第139話 地下聖域2
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きっかけは、リアが言った一言だった。
「最近、レオが冗談を言うことが減ったよね」
ある日の消灯前の、女子寮談話室でのことだ。
共用のソファにだらりと項垂れていたイリーナは、そんなリアの言葉に、ややあって同意した。
「えっ……確かに」
「だよね?前みたいにほら、付き合おうとか言わないの」
リアは、完全に趣味と化しているお菓子作りの最中で、談話室の共同キッチンには焦げ臭いと言うか、なんとも言い難い異臭が漂っている。
当の本人は、以前ピニョとレオに貰ったフリフリのレースがついたピンクのエプロンを付けて楽しそうである。
先ほどから談話室へとやって来ては、顔を顰めて去っていくほかの学院生には、全く気付いていない。
「冗談、なのかなぁ」
イリーナは普段からブスだなんだと悪口を言われているので、それがただの冗談で済ませられないほどイラついているのだが、リアはレオの言葉を冗談だと受け取っていることに多少の哀れみを感じた。
もし真剣に言っているとしたら、残念ながらリアには伝わっていない。まあでも、普段から軽々しくそういうことを言っている本人が悪い。
女好きのクズなレオは、果たして真剣に恋愛をしたことがあるのだろうかと、イリーナはふと思った。
彼の故郷であるヴィレムスには、姉弟子であるアイリーンが眠っているが、彼女のことを話す時のレオはどこか楽しげなので、もしかしたらそういうことだったんじゃないかと思うこともある。
ただ、アイリーンはかなり歳上だし、もう亡くなっているが。
「冗談を言わないレオって、なんだか普通にカッコいいよね」
と、リアが言う。イリーナは思いっきり顔を顰める。
「ま、まあねぇ」
「もういいの?」
「えーっと…何が?」
「イリはレオが好きなんでしょ」
疑問では無かった。リアの中ではそういうことになっているらしい。
「んー……どうかな」
最初はムカつく奴だと思っていた。どうしたって敵わないことに苛立ち、八つ当たりして、勝手に敵視していた。
でもその彼が『金獅子の魔術師』だと知って、ただ憧れを抱いた。あんな風に強くなりたいと思った気持ちに嘘はない。
じゃあ今は?
レオにとって色々なことを知って、その過去を覗いて、本気で救ってあげたいと思った。行動を起こしたことも後悔していない。
でも、そうして帰ってきた今の彼は、以前の様子とは全然違う。
生い立ちがどうとか、してしまったことがどうとか、そんなことはどうでもいい。
彼自身が変わってしまったように思うのだ。そして、近付いたはずの距離がまた分厚い壁で遮られたようにも思う。
「今のレオには、きっと何も伝わらない。なんだかそんな気がする」
「わかるよ。笑ってるのに笑ってないもの」
「そうよね」
「なるほど君たちは、レオにとっていい友人のようだ」
突然談話室に、男の声が響いた。女子寮は原則男子立ち入り禁止のはずなのに。
「シエル!?」
ギョッとして視線を向ければ、イリーナの向かいのソファに白い礼服の魔族がいた。漆黒の髪と正気を感じない灰色の瞳が相変わらず不気味だけれど、発した声には親しみがこもっている。
「酷い匂い…魔族を倒す薬でも作ってるのか?」
「違うわよ!!」
眉間に深い皺を刻んだシエルに、イリーナは一応否定の言葉を投げる。友達のお菓子が、魔族にバカにされるのは嫌だった……匂いについては同感だったのだが。
「まあいいや。それより、レオのことについて、僕は有益な情報を持っている。取引しないか?」
シエルは話しながらパチンと一度指を鳴らした。途端に談話室の空気が、朝露輝く森林のように爽やかなものとなる。
「何よ?言っておくけど、魔族と手を取り合うつもりはないから」
「同じことをレオの前で言える?僕は君たちよりもレオと過ごした時間は長いけど」
ニコリと微笑むシエルに、イリーナはフッと肩の力を抜く。
「冗談よ。シエルには借りがあるもの」
イリーナは居住まいを正してソファに座り直した。向かいでシエルがぞんざいに足を組む。
この借りというのは、レオがジェレシスと行動を共にしていた際、レオを連れ戻す計画を持ちかけてきたことだった。
シエルはジェレシスに協力するフリをしつつ、虎視眈々とその機会を窺っていたのだ。
「まあ、それは別にいいんだ。僕だって大切な友人が傷付くところを眺めていたくはなかったから」
普段飄々としているシエルだが、意外にも根は真面目なんだとイリーナは思っている。しかしレオに言わせれば、ただ自分のおもちゃをジェレシスに取られたくなかったんだ、というどうしようもない理由だ。
「それで、取引ってなんなの?」
借りを返すためらば多少の無理は承知の上。イリーナも、キッチンから出てきたリアも、ゴクリと生唾を飲み込んで、シエルの言葉を待つ。
「まず、レオについての情報だけど…ここへ帰ってきてから、彼は相当悩んでいた」
「そりゃあんなことになっちゃったら誰でも悩むわよ」
「違う。レオは君たちが思っているほど繊細ではない。元々損得勘定は得意な方で、状況と最善策を強かに選べる人間だ。今更人を何人か殺したところで、彼が思っているほど精神的にダメージを負うことはない」
実に魔術師らしい思考の持ち主なのだ。一つをなすなら最大利益を選ぶ。多少の犠牲は厭わない。それが、長くレオと付き合ってきたシエルの持つ印象だった。
だからこそ、今のこの悲劇は生まれてしまったのだ。
「僕には感覚的にしかわからなかったけれど、ダミアンはレオの限界を決定的に裏付けていた。科学的なデータとして、今にも死が近いと、彼に伝えていた」
以前、シエル自身イリーナたちに忠告した。
本来人間が、魔族の力で治癒を繰り返しているとどうなるかについてをそれとなく伝え、レオに無茶をするのを控えさせようとしたのだが。
あの男が素直に聞くはずはなかった。
「それって…レオがもうすぐ死んじゃうってこと!?」
途端にイリーナが青い顔をした。リアも震える手で口元を抑える。
「早とちりだよ。レオはそれを知って確かに動揺していたし、あまり眠れてもいないようだった」
最初はこの先の計画が遂行できるかについて焦っていたように思う。しかし、しばらくするとレオは、シエルにもわかるほど恐怖していた。
人の恐怖心は、魔族にとって好物のようなものだ。持って生まれた性質により、魔族は個体差はあれど嗜虐的な性格をしている。
シエルとてそれは例外ではないが、わざわざ人間を捉えて拷問しようと思うほどでもない。
レオはシエルにもわかるほど、あきらかに恐怖していた。死ぬことが怖いなんて馬鹿馬鹿しいと思ってきたはずのレオが、だ。
でもそれは、大切な友人の名誉のために黙っておくことにする。
「この前の特級任務で、偶然にもチャンスが巡ってきたんだ。これはとある魔術師のプライバシーに関わるので詳しくは話せないけれど」
「シエルって、本当に魔族なの?変なところで人間みたいね」
「僕には教養があるからね…と、まあ、そんなことはどうでもいい。ともかく、レオはそのチャンスを掴んだんだ。近い未来に訪れる死を回避するために、他のものを犠牲にした」
この件は、シエルは偶然だとは思っていない。直接話したわけではないが、レオもそう思っていることはなんとなくわかっている。
ロイネの固有魔術は、偶然にしては都合が良すぎたのだ。裏で糸を引いている人間に心当たりがないわけでもないが、そこら辺はシエルにとってはどうでもよかった。ただおもちゃが壊れなくてよかった、と思ったのみだったのだが。
「僕は人間が好きだ」
なんの脈絡もないシエルの発言に、真剣な顔で話を聞いていたイリーナは、キョトンとした表情を浮かべた。
「へ?」
「ダグラス・ドラゴニアスはかつて、とある魔族と恋に落ちた」
一体なんの話?と、イリーナもリアも大きな瞳をパチクリと瞬く。
「昔は魔族も、感情に鈍感な者が多かった。根底にある欲求を満たすため、快不快でしか己の状態を把握していなかった」
思い通りになれば嬉しい。そうじゃなければ嫌。魔族はそんな、単純な生物だったと言われている。
「ダグラスは魔族を愛し、感情を魔族に教えた。快、不快の二択だった我々に、ソレ以外の感情が芽生えたのは、ダグラスのおかげだった」
「ちょ、ちょっと!!一体何の話をしているのよ?」
レオについての重要な情報を得ていると思っていたのに、急に知らない人の話にすり替わってしまった。イリーナは混乱する頭でシエルを睨みつける。
「君たち人間には、魔力持ちとそうでない者が産まれるだろう。さらには魔族のように固有魔術をもって産まれる人間もいる。それは昔人間と魔族が交わったことがあるからだと、レオは言っていた」
「確かに…そんな仮説を立てている学者もいるわ」
そこでシエルはフッと目元を緩めて微笑んだ。まるで人間が、親しい誰かを見る時のように。
「それはね、事実なんだよ。始まりの魔術師であるダグラスは、愛した魔族に感情を芽生えさせ、その見返りに魔力を貰った。二人の間にできた子どもも当然魔力を持っていた」
「……それってつまり、仮説は正しいってこと?」
「そう。人間はもう忘れてしまうほど昔のことだ。でも僕たち魔族は、人間よりも遥かに寿命が長い。僕の城には、ダグラスの残した書記がいくつか残っている」
イリーナもリアも、驚きで目を見開いていた。つまり、魔力を持つ自分たちは、遠い祖先のどこかに魔族がいたかもしれないのだ。
「まあ、余談はさておいて。感情は魔力コントロールに大きな影響を及ぼす。レオは常にそう言っているが、これは正しい。魔族が強いのは余計なことを考えないからだ。でも、人間が強いのもまた、感情を持っているからなんだと僕は思うんだ」
だからこそ、シエルは人間が好きなのだ。昔々彼らからもたらされた恩恵は、今の自分を有意義なものにしてくれている。本気でそう思っているからこそ、シエルはレオと血の契約を結んだ。始まりの魔術師と同じように。
「つまり何が言いたいのよ?」
イリーナが半端身を乗り出して言う。
「レオは死を回避するために、感情を対価にした。今の彼は、以前の自分をトレースするだけのただの人形だ」
沈黙が談話室を支配した。どこかの部屋から、楽しげな女子の会話が漏れ聞こえてくる。しかし、今ここはまったく正反対の空気で溢れていた。
「わたし、おかしいと思ったの」
口を開いたのはリアだった。
「どこか無理して笑顔を浮かべているんじゃないかって、ずっと気になってたの」
イリーナもそうだ。普段の何気ないやりとりから、わずかな違和感を覚えていた。だからこその、先程の会話なのだ。
「レオは、いつも自分ひとりだけで、全部抱えてしまうのね」
「いつもそうよ!何のためにあたしたちがいると思ってんの……」
本当はなんでも話して欲しいと思う。もちろん、レオの立場では、自分たちのような下っ端に話せないこともたくさんあるだろう。
でもせめて、気持ちは知りたい。何もしてあげられない自分たちが、厚かましいとも思うけれど。
「モグラの気持ちがわからないように」
「…はぇ?」
またもシエルが、突拍子もないことを言った。
「僕や君たちにモグラの気持ちはわからない。なぜなら同じ言語で話せないからだ。モグラだって、目も見えず、嗅覚のみで土を掘っているけれど、本当はとても欲深く昆虫を探しているのかもしれない。反対に、何も考えていないかもしれない」
「アンタって、だいぶ変わってるわよね」
という、イリーナの言葉を無視して、シエルは続けた。
「魔族である僕を、人間である君たちは受け入れてくれている。それは対等に、同じ言語で交流をもつことができているからだ。必要なのはお互いの共感力。君たちはレオと同じ人間だ……どうか、レオに感情を取り戻してあげて欲しい」
僕には無理だから、とシエルは深く頭を下げた。
イリーナもリアも、普段尊大な態度で話すシエルが、ただの人間である自分たちに頭を下げていることに驚き、同時になんだか温かいものが込み上げてきた。
シエルもレオも、口ではお互いをただの腐れ縁だ、利用しているだけだなどと言っているけれど、実際は強い絆で結ばれている。
イリーナとリアがそうであるように、彼らは種族など些細な誤差なんて構わないほど、お互いを信用している。
「シエルは間違ってる」
ふと、リアがシエルに歩み寄り、硬く握りしめた拳に触れた。シエルが顔を上げる。驚いたという顔をしていた。
「取引なんて言わないで。わたしもレオを助けてあげたい。気持ちは同じなんだから、こう言うときはね、協力しようって言うのよ」
「そうよ。アンタに取引なんて言われたら、こっちも身構えちゃうじゃない」
イリーナは苦笑いを浮かべ、シエルを真っ直ぐ見やった。
「いいわよ。三人で、レオの感情を取り戻してあげましょ」
この時の、シエルの驚いた顔を、イリーナもリアも忘れないだろう。
魔族と人間の違いは、一体どこにあるのだろう。
それは魔術師として抱いてはいけない疑問なのかもしれない。でも、シエルが言うように、お互い同じ言葉を話し、共感を持つことができるのだ。
そこに大きな違いなんて、ないのだ。
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