ。


「あらあら、嬉しいお言葉をありがとう。――でもね、チセさんがわたくしを美しいと思ってくれたのなら、それは、この人のおかげなのよ」


 ただあたたかなだけではない、もっと深い想いがこもったまなざしで、エレオノールはユーディスを見上げる。彼女を見つめ返すユーディスの栗色の瞳にもまた、同じ色彩の感情が宿っていた。


「きみがそう想っていてくれて、嬉しいよ。ありがとう」


 そのまま無言で見つめ合う二人の、誰も立ち入れないような雰囲気に構うでもなく、半眼でむしゃむしゃと遅い夕餉を食べ始めたジークは、ぼそりと呟いた。


「……まーた始まった」

「え?」


 呟きの意味を図りかねて問うと、ジークは生温い視線で、動きを止めた二人をちらと一瞥した。


「チセ、ああなったら長いから、もう一杯茶でも飲んで待ってろ。俺もじきに食べ終わるから」

「う、うん……?」


 ジークの言葉の意味はわからないままだったが、それ以上追及できない雰囲気を感じ取ったチセは、言われたとおり己の茶器に湯を注いだ。

 間もなく食事を終えたジークが、「お邪魔だからそろそろ帰るぞ」と暇を告げると、二人は何事もなかったかのようにこちらに向き直り、玄関まで見送ってくれた。


「ジーク、今日も遅くまでありがとう。じゃあまた」

「チセさん、よろしかったらいつでも遊びにいらしてね。甘いものを準備して、お待ちしてるわ」

「――はい!」


 手を振る二人に見送られ、街灯も消えた暗い小路を、ジークと並んで歩き出す。涼やかな秋風が上気した頬を撫でていく感触に目を細めつつ、なおも興奮が冷めやらないチセは、隣を行くジークに矢継ぎ早に話しかけた。


「ねえねえ、エレオノールさん、すっごく綺麗な人だったね! 遊びにいらっしゃいって言ってもらっちゃった! 甘いものも用意してくれるって!」

「ああ」

「ジークは、いつから二人と知り合いだったの? ずっと前から?」

「ああ」

「……でもジーク、なんでわたしたちの治療ができるの? 人間と身体の造りが違うから、すごく難しいんだってユーディスさんも言ってたよ」

「まあ、色々あってな」

「……ジーク? ねえ、聞いてる?」


 いくら話しかけても生返事を繰り返すジークに、さすがに不審感を覚え、前から回り込むようにして、その表情を窺おうとすると。


「――チセ。は、何だ?」


 突然ぴたりと足を止めたジークが、指先を宙に向けた。その指し示さんとする方角に視線を向けたチセは、ぴしり、と表情を凍らせる。

 ジークが示しているのは、二人が滞在している宿の、とある一部屋だった。


 ただ一箇所だけ灯りの点いた、二階の一室。内部から大きく開け放たれたままの窓と、風にはためく白い窓布。


 それはすなわち、チセが言いつけを破って脱出した時の、明確な痕跡だった。


「――チセ?」


 ジークの優しい声が、今ばかりは恐ろしい。とてもではないが、どんな表情をしているのか確かめられそうもない。というよりも、目が合うのが、怖い。


「俺は、言ったよな? ……後で、説教だって」


 ぽん、と肩に手を置かれ、とうとう観念したチセは、そろそろと視線を正面に戻して――直後に、声なき悲鳴を上げる。

 冴え冴えとした月光に照らされ、心なしか、瞳を銀色に輝かせているジークは。


 ――それはそれは、にこやかな笑みを浮かべていた。



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